紫式部
概要
『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
所属
日本関わったできごと(1)
『源氏物語』AD1008年頃 · 著者本文
紫式部の本名は分かっていない。生まれた年も、970年代の前半とする見方が多いが、確かではない。紫式部という名は宮中での呼び名で、はじめは藤式部と呼ばれていた。藤原氏の出身であることの「藤」と、父や兄弟の官職である式部丞の「式部」を合わせたものである。それがいつしか紫式部に変わった。自分の書いた物語の女主人公紫の上にちなむとも、藤の花の色の縁からともいわれる。

父の藤原為時は、漢詩文に優れた学者だった。藤原氏の中でも摂関家から遠く離れた傍流で、官職には恵まれなかった。曾祖父の藤原兼輔は『古今和歌集』の時代の歌人として知られ、家には学問と和歌の伝統があった。母は早くに亡くなったと考えられている。
本人が『紫式部日記』に書き残した思い出がある。幼い頃、弟が父から漢籍の『史記』を習っていたとき、そばで聞いていた式部のほうが先に覚えてしまい、弟がつかえるところをすらすらと答えた。父は、この子が男でなかったのが残念だ、と嘆いたという。漢文は男の学問とされた時代で、女が漢籍に通じていることは、ほめられるより陰口の種になった。式部は後年、宮中で「一」という漢字さえ書けないふりをしていた、とも日記に書いている。

996年、父が越前守になると、式部も越前(いまの福井県)へ下った。都の外で暮らしたのは、生涯でこの時期だけと考えられている。1年あまりで都へ戻り、998年ごろ、藤原宣孝と結婚した。宣孝は父と同じ世代の、年の離れた男で、ほかにも妻や子がいた。娘の賢子が生まれたが、1001年、宣孝は流行り病で死んだ。結婚生活は3年ほどだった。
『源氏物語』が書き始められたのは、夫と死別した後のことと考えられている(『源氏物語』)。書いたものは知人の間で回し読みされ、評判が広がっていった。1005年か1006年の暮れ、式部は時の最高権力者藤原道長に招かれ、一条天皇の中宮となっていた道長の娘彰子に仕えることになった。物語の評判が、道長の目に留まったためとされる。道長は、娘のもとに才ある女房を集めることで、天皇の関心を彰子の御殿に引き寄せようとしていた(摂関政治の頂点)。

宮仕えは、式部にとって心地よいものではなかった。日記には、華やかな宮中にいながら、自分はなじめないと嘆く言葉が繰り返し出てくる。一条天皇が物語を読ませて、この作者は日本紀(日本の歴史書)をよく読んでいるようだ、と感心したところ、それを聞いた女房が、式部に「日本紀の御局」というあだ名をつけて言いふらした。式部はそれをつらく思ったと書いている。一方で、彰子には頼まれて、白居易の詩集のうち政治や社会を詠んだ楽府の部分を、人目につかないように講義していた。
1008年、彰子は皇子を産んだ。のちの後一条天皇である。日記は、その出産の前後の宮中の様子を細かく記している。この年の11月1日、皇子の誕生50日の祝いの宴で、酔った公卿の藤原公任が、このあたりに若紫はおいでかな、と式部に声をかけた。『源氏物語』の登場人物の名を出した戯れである。これが、物語が宮中で読まれていたことを示す最も古い記録になっている。日記には、同じ時代に一条天皇の皇后定子に仕えていた清少納言を、利口ぶって漢字を書き散らしているが、よく見れば足りないところが多い、と手厳しく評した一節もある。二人が宮中で顔を合わせた記録は無く、清少納言は式部が出仕する前に宮仕えを退いていた。

『源氏物語』は54帖、およそ100万字に及ぶ。帝の子に生まれながら臣下に下った光源氏の恋と栄華、その晩年の苦しみ、そして死後の世代の物語まで、70年あまりの時間が流れる。人は老い、若い頃の振る舞いが後になって報いとして返り、同じ人物が年を重ねて違って見えてくる。物語の語り手は、登場人物の心の内に入り込みながら、ときに批評も挟む。かな文字で書かれた宮廷の物語として、紀貫之『土佐日記』とかな文字から始まるかなの文学の流れの頂点に立つ作品である。
『源氏物語』は書かれてまもなく、都の貴族の間で広く読まれた。物語が書かれていた頃に生まれた菅原孝標の娘は、少女の頃、東国から都へ上る旅の間じゅう物語のことを思い続け、都で全巻を手に入れて、昼も夜も読みふけった喜びを、晩年に『更級日記』に書いている(『更級日記』)。

宮仕えの後の式部のことは、ほとんど分からない。1013年ごろまでは彰子のもとに仕えていたとみられるが、亡くなった年は1014年ごろとする説から1030年前後とする説まで幅がある。後世の系図には、道長の妾であったと注記するものがあり、日記にも道長が夜に戸を叩いた場面があるが、二人の関係がどのようなものだったかは確かめられない。物語を石山寺で書き始めたという話も、後の時代の伝説である。娘の賢子も宮仕えに出て、大弐三位と呼ばれる歌人になった。『源氏物語』は、その後の千年にわたって写され、注釈され、絵に描かれ、能や浄瑠璃や近代の小説にまで題材を与え続けた。20世紀には英語をはじめ多くの言葉に訳され、世界で最も古い長編小説の一つとして読まれている。