メディチ銀行
概要
ジョヴァンニ・ディ・ビッチが、フィレンツェに銀行を開いた。革新は組織にある。各地の支店を、本店が出資する別々の合名会社にした。一つの支店が潰れても、他へ及ばない。支店長は共同経営者で、利益を分ける。ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン。最大の顧客は教皇庁で、全ヨーロッパの教会収入がこの銀行を通った。孫のロレンツォの代に、貸し倒れと放漫な経営で傾き、1494年、フランス軍の侵入とともに終わった。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(2)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチAD1360年–AD1429年2月20日 · 開いたロレンツォ・デ・メディチAD1449年1月1日–AD1492年4月8日 · 傾けた本文
十三世紀から、フィレンツェは金融の都市だった。1252年に鋳造が始まったフィオリーノ金貨は、純度が高く重さが安定していたため、ヨーロッパ中で通用する国際的な通貨になった。毛織物の商いで蓄えた富をもとに、バルディ家やペルッツィ家のような大銀行が育ち、各国の王侯に金を貸した。そして、潰れた。1340年代、イングランド王エドワード3世は、百年戦争の戦費として借りた巨額の返済を拒んだ。バルディ家とペルッツィ家は1340年代半ばに相次いで破産し、フィレンツェの経済は大きく揺らいだ。王侯に貸すのは危ない。だが王侯のほかに、それほどの額を借りる者はいない。のちのメディチ家もこのジレンマから逃れられなかった。
メディチ家は十三世紀からフィレンツェにいた家だが、とりたてて有力ではなかった。名前は医師を意味する言葉に由来するとされるが、医業を営んだ記録はない。家紋の丸い球が丸薬なのか両替商の硬貨なのかも、はっきりしない。ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年ごろ〜1429年)は、その傍系の、裕福とはいえない家に生まれた。遠い親類のヴィエーリ・デ・メディチが営む銀行で修業を積み、そのローマ支店を任された。ローマが重要だったのは、教皇庁の金を扱えるからである。1393年にヴィエーリが引退すると、ジョヴァンニはローマの事業を引き継ぎ、1397年に本店をフィレンツェに移した。これがメディチ銀行の始まりとされる。

ジョヴァンニと息子コジモが打ち立てた銀行の強みは、金融の技術よりも組織の作り方にあった。銀行はローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ(のちにリヨン)、ブリュージュ、ロンドン、ピサ、ミラノ、アヴィニョンなどに支店を持ったが、それぞれの支店は独立した合名会社だった。フィレンツェの本家が出資の大半を出し、残りを支店長が出す。一つの支店が破綻しても、法の上ではほかの支店に責任は及ばない。もっとも実際には、本家が救いの手を差し伸べざるをえない場面も少なくなかった。
支店長は雇われ人ではなく、利益を分け合う共同経営者だった。だから懸命に働く。その一方で、契約には、誰に貸してはいけないか、どこまでの額なら本店の許しなく貸せるか、投機をしてはいけないことなどが細かく書かれていた。支店は毎年、複式の帳簿に基づく決算書を本店へ送った(複式簿記の刊行)。フィレンツェの文書館に残るこうした帳簿や書簡を読み解いて、二十世紀の歴史家レイモンド・ド・ローヴァーが1963年に著した研究が、いまもこの銀行についての理解の土台になっている。

銀行は金貸しだけをしていたわけではない。毛織物や絹織物の工房を持ち、染め物に欠かせない明礬の取引にも深く関わった。1462年に教皇領のトルファで明礬の鉱山が見つかると、メディチ銀行はその採掘と販売の権利を得た。教皇はオスマン帝国からの明礬の輸入を禁じ、銀行は事実上の独占を手にした。
最大の顧客は教皇庁だった。ヨーロッパ中の教会から教皇庁へ納められる十分の一税や、聖職に就いた者が納める初年度の収入などの金は、遠い司教区から現金で運ぶのではなく、銀行の為替手形で送られた(為替手形)。その金が銀行の手元にとどまるあいだ、銀行はそれを運用できた。十五世紀の前半には、ローマ支店の利益が銀行全体の利益の半分以上を占めた年もあった。教会は利子を取る貸し付けを高利として禁じていたが、銀行は為替の差益という形をとって、その禁を巧みにかわしていた。

1429年にジョヴァンニが死ぬと、息子のコジモ(1389〜1464年)が後を継ぎ、その代に銀行は最盛期を迎えた。コジモは政治も握った。1433年、対立する党派によってフィレンツェを追われたが、翌年には呼び戻され、以後は公職にほとんど就かないまま、金と縁故と恩義の網によって、共和国の実質的な支配者であり続けた。
メディチ家の富は芸術と学問に注がれた。ブルネレスキはメディチ家の菩提寺サン・ロレンツォ聖堂を手がけ、ドナテッロは青銅のダヴィデ像を作り、ミケロッツォはメディチ家の邸宅を建てた。コジモはサン・マルコ修道院の再建の費用を出し、そこにフラ・アンジェリコが壁画を描き、ヨーロッパでも早い時期の公開の図書館が設けられた。哲学者フィチーノにプラトンの著作をラテン語に訳させたのもコジモである。晩年のコジモが教会と芸術に莫大な金を投じた理由として、高利貸しの罪を贖うためだったという見方もある。

孫のロレンツォ(1449〜1492年)は「豪華王」と呼ばれた。詩人であり、芸術家の保護者であり、外交の達人だった。1478年、対立するパッツィ家が教皇シクストゥス4世の後ろ盾を得て陰謀を企て、大聖堂のミサの最中にメディチ兄弟を襲った。弟のジュリアーノは殺され、ロレンツォ・デ・メディチは傷を負いながら逃れた。その後、敵方についたナポリの王のもとへ自ら乗り込んで和平をまとめ、名声を高めた。ボッティチェリのような画家たちの周りにも、ロレンツォとその一族がいた。
だが、銀行家としてのロレンツォは凡庸だった。支店の経営を、能力よりも縁故で選んだ者たちに任せた。ロンドン支店とブリュージュ支店は、イングランド王エドワード4世やブルゴーニュ公シャルルへの貸し付けが焦げつき、相次いで行き詰まった。百年前にバルディ家を潰したのと同じ失敗である。ブリュージュ支店を率いたトンマーゾ・ポルティナーリは、ブルゴーニュの宮廷に食い込んで大きな貸し付けを重ねた人物で、フランドルの画家フーゴー・ファン・デル・グースに描かせた大きな祭壇画にその名を残している。この祭壇画はフィレンツェに送られ、イタリアの画家たちを驚かせたが、銀行にとっては高くついた取引の記念碑でもあった。リヨン支店でも、支店長が許可なく貸し付けて大きな損を出した。ロレンツォ自身も、芸術や祝祭や政治のために銀行の金を使い、フィレンツェの公の基金に手をつけたとも疑われている。

1492年にロレンツォが死ぬと、息子のピエロが後を継いだ。1494年、フランス王シャルル8世が大軍を率いてイタリアに攻め込むと、ピエロは戦わずに相手の要求をのみ、市民の怒りを買った。メディチ家はフィレンツェを追われ、銀行の資産は差し押さえられ、およそ百年続いた銀行はここで終わった。フィレンツェでは修道士サヴォナローラが人々の心をつかみ、1497年には贅沢品や絵画、書物が広場で焼かれた(虚栄の焼却)。
一族そのものは、その後も歴史の表舞台に戻ってくる。メディチ家は1512年にフィレンツェへ帰り、追放と復帰を繰り返した末に、トスカーナ大公の家になった。ロレンツォの息子は教皇レオ10世となって、ルターの宗教改革と向き合った。カトリーヌ・ド・メディシスとマリー・ド・メディシスの二人はフランスの王妃になった。1737年に男系が絶えると、最後の一人アンナ・マリア・ルイーザは、一族が集めた美術品をすべてトスカーナに譲り、ただし一点たりともフィレンツェから持ち出してはならないと定めた。ウフィツィ美術館やピッティ宮殿の収蔵品がいまもフィレンツェにあるのは、そのためである。銀行が稼いだ金は、銀行が消えた後も、町の姿として残り続けている。