人物

紀貫之

Ki no Tsurayuki
AD872年頃 – AD945年頃(享年73・推定)
平安時代重要度 5

概要

『古今和歌集』の編者で仮名序の作者。「力をも入れずして天地を動かし」。歌合の判者。土佐守の帰り道を女の振りで書いた『土佐日記』は仮名の日記の最初。「男もすなる日記といふものを」。歌は下手だと正岡子規に言われ、それから100年、擁護され続けている。

関わったできごと(2)

『古今和歌集』AD905年(延喜5年) · 編んだ紀貫之『土佐日記』とかな文字AD935年(承平5年)ごろ · 書いた

本文

紀貫之は872年ごろに生まれたとされる。紀氏は大伴氏と並ぶ古い武門の家柄だったが、平安時代に入ると藤原氏の勢いに押されて政治の中心から遠ざかっていた。貫之が生まれる数年前には応天門の変で伴氏(大伴氏)が失脚し、紀氏の一族も連座している。父は紀望行。若くして父を亡くしたらしい。

応天門の変に関わる図版:Heian-jingu, Outen-mon-3
応天門の変Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

貫之は、官人としてより、歌人として世に出た。890年代、宇多天皇の時代には宮中で歌合が盛んに開かれ、貫之もその場で歌を詠んだ。当時は漢詩が公の文学であり、和歌は私的な恋のやりとりの道具と見られていた。その和歌を公の文学に引き上げようとする動きが、この頃に高まっていた。

905年、醍醐天皇は和歌の集を作るよう命じた。初めての勅撰和歌集、『古今和歌集』である。編者には、貫之と従兄弟の紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が選ばれた。年長の友則は完成を見ずに亡くなり、30代の貫之が中心となって編纂を進めた。約1100首を四季、恋、別れ、旅などの部立てに分けて並べる構成は、その後千年にわたる和歌の集の手本となった。集には貫之の歌が最も多く、100首あまりが採られている。905年は編纂を命じられた年で、実際に完成したのはその数年後と考えられており、その後も歌の差し替えが続いたらしい。漢字の音や訓を借りて日本語を書き表す仮名が整ってきたことが、この大きな集を可能にした。

『古今和歌集』に関わる図版:Kokin Wakashu Genei
『古今和歌集』Wikimedia Commons Public domain

貫之が書いた仮名の序文「仮名序」は、和歌について日本語で書かれた最初の本格的な評論である。やまとうたは、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける、と書き出し、力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思わせ、男女の仲をもやわらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり、と和歌の力をうたった。さらに、在原業平や小野小町ら少し前の時代の名歌人6人を挙げ、業平は心が余って言葉が足りない、などと一人ずつ論評している。この6人が後に「六歌仙」と呼ばれるようになる。集にはもう一つ、漢文で書かれた「真名序」もあり、こちらは紀淑望の作とされる。

貫之の歌は、理知的で技巧に富む。たとえば、桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける。散る桜の花びらを、空の知らない雪に見立てた歌である。見たものをそのまま詠むのではなく、心で一度組み立て直し、言葉の上の発見に興趣を求めた。貴族の屋敷の屏風に描かれた絵に合わせて歌を詠む屏風歌の注文も多く、貫之は当代一の専門歌人として重んじられた。『小倉百人一首』には、人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににおいける、が採られている。

紀貫之の肖像
紀貫之の肖像Wikimedia Commons Public domain

だが官人としての出世は遅かった。930年、60歳近くになってようやく土佐守に任じられ、四国の土佐に赴いた。同じ年、歌の庇護者だった醍醐天皇が亡くなっている。貫之は天皇から命じられていた秀歌選『新撰和歌』を土佐で仕上げた。

934年の暮れ、任期を終えた貫之は、土佐の国府を発ち、船で京へ向かった。12月21日に出発し、京の自宅に着いたのは翌年の2月16日、55日の旅だった。この旅を綴ったのが『土佐日記』である(紀貫之『土佐日記』とかな文字)。冒頭に、男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり、とある。男が書くという日記を、女の私も書いてみよう。当時、男の日記は漢文で書く公的な記録だった。貫之は女に仮託することで、仮名で、私的な心の動きを自由に書いた。

紀貫之(狩野探幽『三十六歌仙額』)
紀貫之(狩野探幽『三十六歌仙額』)Wikimedia Commons Kanō Tan’yū · Public domain

日記には、旅の一行のさまざまな姿が描かれる。見送りの人々との別れ、風待ちで何日も港に留まる退屈、出ると噂される海賊への恐れ。この頃、瀬戸内海では海賊の活動が激しくなっており、まもなく藤原純友がその頭目として朝廷に背くことになる。住吉の沖で突然吹き荒れた風を鎮めるため、大切な鏡を海に投げ入れる場面もある。そして日記の底を流れるのが、土佐で亡くした幼い娘への思いである。都へ帰ると思うのに悲しいのは、一緒に帰らない人がいるからだ、という歌が記され、京の荒れた家に戻った最後の場面でも、その思いは消えない。

仮名による散文の文学は、ここから始まった。『蜻蛉日記』、『紫式部日記』、『更級日記』と続く女性たちの日記文学、そして紫式部の『源氏物語』は、『土佐日記』の約70年後から100年後に書かれる。男の貫之が女の振りをして開いた道を、本物の女性たちが歩んでいったことになる。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

その後の貫之は、従五位上、木工権頭といった中級の官にとどまり、945年ごろに亡くなったとされる。

貫之の名声は、中世を通じて揺るがなかった。藤原定家らは貫之を和歌の規範として仰ぎ、『古今和歌集』の解釈を秘伝として伝える「古今伝授」も生まれた。それを覆したのが正岡子規である。1898年、子規は『再び歌よみに与ふる書』で、貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候、と断じ、『万葉集』の素朴で力強い歌こそ手本にせよと説いた。この一撃以後、古今集と貫之は長く低く見られた。だがそれでも、和歌は人の心を種とする、という仮名序の言葉は、日本の詩歌の定義として今も読まれ続けている。

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