できごと

『紅楼夢』

Dream of the Red Chamber
AD1760年頃
年に諸説あり重要度 5
『紅楼夢』に関わる図版:Hongloumeng2
Hongloumeng2 Wikimedia Commons Public domain

概要

曹雪芹。祖父が江寧織造として康熙帝の南巡を4度迎えた家が、雍正帝に財産を没収されて没落した。北京の西郊で、粥をすすりながら、10年、5回書き直した。賈家の大邸宅の栄えと衰え、宝玉と黛玉と宝釵、400人以上の人物。80回で筆が止まり、高鶚が120回に整えて1791年に刊行された。中国の小説の頂点とされ、これだけを研究する学問(紅学)がある。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

曹雪芹AD1715年頃–AD1763年頃 · 書いた

本文

作者曹雪芹の家は、清の宮廷と特別な縁で結ばれていた。曹家はもとは漢人だが、早くに満洲人の支配下に入り、八旗に属する皇室の家内奴僕(包衣)の身分から身を起こした一族である。曹雪芹の曾祖母は康熙帝の乳母を務め、祖父の曹寅は少年時代の康熙帝の遊び相手、学友だった。曹寅は南京で江寧織造の職に就いた。宮廷で使う絹織物を調達する役所の長であり、同時に、江南の官僚や文人の動きを皇帝に直接報告する、信頼された耳目でもあった。康熙帝が生涯に6度行った江南への巡幸のうち4度、皇帝は曹家を宿所とした。曹家は曾祖父の代から三代、60年近くにわたって江南の富と文化の中心にいた。

その栄華は一代で崩れた。1712年に曹寅が死に、跡を継いだ子や甥の代に、役所の帳簿には大きな穴が空いていた。康熙帝の跡を継いだ雍正帝は、前代の寵臣たちに冷たかった。1728年のはじめ、曹家は公金の欠損などを理由に職を解かれ、家財を没収された(抄家)。一家は北京へ移された。曹雪芹の生年は1715年ごろとも1724年ごろとも言われ、このとき少年だったことは確かだが、何歳だったかは説が分かれる。

賈宝玉(か・ほうぎょく)
賈宝玉(か・ほうぎょく)Wikimedia Commons Gai Qi · Public domain

その後の彼の暮らしについて分かることはわずかである。友人だった皇族の兄弟、敦誠と敦敏の詩文が、ほとんど唯一の手がかりになる。晩年の彼は北京の西の郊外の村に住み、粗末な家で、粥をすすり、酒はいつも掛けで買っていたという。酒を好み、石や岩の絵を描き、詩を作り、話し始めると機知に富んだ談論が尽きなかった、と友人たちは書いている。1763年か64年の大晦日に、彼は貧窮のうちに死んだ。その少し前に幼い息子を亡くし、悲しみから病が重くなったと伝えられる。40代の死だったとする見方が多い。

彼がその晩年を費やして書いていたのが、もとの題を『石頭記』という長編小説だった。第1回には、曹雪芹が悼紅軒という部屋で10年にわたって読み返し、5度にわたって書き加え削った、と記されている。

林黛玉(りん・たいぎょく)
林黛玉(りん・たいぎょく)Wikimedia Commons Gai Qi · Public domain

物語は神話の枠組みから始まる。太古、女神の女媧が崩れた天を補うために石を練ったとき、一つだけ使われずに残った石があった。霊力を得たその石は、人間の世の栄華を見たいと願い、僧と道士に連れられて地上に降りる。地上では、都の名門、賈家の栄国府に、口に美しい玉をくわえて生まれた男の子がいた。賈宝玉である。一方、天界の川のほとりに生えていた一本の草は、前世で水を注いで育ててもらった恩を、生涯の涙で返すために、林黛玉として人の世に生まれる。

賈家は、皇帝の妃を出したほどの名家で、栄国府と寧国府の二つの屋敷を構え、同じような名門の史家・王家・薛家と婚姻で結ばれている。妃となった娘の里帰りを迎えるために、大観園という壮麗な庭園が造られ、宝玉は従姉妹や侍女たちとそこに住むことを許される。宝玉は科挙のための勉強や立身出世を軽蔑し、女の子は水でできていて、男は泥でできている、と言うような少年で、園の中の娘たちとの詩会や遊びに日々を過ごす。

薛宝釵(せつ・ほうさ)
薛宝釵(せつ・ほうさ)Wikimedia Commons Gai Qi · Public domain

宝玉の心は、聡明で詩才にあふれ、病弱で、感じやすく、すぐに傷つき、皮肉も口にする従妹の黛玉に向かっている。しかし家の大人たちが嫁にふさわしいと考えたのは、もう一人の従姉、穏やかで賢く、世間の道理をわきまえた薛宝釵だった。いま読まれている120回本では、家族は宝玉をだまして宝釵と結婚させ、その婚礼の夜、黛玉は宝玉への恨みを込めて詩稿を焼き、息を引き取る。

そして家は傾いていく。浪費と借金、一族の者の不正、宮廷の後ろ盾の喪失、ついには家財の没収。大観園の娘たちは、病で死に、意に沿わない縁組に出され、あるいは自ら命を絶つ。最後に宝玉は科挙に合格したのち、姿を消す。雪の降る川辺で、僧と道士に伴われた宝玉が、父に深く一礼して去っていく場面で、物語は閉じられる。

上京する黛玉
上京する黛玉Wikimedia Commons Sun Wen (1818-1904) · Public domain

登場人物は数百人に及び、庭園の造り、衣装、料理、薬の処方、詩会の題、芝居の演目、賭け事、葬礼の段取り、屋敷の会計まで、18世紀の中国の上流家庭の暮らしが細部まで描かれている。作者の家の盛衰が下敷きにあることは、ほぼ疑いない。

作品が世に出た経緯は複雑である。曹雪芹の生前から、80回までの写本が親しい人々の間で回し読みされた。その多くには「脂硯斎」と名乗る人物らの朱筆の書き込みがあり、作者の身近にいた親族と考えられている。その批評の中には、後半の筋書きの断片や、失われた原稿への言及が混じっていて、曹雪芹の構想が現在の結末とは違っていたらしいことをうかがわせる。

太虚幻境(たいきょげんきょう)を訪れる賈宝玉
太虚幻境(たいきょげんきょう)を訪れる賈宝玉Wikimedia Commons Sun Wen (1818-1904) · Public domain

1791年、程偉元と高鶚が、120回の本を木活字で刊行した。翌年には手を入れた版も出た。後半の40回は、高鶚が書き足したものだというのが長く定説だったが、近年は、曹雪芹の残した草稿を整理した部分も含まれているという見方もある。前半と後半の文体や人物の描き方の違い、作者が本当に書きたかった結末は何だったのかという問題は、200年以上議論が続いている。

この一つの小説だけを研究する学問が生まれ、「紅学」と呼ばれる。清末には、登場人物を実在の政治家や宮廷の事件に当てはめて読む人々がいた。1921年、胡適は曹家の家系の記録を調べ上げ、この小説が作者自身の家をもとにした自伝的な作品であることを論証して、研究を一新した。1950年代には、毛沢東の後押しのもとで、この作品を封建社会の階級闘争を描いたものとして読むよう求める運動が起こり、ある研究者が激しい批判にさらされた。

黛玉が花を埋める場面『黛玉葬花』
黛玉が花を埋める場面『黛玉葬花』Wikimedia Commons Sun Wen (1818-1904) · Public domain

中国では、明清の長編小説の中でも、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並ぶ「四大名著」の一つとされ、多くの読者がその頂点にこの作品を置く。いまも学校で読まれ、繰り返しドラマや映画になっている。華やかな庭園の日々が、すでに失われたものとして描かれていることに気づいたとき、読者はこの物語が、没落した家に生まれた一人の男が、記憶の中の娘たちのために書いた挽歌でもあったことを知るのである。

動画(1)

059 清の文化 世界史20話プロジェクト第07話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第59講「清の文化」

同じ時代のできごと

マリア・テレジアの統治1740年オーストリア継承戦争AD1740年公事方御定書AD1742年(寛保2年)ヘンデル『メサイア』初演AD1742年4月13日フランクリン・ストーブAD1742年温度の目盛AD1742年クリケットの決まりAD1744年カシニのフランス測量図AD1744年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1760年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →