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Person / 人

リュミエール兄弟

Lumière brothers
AD1862年10月19日 – AD1954年6月6日(享年91)
フランス重要度 5

概要

オーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)。リヨンの写真乾板の工場主の息子。エジソンのキネトスコープ(覗き箱)を見て、映写できる機械を作った。ミシンの送り機構。1895年、シネマトグラフ。カメラマンを世界に送って、1400本の短い映画。1903年、オートクローム(カラー写真)。「映画は未来のない発明だ」と言って、事業を売った。ルイは立体写真、オーギュストは医学に戻った。

関わったできごと(1)

リュミエールの映画上映AD1895年12月28日 · 上映した

本文

オーギュスト(1862年10月19日〜1954年4月10日)とルイ(1864年10月5日〜1948年6月6日)。ブザンソン。父アントワーヌは看板画家で写真家で、リヨンに移って写真館。1881年、ルイ(17歳)が乾板の新しい処方(「エチケット・ブルー」)を作って、父が工場を建てた。モンプレジール。1890年代、年に1500万枚、ヨーロッパ最大。兄弟は経営者で発明家。工場の労働者は800人。

1894年夏、父がパリでエジソンのキネトスコープを見て(と伝える)、息子たちに「あの箱から出せ」と言った。オーギュストが初め試して、うまくいかず、ルイが1894年の冬、片頭痛で眠れない夜、ミシンの押さえ金の間欠運動を思いついた。技師モワソンが試作した。1895年2月13日、特許。名前は「シネマトグラフ」。撮影と映写と焼付。手回し、毎秒16コマ、フィルムは35ミリ(エジソンと同じ幅、穴は片側1つずつ)。

1895年3月19日、『工場の出口』を撮った(女工が出て来る。3回撮り直した)。3月22日、パリで科学者に上映。6月、リヨンの写真家会議で(会議の出席者が船から降りる所を撮って、翌日見せた)。12月28日、グラン・カフェ。

1896年、シネマトグラフを世界へ。オペラトゥールを訓練して、送った。プロミオはヴェネツィアでゴンドラから撮った(最初の移動撮影)。ドゥブリエはロシアでニコライ2世の戴冠を撮り、ホディンカの野原の群衆事故を撮ってフィルムを没収された。メスギッシュはアメリカで。1897年、コンスタン・ジレルが日本へ(京都、東京。歌舞伎、剣術、芸者)。カタログに1400本。「実写(ヴュ)」。

1897年5月4日、パリの慈善バザーの火事。映写機のエーテルのランプから。126人が死んだ(貴族の婦人が多かった)。映画は危険だと言われた。1900年、パリ万博で巨大スクリーン(21×16メートル)。1902年、映画をやめた。「未来のない発明」。カメラの特許をパテに売った。

オートクローム(1903年特許、1907年発売)。ジャガイモの澱粉の粒を3色に染めてガラスに撒いた、カラー写真。1935年まで唯一の実用的なカラー写真。

ルイは立体写真、立体映画(1935年)。オーギュストは医学(結核、癌、火傷の治療。「チュール・グラ」という軟膏ガーゼ)。二人は生涯、リヨンで、隣同士に住んだ。

リヨンの工場の跡がリュミエール研究所(博物館)。「映画が生まれた場所」。