デルタのブルース
概要
ミシシッピ・デルタは綿花の土地で、小作の黒人が働いた。畑の掛け合いの唄、教会のゴスペル、そして西アフリカの弦の弾き方が混ざった。1903年、W・C・ハンディがタットワイラーの駅で、ナイフの背を弦に滑らせて歌う男を見たと書いている。三行の詩の形、十二小節、そして三度と七度を下げる音。レコードは1920年代から。チャーリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン。北へ移った人々がシカゴでこれを電気化した。
場所
34.20°N -90.57°E · アメリカ・ミシシッピ州
本文
ミシシッピ・デルタと呼ばれる土地は、厳密にはミシシッピ川の河口の三角州ではない。ミシシッピ川とヤズー川に挟まれた、南北300キロほどの細長い平野で、北はテネシー州のメンフィスの少し南から、南はヴィックスバーグまで続く。地元の作家デイヴィッド・コーンは、デルタはメンフィスのピーボディ・ホテルのロビーで始まり、ヴィックスバーグの路地で終わる、と書いた。北の白人の大地主の社交場から、南の黒人の貧しい町並みまで、という意味である。
土は極めて肥えていた。何千年ものあいだ、川があふれるたびに上流の土を運んで積み上げたからである。綿花を育てるのにこれほど向いた土地は少ない。しかし長いあいだ、湿地と密林とマラリアのせいで開発が遅れた。南北戦争の後、堤防が築かれ、森が切られ、水が抜かれ、大規模な綿花畑が広がった。その重い労働を担ったのは、奴隷解放宣言によって自由になったはずの黒人たちだった。

彼らの多くは分益小作人として働いた。土地を持たない者が、地主から畑と種と道具と食べ物を借り、収穫の半分ほどを地主に渡す。残りの取り分からは、借りたものの代金が引かれる。日用品を売る店は地主が営み、値段も帳簿も地主が決めた。読み書きができなければ確かめようがない。年の終わりに借金が残ることが多く、借金があれば土地を離れることもできなかった。奴隷制が終わった後にやって来た、別の形の束縛だった。郡によっては人口の8割から9割を黒人が占めていた。
この土地で、いくつもの音が混ざり合った。一つは畑の唄である。一人が長く叫ぶように歌うと、遠くの誰かがそれに応える。旋律は自由に伸び縮みし、西洋の拍子の枠に収まらない。呼びかけと応えのこの形が、ブルースの根の一つになった。もう一つは教会の歌である。ブルースは「悪魔の音楽」と呼ばれて教会から嫌われたが、霊歌やゴスペルと音の作り方は同じ根から来ている。教会の歌い手だったブルースの歌い手も多く、のちに説教師になった者もいた。そして西アフリカの弦楽器の弾き方につながるとされる、弦を滑らせて音の高さを連続して変える奏法がある。子どもたちは家の壁板に針金を一本張っただけの楽器を作り、瓶の首を滑らせて鳴らした。これが、ギターの弦の上に金属や瓶を滑らせるスライド奏法の原型の一つと考えられている。

この音楽がいつ生まれたのかは、はっきりしない。録音される前の音楽だからである。手がかりの一つが、作曲家W・C・ハンディの証言だ。正式な音楽教育を受け、楽団を率いていたハンディは、自伝によれば1903年ごろのある夜、デルタのタットワイラーの駅で遅れた列車を待っていた。そばに座った男がギターを弾きながら、ナイフの刃を弦に押し当てて滑らせ、同じ一行を三度繰り返して歌った。南部鉄道が「ドッグ」と呼ばれた別の鉄道と交わるところへ行く、という歌詞だった。ハンディはそれを、これまで聞いた中で最も奇妙な音楽だったと書いている。この話は40年ほど後の1941年に出た自伝によるもので、細部は後から整えられた可能性がある。それでも、20世紀の初めにこの音楽がすでにデルタにあったことを示す大事な証言である。
ハンディはこの音を楽譜に書き取った。1912年に『メンフィス・ブルース』、1914年に『セントルイス・ブルース』を出版し、「ブルースの父」と呼ばれるようになる。彼はブルースを作ったのではない。畑と酒場の音楽を、楽譜と出版と町の楽団の形に移したのである。
ブルースには形がある。12小節でひと回りし、決まった三つの和音が決まった順に巡る進行が、のちに標準になった。歌詞は三行で、一行目を歌い、同じ行を繰り返し、三行目でそれに応える。繰り返しているあいだに三行目を考えるので即興に向いている、という説明もある。ただ、初期のデルタのブルースは小節の数がそろっていなかった。歌詞が長ければ伸び、短ければ縮む。一人で弾き語るならそれで構わない。楽団で合わせるようになってから、12小節に固まっていった。音にも特徴がある。音階の三番目と七番目の音を少し下げて歌う。ピアノの鍵盤と鍵盤のあいだに落ちるような高さで、ギターなら弦を押し上げて、声ならそのまま歌ってその高さに届かせる。音程が外れているのではない。別の音の体系なのである。
録音が始まったのは1920年代である。蓄音機の発明から半世紀近くたち、レコード会社は黒人の買い手に向けた盤を売り出していた。デルタの歌い手の録音は1920年代の終わりから増えた。チャーリー・パットン(1891年ごろ〜1934年)は、デルタの大農園ドッカリー農園を拠点にした。荒々しい声で、ギターを叩き、背中に回して弾く芸も見せたと伝えられる。この農園は、デルタのブルースの中心地の一つになった。サン・ハウス(1902〜1988年)は説教師でありながらブルースを歌い、その二つのあいだで生涯揺れた。人を撃って服役したこともある。1930年に録音した後は長く忘れられ、1960年代に「再発見」されて再び舞台に立った。
最も名高いのがロバート・ジョンソン(1911〜1938年)である。1936年と1937年にテキサス州の二つの町で、仮の録音場所を使って29曲を残した。1938年に27歳で死んだ。毒を盛られたという話が伝わるが確証はない。本人の写真として確かなものは2枚ほどしかない。十字路で悪魔に魂を売ってギターの腕を得たという話がよく知られているが、これは後から作られた伝説とされる。同じ時代の別の歌い手トミー・ジョンソンが自分について語った話が、彼に移ったという見方が有力である。
1910年代の半ばから、南部の黒人は北へ移り始めた。1970年ごろまでの半世紀あまりで、およそ600万人が南部を離れたとされる。デルタからは、イリノイ・セントラル鉄道がまっすぐシカゴへ延びていた。だからデルタの人々の多くはシカゴへ向かった。差別の法と暴力から逃れ、工場の仕事を求めての移動だった。
シカゴで、ブルースに電気が入った。マディ・ウォーターズは、1941年にクラークスデイル近くの農園で、議会図書館のために民謡を集めていたアラン・ローマックスに録音された。そのとき彼は農園で働く小作人だった。1943年にシカゴへ移り、エレキギターを手にした。騒がしい酒場で音を届かせるためである。増幅された音は歪み、その歪みが新しい音になった。ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター、ウィリー・ディクスンらが、シカゴのチェス・レコードで次々に録音した。
1944年10月、クラークスデイル近くの農園で、機械で綿を摘む機械の実演が行われた。1台が何十人分もの仕事をこなした。機械が広まると、デルタは小作人を必要としなくなり、北への移動はいっそう加速した。
1961年、ロバート・ジョンソンの録音が一枚のアルバムにまとめられて出た。それを海の向こうのイギリスの若者たちが聞いた。エリック・クラプトンやキース・リチャーズらである。ローリング・ストーンズという名は、マディ・ウォーターズの曲名から取られた。イギリスの若者がまねたブルースは、ロックとしてアメリカに逆輸入され(ビートルズがアメリカへの時代である)、多くの白人のアメリカ人が、イギリスのバンドを通じて自分の国の音楽を知った。アメリカの側でも、エルヴィス・プレスリーがメンフィスで黒人の音楽と白人の音楽を混ぜていた。
いま、クラークスデイルの人口は減り続けている。綿花は機械が摘む。町にはデルタ・ブルース博物館があり、ブルースをたどる旅行者が主な客になった。かつて畑の端で歌われた音楽は、世界の大衆音楽の土台の一つになり、生まれた土地はその記憶で人を呼んでいる。