京都の町衆と祇園祭
概要
応仁の乱で京は焼けた。祇園祭の山鉾も33年、途絶えた。1500年、町衆(下京の商工業者)が、幕府でも公家でもなく、自分たちで再興した。町ごとに山鉾を出し、順番をくじで決めた(くじ取り式)。町は自警し、地子(地代)を交渉し、法度を作った。都市の自治が、祭りの形をとった。応仁の乱の後の京都を作り直したのは、この人々だった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
1467年に始まった応仁の乱は、京都そのものを11年にわたる戦場にした。東軍と西軍が市中に陣を構え、公家の屋敷も寺も町家も焼けた。戦が終わったとき、京は北の上京と南の下京という二つの町が、焼け跡を挟んで離れて残る姿になっていた。上京は公家や武家、大きな寺に近い町、下京は商工業者の町である。
その下京を支えたのが町衆と呼ばれる人々だった。呉服屋、酒屋、土倉(質屋を兼ねた金融業者)、材木屋、染め物の紺屋、鍛冶屋。多くは法華宗(日蓮宗)を熱心に信仰した。将軍の権威は落ち、守護大名は国へ帰り、京の町を実際に守り、動かしているのは、そこに住み商いをする人々になりつつあった。
![狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』(国宝、米沢市上杉博物館)に描かれた祇園会の様子(右隻第三扇)。手前右は船鉾、左は岩戸山。以下手前から奥へ鶏鉾、白楽天山、函谷鉾。右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)[注釈 2]。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/EITOKU_Uesugi-Gion-matsuri.jpg)
このころ、町という言葉の中身が変わった。もとは大路に囲まれた四角い区画を指したが、戦国時代には、一本の通りを挟んで向かい合う両側の家並みが一つの「町」になった。両側町と呼ぶ。同じ通りに面して暮らす人々が、ひとつの共同体を作ったのである。町ごとに掟(町式目)を定め、木戸を設けて夜は閉ざし、夜回りを置き、火の用心を言い合い、もめごとは寄合で裁いた。代表は家々の持ち回りで務めた。町が集まって町組を作り、町組が集まって上京と下京ができた。幕府や寺社が地代や税を求めてくれば、町衆はまとまって交渉し、ときには拒み、ときには一括して請け負った。
祇園祭は、そうした町の力が最もよく見える場だった。始まりは平安時代、疫病を怨霊や疫神のたたりと考え、それを鎮めるために八坂の祇園社で営まれた御霊会である。鎌倉から室町の時代にかけて、下京の町々が趣向を凝らした山や鉾を出すようになり、祭りの主役は町の人々に移っていた。

応仁の乱で、祭りは途絶えた。山鉾が巡行しない年が、33年続いた。1500年(明応9年)、祭りは再び行われる。乱の後、幕府の側にも再興を求める動きはあったが、実際に山鉾を作り直し、担い、引いたのは下京の町々だった。焼けた町が、自分たちの手で祭りを取り戻したのである。この再興の年から、山鉾の巡行の順番をくじで決めるようになったと伝えられる。どの町が先に立つかをめぐる争いを避けるためで、先頭の長刀鉾だけは「くじ取らず」とされた。くじ取りの儀式はいまも続いている。
これ以後、山鉾ははっきりと町のものになった。町ごとに御神体の人形を祀り、山鉾を飾る懸装品をそろえ、毎年組み立てては巡行させる。16世紀から17世紀には、南蛮貿易や朱印船貿易を通じてペルシアやインドの絨毯、ヨーロッパの織物が京に入り、山鉾を飾るようになった。トロイア戦争の場面を織り出した16世紀のフランドルの毛綴が、いまも巡行で掛けられている。山鉾が「動く美術館」と呼ばれるのはそのためである。

町衆の力は、ときに武力にもなった。1532年、法華宗の町衆は武装して一向一揆や他の勢力と戦い、数年にわたって京の市政を事実上握った。法華一揆と呼ばれる。しかし1536年、比叡山延暦寺の衆徒と近江の六角氏の軍勢が京へ攻め入り、法華宗の本山21か寺が焼かれ、下京の大部分も焼けた。天文法華の乱である。死者は数千人にのぼったとされる。それでも町は再び作り直され、祭りも絶えずに続いた。
町衆の中からは、次の時代の文化を担う人々も出た。刀剣の目利きの家に生まれ、書や陶芸、漆芸に名を残した本阿弥光悦、絵屋を営み「風神雷神図」を描いた俵屋宗達、土倉から身を起こして朱印船貿易と川の開削に乗り出した角倉了以。公家や武家が独占していた文化を、町の人々が受け継ぎ、作り変えた。のちの物語「元禄から化政へ — 江戸の町人文化」の源の一つが、ここにある。

やがて織田信長や豊臣秀吉が天下を握ると、京の町は新しい権力のもとに組み込まれ、自治の幅は狭められていく。それでも町と町組の仕組みは江戸時代を通じて残り、明治の初めには町組をもとに番組小学校が作られた。祇園祭の山鉾も、1864年の禁門の変で多くが焼けるなど、何度も失われては町の人々の手で作り直された。いまも山鉾を保存し、組み立て、引いているのは、それぞれの町の人々である。応仁の乱の焼け跡から京を作り直した人々の営みは、毎年7月の祭りの中に形を変えずに残っている。