『シャクンタラー』

概要
サンスクリット演劇の代表作。18世紀に英訳が出るとゲーテが絶賛し、ヨーロッパのインド観を変えた。
場所
23.18°N 75.78°E · インド(グプタ朝の学術の中心)
関わった人(1)
カーリダーサAD4〜6世紀のどこか(確定していない)–? · 作者本文
『シャクンタラー』は、古代インドの詩人カーリダーサが書いたサンスクリットの戯曲で、正式な題を『アビジュニャーナ・シャークンタラム』という。「しるしによって思い出されたシャクンタラー」というほどの意味になる。カーリダーサはサンスクリット文学で最も名高い詩人だが、その生涯はほとんど分かっていない。グプタ朝の宮廷に仕えた(グプタ朝の黄金時代)とする伝承が有力で、活動した時期は4世紀から5世紀ごろとされるが、6世紀に置く説もある。
話のもとは、大叙事詩『マハーバーラタ』の中の一挿話にある(『マハーバーラタ』の成立)。カーリダーサはその素朴な話に、呪いと指輪という仕掛けを加えて、七幕の劇に仕立てた。

狩りに出たドゥフシャンタ王は、森の中の聖仙の庵で、仙人に育てられた娘シャクンタラーに出会う。彼女は天女と、もう一人の高名な仙人との間に生まれた子だった。二人は恋に落ち、親の許しを待たずに夫婦の契りを結ぶ。王は形見の指輪を残して都へ帰る。
ところが、王を思って上の空だったシャクンタラーは、庵を訪れた気難しい仙人ドゥルヴァーサスをもてなし損ねてしまう。怒った仙人は、彼女が思っている相手は彼女のことを忘れるだろう、と呪う。友人たちのとりなしで、形見の品を見せれば記憶は戻る、という条件が付け加えられた。

身ごもったシャクンタラーは都へ向かうが、途中で沐浴したとき、指輪を川に落としてしまう。宮廷に着いても、王は彼女を思い出せない。辱められたシャクンタラーは、天女である母に天へ連れ去られる。やがて漁師が捕った魚の腹から、王の名を刻んだ指輪が出てくる。指輪を見た王はすべてを思い出し、悔やみ嘆く。最後の幕で、天上の戦いに加勢した王は、帰り道に立ち寄った聖なる山の庵で、獅子の子と遊ぶ幼い男の子に出会う。それが自分の息子だった。シャクンタラーとも再会し、劇は和解で終わる。
この子がバラタで、のちに偉大な王になったとされる。インドの正式な国名の一つ「バーラト」は、この王の名に由来するとされている。劇の中の森の情景、別れの場面で庵の鹿や木々までが娘との別れを惜しむくだりは、インドの古典文学の中でも名場面として愛されてきた。

この劇がヨーロッパに知られたのは、1789年のことだ。イギリスのインド統治のもとで、カルカッタの最高法院の判事を務めていたウィリアム・ジョーンズが、英語に訳して出版した。ジョーンズは、インドの法を知るためにサンスクリットを学び、その文学の豊かさに打たれた人だった。2年後には英訳からドイツ語に訳され、ドイツの文人たちに大きな衝撃を与えた。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはこれを読んで、短い詩を書いた。春の花と秋の実り、心を魅了し満たすもの、天と地を一つの名で呼びたいなら、シャクンタラーと言えば足りる、という趣旨の四行詩である。ゲーテはのちに『ファウスト』の冒頭に、劇場の支配人と詩人と道化が語り合う「舞台での前狂言」を置いたが、これはサンスクリット劇の、本編の前に座長が観客に語りかける序幕にならったものと言われる(『ファウスト』の完成)。

それまでヨーロッパでインドといえば、香料と富の国、あるいは迷信の国として語られることが多かった。そこに、ギリシア悲劇にも劣らない洗練された古典劇があった。『シャクンタラー』は、インドに古く高い文明があることを、文学の力で示した。ドイツのロマン主義の詩人や思想家たちはインドに熱い視線を注ぎ、19世紀にはドイツを中心にサンスクリットの研究が盛んになる。
ジョーンズにはもう一つの功績がある。彼は1786年、カルカッタのアジア協会での講演で、サンスクリットとギリシア語とラテン語は、偶然とは思えないほど似ており、いまは失われた共通の源から生まれたのだろうと述べた。同じような指摘はそれ以前にもあったが、ジョーンズの講演は広く知られ、やがて言語を比べて祖先をたどる比較言語学の出発点の一つとみなされるようになった。ドイツ語の古い姿をたどったヤーコプ・グリムらの研究(グリム兄弟のドイツ語辞典)も、この流れの中にある。

戯曲の翻訳と、言語の起源をめぐる講演。二つはどちらも、インドの言葉と文学をヨーロッパに開いた一人の判事の仕事から生まれた。『シャクンタラー』は、遠い国の文明を敬意をもって知る入口になった。
一方で、ヨーロッパがこの劇に見たのは、素朴で純粋な森の娘という理想化されたインドの姿でもあった。インドでこの劇がどう読まれてきたのか、宮廷の洗練された技巧の劇としての面は、翻訳を通すと見えにくくなる。今もインドでは、舞踊劇や映画、テレビの物語として何度も作り直され、生きた古典として親しまれている。