マタイ受難曲の復活上演
概要
20歳のメンデルスゾーンが、ベルリンの歌唱協会で、100年ぶりにこの曲を演奏した。彼の祖母が写譜を贈り、彼はそれを抱えて育った。切り詰めた版で、楽器も当時のものではなかったが、聴衆は打たれた。「二代の隔たりを越えて、一人のユダヤ人がこの偉大なキリスト教の音楽を人々に返した」と彼は言った。これがバッハ再発見の始まりで、以後、音楽に「過去の名作を演奏し続ける」という習慣ができた。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(2)
フェリックス・メンデルスゾーンAD1809年2月3日–AD1847年11月4日 · よみがえらせたヨハン・ゼバスティアン・バッハAD1685年3月31日–AD1750年7月28日 · 書いた本文
1727年ごろライプツィヒの聖トマス教会で初演されたヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』(バッハ『マタイ受難曲』の初演)は、作曲者が1750年に死ぬと、ほとんど演奏されなくなった。18世紀の後半、音楽は流行の芸術で、演奏されるのは基本的に同時代の新しい作品だった。教会も宮廷も劇場も、いまの作曲家にいまの曲を書かせ、古くなった曲は流行遅れとして棚にしまわれた。バッハは、対位法の大家として一部の音楽家や愛好家に敬われてはいたが、その大作は楽譜のまま眠り、世間ではむしろ息子たちの名のほうが知られていた。
ベルリンには、その楽譜を大切に守る小さな輪があった。合唱団ジングアカデミーを率いるカール・フリードリヒ・ツェルターは、バッハの手稿や写譜を熱心に集め、練習の場で少しずつ歌わせていた。ユダヤ系の裕福な家の女性サラ・レーヴィは、バッハの息子たちと交流があり、多くの楽譜を所蔵する当時有数の収集家だった。そのサラの姪の子として、1809年に生まれたのがフェリックス・メンデルスゾーンである。

メンデルスゾーン家はベルリンの裕福な銀行家で、祖父は啓蒙思想の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンだった。父のアブラハムは子どもたちにプロテスタントの洗礼を受けさせ、キリスト教徒としての姓バルトルディを加えた。家では日曜日の朝に、雇った楽団を呼んで音楽会が開かれ、少年フェリックスは自作を披露した。作曲の師はツェルターだった。1823年のクリスマス、14歳のフェリックスは祖母から『マタイ受難曲』の総譜の写しを贈られた。手に入れるのが難しかった楽譜で、少年はそれを繰り返し読み込んだ。
数年後、フェリックスと、ジングアカデミーで歌っていた俳優で歌手の友人エドゥアルト・デフリエントは、この曲を公開の演奏会で取り上げようと思い立った。ツェルターは、難しすぎるし、いまの聴衆には古すぎると首を縦に振らなかったが、二人の熱意に負けて合唱団と会堂を使うことを許した。デフリエントの回想によれば、ツェルターの家を出たあと、フェリックスは、一人の役者と一人のユダヤ人の若造が、人々に最も偉大なキリスト教の音楽を返すことになるとはね、と言ったという。もっともこの回想は事件から40年ほどのちに書かれ、デフリエントが自分の役割を大きく描いているとも指摘されていて、言葉どおりだったかは分からない。

準備には数か月がかけられた。メンデルスゾーンは曲を大胆に整理し、多くのアリアやコラールを省いて、全体をおよそ3分の2ほどの長さに縮めた。当時の聴衆が一晩の演奏会として聴き通せる長さにし、物語の流れを際立たせるためだった。楽器の扱いや編成も、当時のオーケストラと合唱団に合わせて手が加えられた。合唱は150人を超える大編成だった。教会の礼拝の一部として演奏されたバッハの時代とは、まったく違う形の上演である。
1829年3月11日、ベルリンのジングアカデミーの会堂で、20歳のメンデルスゾーンの指揮により、『マタイ受難曲』は80年あまりぶりに公の場で演奏された。切符はたちまち売り切れ、入りきれなかった人が1000人もいたと伝えられる。聴衆の中には、プロイセンの王族、哲学者のヘーゲル(ヘーゲル『精神現象学』)、神学者のシュライアーマッハーら、ベルリンの知識人がそろっていた。演奏は深い感動を呼び、10日後のバッハの誕生日にあたる3月21日に再演され、4月の聖金曜日にはツェルターの指揮でもう一度演奏された。

ベルリンでの成功は、たちまち各地に広がった。同じ年にはフランクフルトで、続いてブレスラウやケーニヒスベルク、ドレスデンなどでもこの曲が演奏された。1841年、ライプツィヒのゲヴァントハウスの指揮者になっていたメンデルスゾーンは、初演の地である聖トマス教会で、この曲を指揮した。教会の前には、彼の尽力でバッハの記念碑も建てられた。
この日をきっかけに、バッハの音楽は次々と掘り起こされていった。教会カンタータや鍵盤曲、管弦楽曲が演奏され、出版された。没後100年の1850年にはバッハ協会が設立され、全作品を批判的に校訂して出版する事業が始まった。半世紀をかけて完結したこの全集は、楽譜を正確に伝えるための校訂という学問の手法を音楽にもたらした。

それ以上に大きかったのは、音楽の聴き方そのものが変わったことである。過去の偉大な作品を、繰り返し演奏し、聴き継いでいく。演奏会の曲目の中心に、死んだ巨匠たちの作品が座るようになる。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン。いまでは当たり前の「名曲」や「古典」という考え方、演奏会の定番の曲目、音楽の歴史を学ぶという営みは、19世紀のこうした動きの中で形づくられていった。1829年のベルリンの演奏会は、その象徴的な出発点として語られる。
それは作曲家たちに、新しい重荷を負わせることにもなった。同時代の聴衆だけでなく、過去の巨人たちと比べられるようになったからである。ブラームスは最初の交響曲を完成させるまでに20年あまりを費やし、背後からベートーヴェンという巨人の足音が聞こえる中で書くのがどんなものか、と友人に漏らしたと伝えられる。

メンデルスゾーンは1847年、38歳の若さで死んだ。その3年後の1850年、リヒャルト・ワーグナーは偽名で『音楽におけるユダヤ性』という文章を発表し、ユダヤ人には真の芸術は生み出せないとして、メンデルスゾーンを名指しで貶めた。20世紀、ナチス政権(ナチスの政権掌握)は彼の音楽の演奏を禁じ、1936年にはライプツィヒのゲヴァントハウスの前に立っていた彼の銅像を撤去した。バッハの受難曲を人々に返したユダヤ系の音楽家は、自らが作った「ドイツ音楽の伝統」から締め出されたのである。像は2008年、ライプツィヒに再建された。