人物

リュミエール兄弟

Lumière brothers
AD1862年10月19日 – AD1954年4月10日(享年91)
フランス重要度 5

概要

オーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)。リヨンの写真乾板の工場主の息子。エジソンのキネトスコープ(覗き箱)を見て、映写できる機械を作った。ミシンの送り機構。1895年、シネマトグラフ。カメラマンを世界に送って、1400本の短い映画。1903年、オートクローム(カラー写真)。「映画は未来のない発明だ」と言って、事業を売った。ルイは立体写真、オーギュストは医学に戻った。

関わったできごと(1)

リュミエールの映画上映AD1895年12月28日 · 上映した

本文

リュミエール兄弟は、兄オーギュストと弟ルイの二人である。オーギュストは1862年10月19日、ルイは1864年10月5日に、いずれもフランス東部のブザンソンに生まれた。父アントワーヌは、看板描きから身を起こした画家で、写真が新しい技術として広まり始めると写真家に転じ、1870年、一家はリヨンに移って写真館を開いた。兄弟はリヨンの工業学校で学んだ。兄は落ち着いた実務家で、弟は病弱だが器用で、化学と機械の工夫に才を見せた。

リュミエール兄弟の肖像
リュミエール兄弟の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

19世紀の写真(写真の発明)は、ガラスの板に感光する薬を塗って撮る湿板が主で、撮影の直前に薬を塗らなければならず、扱いが面倒だった。前もって乾いた状態で売られる乾板が出回り始めたころ、1881年、17歳のルイは、感度がよく品質のそろった乾板の新しい作り方を工夫した。父はリヨンの東のモンプレジールに工場を建てて量産を始め、青いラベルを貼ったこの乾板はよく売れた。兄弟は父とともに経営と研究に打ち込み、工場は数百人の労働者を抱える、ヨーロッパでも有数の写真材料の会社に育った。兄弟は、同じ家の姉妹とそれぞれ結婚し、二つの家族は同じ屋敷で暮らすほど結びつきが強かった。

1894年、父アントワーヌは、パリで、アメリカのエジソン(トーマス・エジソン)の会社が作ったキネトスコープを見た。箱の中で回るフィルムを、一人ずつ覗き穴から覗いて動く絵を見る機械である。父は息子たちに、あの絵を箱から出して、大勢で見られるようにできないかと言ったと伝えられる。兄弟は研究にかかった。難しいのは、フィルムを一コマずつ止めては送るという動きだった。止まっている一瞬に光を当てて像を映し、光を遮って次のコマへ送る。これを毎秒十数回繰り返せば、静止した絵の連なりが動いて見える。ルイは、偏頭痛で眠れなかったある夜、ミシンが布を送る仕組みから、爪でフィルムの穴を引っかけて間欠的に送る方法を思いついたと語っている。

シネマトグラフ上映の初期の広告ポスター(アンリ・ブリスポ画、1896年)
シネマトグラフ上映の初期の広告ポスター(アンリ・ブリスポ画、1896年)Wikimedia Commons Henri Brispot · Public domain

1895年2月、兄弟は新しい機械の特許を取り、それをシネマトグラフと名づけた。手回しの木の箱で、一台で撮影も、焼き付けも、映写もできた。エジソンの撮影機が重く大きかったのに対し、持ち運べるほど軽かった。フィルムの幅はエジソンと同じ35ミリで、毎秒16コマで回した。1895年3月、彼らは自分たちの工場から昼休みに出てくる労働者たちを撮った。『工場の出口』である。この短い映像は、3月22日にパリで科学と産業の振興の会の集まりで映され、その後も学会などで見せて評判を呼んだ。

1895年12月28日、パリのキャピュシーヌ大通りのグラン・カフェの地下の部屋で、入場料を取った初めての上映会が開かれた(リュミエールの映画上映)。映されたのは、それぞれ1分足らずの10本ほどの映像で、工場の出口、赤ん坊の食事、水をまく庭師が自分の顔に水を浴びるいたずらなどだった。初日の客は数十人だったが、評判はたちまち広まり、まもなく連日行列ができた。駅に入ってくる列車を正面から撮った映像に観客が驚いて逃げ出したという話は、のちに語り継がれたが、誇張された伝説とみられている。

北アフリカ兵士を撮影したオートクローム写真(ジャン=バティスト・トゥルナスー撮影、1915年、フランス)
北アフリカ兵士を撮影したオートクローム写真(ジャン=バティスト・トゥルナスー撮影、1915年、フランス)Wikimedia Commons Jean-Baptiste Tournassoud · Public domain

兄弟の商才が発揮されたのはここからだった。彼らは機械を売らず、自分たちで訓練した撮影技師を世界に送り出した。技師たちは機械を携えて各地で上映会を開き、同時にその土地の風景や人々を撮って、リヨンに送った。ヴェネツィアでは、技師の一人がゴンドラに乗って撮影し、カメラが動きながら撮る最初の移動の映像が生まれた。モスクワでは、ロシアの皇帝ニコライ2世(ニコライ2世)の戴冠式が撮られた。日本にも、1897年、京都の実業家稲畑勝太郎がシネマトグラフを持ち帰り、大阪で上映した(活動写真の上映)。同じ年に来日した技師は、日本の街並みや芸者、剣術の稽古などを撮影した。こうして撮りためられた映像は、カタログで1400本あまりにのぼった。どれも、世界のありのままの姿を写した「実写」だった。

だが、映画には危うさもあった。1897年5月、パリの慈善のバザーの会場で、上映に使っていた映写機の光源の近くで火が出て、会場は一瞬で炎に包まれ、上流の婦人たちを中心に100人を超える人が亡くなった。リュミエール社の機械ではなかったが、映画は危険な見世物だという印象が広がった。1900年のパリ万国博覧会では、兄弟は横21メートル、縦16メートルほどの巨大な幕に映像を映し、何千人もの観客を集めた。

それでも兄弟は、映画の未来に大きな期待をかけていなかったようだ。映画は未来の無い発明だ、という言葉が彼らのものとして伝わっているが、実際にそう言ったかは確かではない。彼らにとって、映画は写真の延長の科学の道具であり、物語を語る娯楽ではなかった。物語や空想の世界を撮る道は、同じころ奇術師出身のジョルジュ・メリエスらが切り開いていく。20世紀のはじめ、兄弟は映画の製作から手を引き、写真の技術の研究に戻った。

彼らが次に送り出したのは、色のある写真だった。ジャガイモのでんぷんの細かい粒を赤、緑、青に染め分けてガラス板に一面にまき、その上に感光の膜を塗る。光は色の粒を通って膜に届き、現像すると色が再現される。1907年に発売されたこのオートクロームは、点描画のような柔らかな色合いを持ち、30年ほどのあいだ、最も広く使われたカラー写真の方式になった。

晩年、ルイは立体の写真や立体の映画の研究を続け、1935年には立体映画を公開した。オーギュストは医学と生物学の研究に向かい、結核や癌を研究し、やけどの手当てに使う油を染み込ませたガーゼを開発した。それは第一次世界大戦の負傷兵の治療に使われた。ルイは1948年6月6日に南フランスで、オーギュストは1954年4月10日にリヨンで亡くなった。兄弟が最初の映像を撮ったモンプレジールの工場の跡は、いまリュミエール研究所となり、映画の生まれた場所として、映画の資料館と上映の場になっている。

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