景徳鎮の磁器

概要
一つの町が、世界の磁器を焼いた。分業で一日に数万点を作り、ペルシアの藍で染めた皿がイスタンブルにもアムステルダムにも届く。最初の世界商品の一つになる。
場所
29.27°N 117.18°E · 中国・江西省
本文
江西省の北東、山あいの町景徳鎮のまわりには、磁器に必要なものがそろっていた。近くの山から出る白い粘土と陶石、窯を焚く松の木、そして焼いた器を運び出す川になる。川は鄱陽湖を経て長江につながり、そこから中国の各地へ、さらに海の港へと器が運ばれた。
この町では唐の時代から焼き物が作られていた。宋の1004年、皇帝の年号「景徳」にちなんで、町は景徳鎮と名を改めた(宋の成立)。宋の時代には、ほのかに青みを帯びた白い磁器、青白磁が焼かれて名を上げる。磁器は陶器より高い温度で焼き締めるため、硬く、薄く、叩くと澄んだ音がし、光にかざすと透けて見えるほどになる。

元の時代、二つの革新が起きた。一つは土で、近くの高嶺という村の白い粘土を陶石に混ぜることで、より高い温度に耐え、大きな器も歪まずに焼けるようになった。ヨーロッパの言葉で磁器の粘土をカオリンと呼ぶのは、この村の名から来ている。もう一つは青い絵付けで、ペルシアから運ばれたコバルトの顔料で白地に文様を描き、透明な釉をかけて焼く技法が14世紀に確立した。染付(青花)と呼ばれる。モンゴルの帝国がユーラシアの東西をつないだ時代で、大ぶりの皿の多くは、イスラームの国々の宴に向けて作られた。
明の時代になると、宮廷のための器を焼く官窯がこの町に置かれた。皇帝の器を焼く窯は厳しい監督のもとで最高の品を作り、民間の窯は国内と海外に向けて大量に焼いた。17世紀に書かれた技術書『天工開物』は、一つの器ができあがるまでに72回も人の手を経る、と書いている。土をこね、形を作り、削り、絵を描き、釉をかけ、窯に詰め、焼き、取り出す。工程ごとに専門の職人がいて、分業で大量の器を生み出す仕組みは、産業革命の前の大きな工場に近いものだった。

海の道を通って、器は世界へ出ていった。東南アジア、インド、ペルシア、アラビア、アフリカ東岸。泉州の海上交易の時代から磁器は中国の主な輸出品で、鄭和の南海遠征の船も磁器を積んでいた。イスタンブルのトプカプ宮殿には、オスマンの宮廷が集めた中国の磁器が1万点以上残り、イランのサファヴィー朝の霊廟にも名品が納められた。
ヨーロッパでの熱狂は、17世紀に始まる。1602年と翌年、オランダ人がポルトガルの大型船を捕らえ、積まれていた大量の中国の磁器をアムステルダムで競売にかけると、王侯や裕福な市民が争って買った。以後、オランダ東インド会社は景徳鎮の器を大量に輸入する(オランダの黄金時代)。オランダのデルフトの陶工たちは、白い釉の陶器に青い絵を描いて、その姿をまねた。デルフト焼になる。

明から清へ王朝が替わる17世紀の半ば、戦乱で景徳鎮の生産と輸出が落ち込んだ。そのあいだ、オランダ東インド会社は日本の肥前で焼かれた磁器を買い付けた。有田の器は伊万里の港から積み出され、ヨーロッパでも伊万里と呼ばれて人気を集めた。清の康熙帝の時代に景徳鎮が立ち直ると、中国の器が再び市場を取り戻していく。
18世紀のはじめ、フランスのイエズス会の宣教師ダントルコールが景徳鎮に入り、製法を詳しく書いた手紙をヨーロッパに送った。そこには、窯の炎が夜も上がり続け、町全体が燃えているように見える、という描写がある。ヨーロッパの王侯は、自前で磁器を焼こうと競い合った。1709年、ザクセンの錬金術師ベトガーが白い磁器の製法にたどり着き、翌年、マイセンに窯が開かれた。中国が千年近く前から焼いてきたものを、ヨーロッパはようやく自力で作れるようになった。

清の時代、景徳鎮の官窯は康熙、雍正、乾隆の3代の皇帝のもとで技の頂点を迎え、色とりどりの絵の具で描く粉彩などの新しい器が生まれた。だが18世紀の後半からは、ヨーロッパの磁器工場が力をつけ、輸出は細っていく。19世紀の半ばには太平天国の戦乱で町が焼かれ、官窯は衰えた。
それでも景徳鎮は、いまも中国の磁器の都として窯の煙を上げている。英語で磁器を意味する言葉が、国の名と同じ「チャイナ」であることが、この町の器がかつて世界でどれほどの意味を持っていたかを物語っている。