人物

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

Goethe
AD1749年8月28日 – AD1832年3月22日(享年82)
ワイマール公国重要度 4

概要

詩人であり、行政官であり、色彩論を書いた自然研究者でもあった。『ファウスト』を60年かけて完成させる。

関わったできごと(1)

『ファウスト』の完成AD1831年 · 当人

本文

1749年8月28日、神聖ローマ帝国の自由都市フランクフルトに生まれた。父は財産を持ち、働かずに暮らせる身分の法律家で、子の教育に熱心だった。母は明るく話し上手な人で、ゲーテは後に「父からは体格と生真面目さを、母からは陽気さと物語る楽しさを受けた」という意味の詩を書いている。子どもの頃から家庭教師について、ラテン語、ギリシア語、フランス語、英語、イタリア語、絵や音楽まで学んだ。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像(シュティーラー画、1828年)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像(シュティーラー画、1828年)Wikimedia Commons Joseph Karl Stieler · Public domain

父の望みで、16歳からライプツィヒ大学で法律を学んだが、熱を入れたのは詩と恋と芝居だった。病気で一度帰郷し、やがてストラスブールで学び直す。ここで年上の思想家ヘルダーに出会い、民衆の歌やシェイクスピアの荒々しい力に目を開かれた。理屈や形式より、感情と自然を重んじる「疾風怒濤」と呼ばれる文学運動の中心に、若いゲーテは立つことになる。

1772年、法律の実務を学ぶために滞在したヴェッツラルで、婚約者のいる女性シャルロッテ・ブッフに恋をした。この恋と、同じ頃に知人が人妻への恋に悩んで自殺した出来事をもとに、1774年、『若きウェルテルの悩み』を書いた。手紙の形で、報われない恋に追い詰められた青年が死を選ぶまでを描いた小説は、ヨーロッパ中で読まれた。主人公をまねた青い燕尾服と黄色いチョッキが流行し、後を追う自殺まで話題になった。のちにナポレオン・ボナパルトはゲーテに会ったとき、この本を7回読んだと語ったと伝えられる。

青年ゲーテの肖像(1765年 - 1768年ごろ)
青年ゲーテの肖像(1765年 - 1768年ごろ)Wikimedia Commons Johann Adam Kern (1750-1800) · Public domain

1775年、18歳のヴァイマル公カール・アウグストに招かれ、小さな公国の都ヴァイマルへ移った。人口6000ほどの町である。ゲーテはここで枢密顧問官となり、詩人というより大臣として働いた。鉱山の再開発、道路の整備、軍の縮小、財政の立て直しを受け持ち、1782年には貴族に列せられて名に「フォン」が付いた。

役所の仕事は、ゲーテの関心を自然へ向けた。鉱山のために岩石を調べ、植物を集め、骨を比べた。1784年には、人間には無いとされていた顎の骨(間顎骨)の痕跡が人間の胎児や頭骨にもあることを確かめ、人間と動物は同じ設計の上にあると考えた。植物については、葉も花びらもおしべも一つの原型が姿を変えたものだと論じた。のちの進化論に先立つ考え方として評価されている。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーWikimedia Commons Anton Graff · Public domain

1786年、37歳のゲーテは誰にも告げずに温泉地を抜け出し、偽名でイタリアへ旅立った。役人の生活に詩が窒息していたからである。ローマやナポリで1年半あまりを過ごし、古代の彫刻と南の光の中で、感情のほとばしりよりも、形の整った古典の美を求めるようになった。帰国後、身分の低い造花工場の娘クリスティアーネ・ヴルピウスと暮らしはじめ、宮廷の人々の眉をひそめさせた。正式に結婚したのは18年後のことである。

1789年にフランス革命が起きると、ゲーテはヴァイマル公に従ってフランスへの出兵に加わった。1792年、ヴァルミーで革命軍が諸国の軍を押し返したとき、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と仲間に言ったと、30年後に書いている。言葉が本当にその場で発せられたかは確かめようがない。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1794年からは、10歳年下の詩人フリードリヒ・シラーと深い友情を結んだ。互いの作品を読んで批評し合い、ヴァイマルはドイツ文学の中心になった。ゲーテは宮廷劇場の監督としてシラーの劇を次々に上演した。1805年にシラーが亡くなると、ゲーテは「私の存在の半分を失った」と書き送っている。

1806年、ナポレオン軍がイエナでプロイセン軍を破り、ヴァイマルに略奪の兵がなだれ込んだ。ゲーテの家にも兵士が押し入ったが、クリスティアーネが立ちはだかって追い返したと伝わる。その数日後、ゲーテは彼女と正式に結婚した。2年後、エアフルトでナポレオンに謁見したとき、皇帝は「ここに人がいる」と言ったとされる。1812年には温泉地テプリッツでルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと会っているが、互いの印象は芳しくなかったらしい。

シャルロッテ・ブッフ
シャルロッテ・ブッフWikimedia Commons Johann Heinrich Schröder · Public domain

1810年には『色彩論』を出した。光が分かれて色が生まれるというニュートンのプリズムの考えに反対し、色は光と闇の境目で生まれると主張した。物理学としては受け入れられなかったが、色が目と心にどう働くかの観察は、のちの画家や心理学者に読まれている。本人は、詩よりもこの研究のほうを誇っていたと言われる。

生涯をかけたのが『ファウスト』だった。知を極めても満たされない学者ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約する物語で、20代で書きはじめ、第一部を1808年に出し、第二部を死の前年の1831年に仕上げて封をした(『ファウスト』の完成)。完成までに60年近くかかっている。晩年の言葉は、秘書役エッカーマンの『ゲーテとの対話』に多く残る。74歳のとき、温泉地で出会った19歳の娘に求婚して断られ、その別れを詩に書いたことも知られている。

『若きウェルテルの悩み』初版扉
『若きウェルテルの悩み』初版扉Wikimedia Commons © Foto H.-P.Haack ( H.-P.Haack ) · CC BY 3.0

1832年3月22日、ヴァイマルの自宅で亡くなった。82歳。最期の言葉は「もっと光を」と伝えられるが、部屋を明るくするよう窓の鎧戸を開けてほしいと頼んだ言葉の一部だったとも言われる。詩人、小説家、劇作家、大臣、自然研究者。そのどれか一つでも名を残せた仕事を、一人で全部やった人だった。

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