概要
応仁の乱で京は焼けた。祇園祭の山鉾も33年、途絶えた。1500年、町衆(下京の商工業者)が、幕府でも公家でもなく、自分たちで再興した。町ごとに山鉾を出し、順番をくじで決めた(くじ取り式)。町は自警し、地子(地代)を交渉し、法度を作った。都市の自治が、祭りの形をとった。応仁の乱の後の京都を作り直したのは、この人々だった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
応仁の乱(1467〜77年)。京都が11年、戦場になった。上京と下京の間が焼け、公家の屋敷と寺が焼け、人が逃げた。乱の後の京は、二つの町(上京と下京)が、焼け野原を挟んで残る形になった。
町衆。町(ちょう)に住む商工業者。呉服屋、酒屋、土倉(質屋・金融)、材木屋、紺屋、鍛冶。多くは日蓮宗(法華宗)を信仰した。
「町」の意味が変わった。もと、大路で囲まれた区画(四町四方)を指したが、この時代、通りを挟んだ両側の家並みが一つの「町」になった(両側町)。同じ通りに面した人々が、共同体を作る。
自治。町ごとに「町式目」(掟)を作った。夜回り、木戸(町の入口の門。夜は閉める)、火の用心、揉め事の裁定、寄合。町の代表(月行事)を、家ごとの持ち回りで務めた。町が集まって「町組」を作り、町組が集まって上京・下京になった。
幕府と、守護と、寺社が、それぞれ京都に権利を持っていて、税を取ろうとした。町衆は交渉し、時に拒み、時に一括して請け負った。
祇園祭。もとは869年の祇園御霊会(疫病の流行を、祟りと考えて、神を祀って鎮める)。室町時代、下京の町が山鉾を出すようになっていた。
1467年、応仁の乱で中断。33年。
1500年(明応9年)6月、再興された。幕府が命じたのではない。下京の町衆が、自分たちで決めた。26基の山と、3基の鉾。この年から、巡行の順番を、くじで決めることになった(くじ取り式。町の間の争いを避けるため。長刀鉾だけは「くじ取らず」で先頭)。
以後、山鉾は町のものになった。町ごとに、御神体(人形)と、懸装品(絨毯とタペストリー)を持つ。16〜17世紀、南蛮貿易でペルシアとベルギーとインドの織物が入り、山鉾に掛けられた(いまも、16世紀のフランドルのタペストリーが巡行に使われる。「動く美術館」)。
町衆の文化。本阿弥光悦(刀剣の目利きの家。書、陶芸、漆芸。鷹峯に芸術家の村を作った)、俵屋宗達(絵屋の主人。『風神雷神図』)、角倉了以(土倉から、朱印船貿易と、大堰川・高瀬川の開削へ)、茶屋四郎次郎、後藤家。町人が、貴族の文化を受け継いで、作り変えた。
法華一揆。1532年、京都の法華宗の町衆が武装して、一向一揆と、そして延暦寺と対抗した。4年、京の市政を実質的に握り、幕府にも年貢の減免を認めさせた。1536年、天文法華の乱。延暦寺の僧兵と近江の六角氏が京を攻め、下京の町と21の本山が焼かれた。数千人が死んだ。
町は、また作り直された。祇園祭も、その後の戦乱(1864年の禁門の変で、多くの山鉾が焼けた)のたびに、町衆が作り直した。
いまも、山鉾は町が保存し、町の人が組み立て、巡行させている。