平均律クラヴィーア曲集
概要
純正な五度を積むと、十二回でもとの音に戻らない。わずかに余る(ピュタゴラスのコンマ)。どこかで狂いを押しつけるしかない。どの調も使えるように狂いを配る調律が広まりつつあった。バッハは全二十四の長短調で前奏曲とフーガを書いた。表題の wohltemperirt は等分平均律を指すとは限らず、どの調でも弾ける調律の意である。第二巻は1742年頃。
場所
51.75°N 11.97°E · ドイツ・ザクセン=アンハルト州
関わった人(1)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハAD1685年3月31日–AD1750年7月28日 · 作曲本文
音楽の土台には、数の上での都合の悪さが隠れている。最もよく響く音程は二つある。一つはオクターヴで、弦の長さを半分にすると振動数が二倍になり、同じ音名の高い音になる。もう一つは完全五度で、振動数の比が三対二になる。ピュタゴラスの時代から、この二つが音楽の基本とされてきた。
ところが、完全五度を積み重ねていくと困ったことが起きる。ドから五度上のソ、その五度上のレ、ラ、ミと十二回積むと、七オクターヴ上のドに戻るはずである。計算すると戻らない。二分の三を十二回掛けた値は129.746…で、二を七回掛けた128よりわずかに大きい。その差は半音のおよそ四分の一で、ピュタゴラスのコンマと呼ばれる。これは測り方の誤差ではない。二の累乗と三の累乗は決して等しくならないので、数学的に絶対に合わないのである。つまり、すべての五度とすべてのオクターヴを同時に純正にする調律は存在しない。どこかに必ず狂いを押しつけなければならない。

押しつけ方には、いくつもの流儀があった。十一個の五度を純正にし、最後の一つに狂いを全部まとめれば、その五度だけがひどくうなる。うなりが狼の遠吠えに似ているとして「狼の五度」と呼ばれた。その音を使う調を避ければよい、という考え方である。ルネサンス以降、三度の和音が音楽の中心になると、三度を美しく響かせる中全音律(ミーントーン)が広く使われた。五度を少しずつ狭くして長三度を純正にする方法で、よく使う調はたいへん美しく響く。その代わり、狼は残り、シャープやフラットの多い調はひどく濁って使いものにならなかった。
17世紀の終わりから、ドイツのヴェルクマイスターらが、狂いをあちこちに少しずつ配る調律法をいくつも提案した。こうすると、どの調でも弾けるようになる。ただし、調ごとに響きが少しずつ違う。ハ長調は澄んで穏やか、シャープの多い調は張りつめた響き、というように、調にはそれぞれの性格があると考えられ、当時の作曲家はそれを意識して調を選んだ。オクターヴを完全に十二等分する等分平均律も、理論としては早くからあった。中国の明の朱載堉は1584年に十二等分の値を細かく計算し、ヨーロッパでもオランダのシモン・ステヴィンが同じ頃に論じている。だが、楽器を正確に等分に調律するのは難しく、等分平均律が鍵盤楽器の標準になるのは19世紀の後半になってからである。

1722年、アンハルト=ケーテン侯の宮廷楽長だったヨハン・ゼバスティアン・バッハは、すべての長調と短調、二十四の調で前奏曲とフーガを一曲ずつ書き、一冊の曲集にまとめた。ハ長調、ハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調と、半音ずつ上がっていく。シャープが七つ並ぶ嬰ハ長調や、フラットが六つの変ホ短調は、当時の実用の音楽ではまず使われない調だった。全部の調を順に使うことそのものが、狂いをうまく配った調律なら、どの調でも音楽が成り立つことの証明になっていた。
表題は「よく調律されたクラヴィーア」という意味である。日本語では「平均律」と訳されてきたが、これは正確ではない。表題の言葉は、等分平均律を指すドイツ語とは別の語で、どの調でも弾けるように整えた調律、という意味にとるのが一般的である。バッハがどの調律を考えていたのかは、いまも決着していない。ヴェルクマイスターの方法か、弟子キルンベルガーの方法か、記録に残らなかったバッハ自身の方法か。2005年には、曲集の自筆譜の表紙に描かれた渦巻き模様を、調律の手順を示す記号として読み解く説も出され、支持と反論の両方を集めている。確かなのは、中全音律ではこの曲集は弾けないこと、そして等分平均律である必要もないことだ。調ごとに響きが違うほうが、二十四の調を並べた意図にかなうという見方も有力である。
ケーテンの宮廷はカルヴァン派で、礼拝に凝った音楽を必要としなかった。そのためバッハはこの時期、教会音楽より器楽に力を注ぎ、ブランデンブルク協奏曲や無伴奏のチェロ組曲など、器楽の傑作の多くがこの頃に生まれている。翌1723年、バッハはライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督に移り、教会音楽の大作に取り組む(バッハ『マタイ受難曲』の初演)。そして二十年後の1742年ごろ、同じ形でもう一組、二十四の前奏曲とフーガをまとめた。これが第二巻である。自筆の表紙には、学ぼうとする若い音楽家の役に立つように、またすでに熟達した人の楽しみのために、という趣旨の言葉が記されている。

曲集はバッハの生前には出版されなかった。弟子から弟子へ、手で写されて伝わった。初めて印刷されたのは1801年、バッハの死から五十一年後である。それでも曲集はひそかに受け継がれていた。少年時代のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、十一歳ごろにはこの曲集の大部分を弾きこなしていたと、師のネーフェが書き残している。フレデリック・ショパンは演奏会の前にこの曲集を弾いて指を整えたといわれ、シューマンは若い音楽家に、これを日々の糧にせよと勧めた。
いま、ピアノを学ぶ人の多くがこの曲集を通る。もっとも、バッハが書いたのは「クラヴィーア」、つまり鍵盤楽器のための曲で、チェンバロかクラヴィコードか、あるいは生まれたばかりのピアノ(ピアノの発明)かを指定していない。いまのピアノはほぼ例外なく等分平均律で調律されていて、二十四の調はどれもほとんど同じ響きになる。バッハが聴いていた、調ごとに色の違う響きを確かめたければ、古い調律に合わせたチェンバロの演奏を聴くとよい。