ハイドン『天地創造』
概要
ロンドンでヘンデルのオラトリオを聞いて、66歳で書いた。混沌の序奏から「光あれ」でハ長調の和音が炸裂する。ミルトンと創世記。ウィーンのシュヴァルツェンベルク宮殿で初演、翌年公開。1808年、76歳の最後の公の姿で、この曲を聞いて、「光あれ」で「そこから来たのだ」と天を指した。ベートーヴェンが接吻した。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
ヨーゼフ・ハイドンAD1732年3月31日–AD1809年5月31日 · 作曲した本文
ヨーゼフ・ハイドンは、30年近くハンガリーの大貴族エステルハージ家に仕えた宮廷楽長だった。1790年に主君が亡くなって楽団が解かれると、ロンドンの興行主ザロモンに招かれて、1791年から92年、1794年から95年の二度、イギリスに渡った。ロンドンで彼は交響曲を次々に発表して大成功を収めたが、もう一つ、決定的な出会いをした。
1791年の初夏、ウェストミンスター寺院で、亡きゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをたたえる大規模な記念演奏会が開かれた。何百人もの演奏者が『メサイア』(ヘンデル『メサイア』初演)や『エジプトのイスラエル人』を演奏し、ハイドンはそれを聴いて深く心を動かされた。「ハレルヤ」の合唱で涙を流し、ヘンデルこそ我々すべての師だと語ったと伝えられる。イギリスでは、聖書の物語を独唱と合唱と管弦楽で語るオラトリオが、ヘンデル以来、国民的な音楽として生き続けていた。ウィーンには、そうした伝統は無かった。

ロンドンを去るとき、ザロモンはハイドンに英語の台本を渡した。旧約聖書の『創世記』と『詩篇』、そしてミルトンの叙事詩(ミルトン『失楽園』)から言葉を取って、天地の創造を語るもので、もとはヘンデルのために書かれたが使われなかった、とも言われる。作者ははっきりしない。ウィーンでは、宮廷図書館長のファン・スヴィーテン男爵がこれをドイツ語に訳した。男爵はバッハとヘンデルの音楽を愛し、若いヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにその楽譜を見せた人でもある。彼は台本を削って整えるだけでなく、ここではオーケストラで何を描くべきかを書きこんで、作曲に助言した。
作曲は1796年から98年にかけて、ハイドンが60代半ばのときに行われた。彼は後に、あのころほど信心深かったことはない、毎日ひざまずいて、この仕事をやりとげる力を与えてくださいと神に祈った、と語っている。

曲は三部に分かれる。第一部は「混沌の描写」で始まる。弦楽器が鳴らす一つの音から始まり、和音は落ち着く先を見つけられず、旋律は形をなしかけては崩れていく。まだ何も形を持たない世界を、音で描こうとしたのである。大天使ラファエルが「初めに神は天と地を創造された」と歌い、合唱がささやくように「神は言われた、光あれ。すると光が」と続ける。そして「あった」の一語で、全員が最強音のハ長調の和音を鳴らす。暗い混沌から、一瞬で光があふれ出る。
そこから六日間の創造が順に歌われていく。海が分かれ、陸に草木が芽吹き、太陽が昇り、月と星が現れる。第二部では、鷲や雲雀や鳩、海の大きな魚、そして獅子や虎、駆ける馬、草をはむ牛や羊、地を這う虫が次々に生まれる。管弦楽はその一つひとつを音で描き分け、重い足取りで地を踏む獣にはコントラファゴットの低音が、這う虫にはくねるような旋律があてられた。最後に神が自らの姿に似せて人を造り、第二部は創造の完成をたたえる大合唱で終わる。第三部では、楽園の最初の朝、アダムとエヴァが神をたたえ、互いへの愛を歌う。

1798年4月、ウィーンの新市場広場に面したシュヴァルツェンベルク侯爵の宮殿で、音楽を支援する貴族たちの会のために、招待客だけの初演が行われた。宮殿の前には、中に入れない人々が詰めかけ、整理のために警官が出たという。「光あれ」の和音が鳴った瞬間の客席の興奮は、居合わせた人の手記に書きとめられている。公開の初演は翌1799年3月、宮廷のブルク劇場で、大編成の楽団と合唱によって行われた。
ハイドンは1800年、自ら予約を集めて楽譜を出版した。歌詞はドイツ語と英語の二つの言葉で印刷され、どちらの国でも歌えるようにしてあった。予約者の名簿には、ヨーロッパ各地の王侯貴族や音楽家の名が並んだ。同じ年、ロンドンでもパリでも上演された。パリでの上演の夜、1800年12月24日、オペラ座へ向かっていた第一統領ナポレオン・ボナパルトの馬車のそばで、王党派の仕掛けた爆弾が炸裂した。ナポレオンは無事で、そのまま劇場に入ったという。

『天地創造』は、ハイドンの晩年を飾る代表作になった。1808年3月27日、76歳の誕生日を前にした彼をたたえて、ウィーン大学の大講堂でこの曲が演奏された。指揮はサリエリだった。衰えて歩くのも難しくなっていたハイドンは、椅子に座ったまま運びこまれた。「光あれ」の場面で聴衆が立ち上がって喝采を送ると、ハイドンは天を指さし、自分からではない、あそこから来たのだ、と言ったと伝えられる。会場にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンもいて、かつての師の手と額に口づけをしたという。ハイドンは疲れて、休憩のときに会場を後にした。これが、彼が人前に姿を見せた最後になった。
翌1809年5月、ナポレオンの軍がウィーンを砲撃し、ハイドンの家の近くにも砲弾が落ちた。おびえる召使いたちを、ハイドンは、恐れることはない、ハイドンのいるところに災いは来ない、と言って落ち着かせたという。町がフランス軍に占領されたあと、一人のフランスの将校が彼を見舞い、『天地創造』のアリアを歌ってみせたとも伝えられる。5月31日、ハイドンは77歳で亡くなった。

ヘンデルのオラトリオに学んで書かれたこの曲は、ドイツ語圏に大きな合唱曲を歌う文化を根づかせるきっかけの一つにもなった。19世紀に各地で生まれた市民の合唱団は、こぞってこの曲を取り上げた。混沌から光へというはっきりした筋と、動物たちを描く楽しさのおかげで、いまも世界中で演奏され続けている。