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Person / 人

フランツ・シューベルト

Franz Schubert
AD1797年1月31日 – AD1828年11月19日(享年31)
オーストリア重要度 5

概要

ウィーンの小学校教師の子。14人兄弟のうち9人が幼くして死んだ。宮廷礼拝堂の少年合唱団、そして父の学校の助教師。18歳の1年間に、歌曲を145曲書いた(10月19日だけで8曲)。生涯、定職を持たず、友人の家を泊まり歩き、「シューベルティアーデ」と呼ばれる集まりで自作を演奏した。600曲以上の歌曲、交響曲、室内楽。31歳で腸チフス(梅毒の治療の水銀が体を弱らせていた)。ベートーヴェンの隣に葬られた。

関わったできごと(1)

シューベルト『冬の旅』AD1827年 · 作曲した

本文

1797年1月31日、ウィーン郊外リヒテンタール。父フランツ・テオドールは小学校の教師(モラヴィアの農民の子から、自力で教師になった)。母エリザベートは錠前屋の娘で、料理人として働いていた。14人の子が生まれ、9人が幼くして死んだ。

音楽は、家で覚えた。父からヴァイオリン、兄イグナーツからピアノ。教区の聖歌隊長ホルツァーが「何かを教えようとすると、すでに知っていた」と回想している。

1808年、11歳。宮廷礼拝堂の少年聖歌隊(いまのウィーン少年合唱団の前身)の試験に合格。寄宿制のコンヴィクト(神学校)へ。学校のオーケストラでヴィオラを弾き、宮廷楽長サリエリに作曲を習った。手紙に「五線紙を買う金がない」と書いている。

1813年、声変わりで学校を出た。徴兵を避けるため、父の学校の助教師になった。3年。最年少の組を教えた(向いていなかった。子供を叩いた、という証言がある)。

1814年10月19日、17歳。ゲーテの詩による『糸を紡ぐグレートヒェン』。この一曲で、ドイツ・リートの形が変わった、と言われる(伴奏の右手が、糸車の回転を刻み続け、「彼の口づけ」の行で止まり、また回り出す)。

1815年、18歳。この1年に、歌曲145曲、交響曲2曲、ミサ2曲、オペラ4曲。10月19日の一日で8曲。

1816年、教師をやめた。以後、定職に就かなかった。友人の家を泊まり歩き、その家のピアノで書いた。朝から昼過ぎまで書き、午後は散歩とコーヒーハウス、夜は仲間と集まる。

シューベルティアーデ。友人たち(詩人マイアーホーファー、画家シュヴィント、歌手フォーグル、法律家ショーバー)の集まり。彼が自作を弾き、フォーグルが歌う。私的な集まりで、公開の演奏会ではない。彼の音楽の大半は、生前、この輪の中だけで鳴った。

1818年と1824年、ハンガリーのエステルハージ家で、令嬢のピアノ教師(夏の数か月)。

1822年、梅毒に感染した(と考えられている)。翌年、髪が抜け、発疹が出て、入院した。治療は水銀。以後、体が弱り続けた。同じ年、『未完成交響曲』(第7番、ロ短調。2楽章だけ書いて、友人に渡し、そのまま忘れた。初演は1865年)。

1823年、『美しき水車小屋の娘』(ミュラーの詩。20曲)。1827年、『冬の旅』。1828年、『白鳥の歌』(死後、出版社がまとめた14曲)。

作品数。歌曲600以上、交響曲8(あるいは9)、ピアノ・ソナタ21、弦楽四重奏15、ミサ7、オペラとジングシュピール十数。31年で、1000曲以上。

1827年3月、ベートーヴェンが死んだ。シューベルトは、松明を持って葬列に加わった(ベートーヴェンとは、ほとんど面識がなかった。晩年の病床でシューベルトの歌曲を見て「この人には神の火花がある」と言った、という話が伝わるが、確証はない)。

1828年3月26日、生涯で唯一の、自作だけによる公開演奏会。満員で、成功した。しかし、同じ時期にウィーンにパガニーニが来ていて、新聞の紙面を全部さらった。

同じ年の夏、『弦楽五重奏曲ハ長調』『3つの最後のピアノ・ソナタ』『ミサ曲第6番』。

10月、体調が崩れた。11月19日、兄フェルディナントの家で死んだ。31歳。死因は腸チフス(診断書は「神経熱」)。

遺産の目録。衣類と寝具、そして「ある量の古い楽譜」。評価額は、わずかだった。その「古い楽譜」の中に、未発表の交響曲と、ソナタと、何百もの歌曲があった。

1838年、シューマンがウィーンで兄フェルディナントを訪ね、『交響曲第8番ハ長調(ザ・グレート)』の楽譜を見つけて、メンデルスゾーンに送った。1839年、ライプツィヒで初演。作曲から11年後。

墓碑(友人グリルパルツァーの文)。「音楽芸術は、ここに豊かな宝を埋めた。しかし、はるかに美しい希望を」。この文には批判もある。彼は「これから」の人ではなく、すでに書き終えていた。

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