できごと

板ガラスと窓

Plate glass and the window
AD1688年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインEngland and IrelandScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクFinnmarkプロイセンAD1688年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1688年の版図を描いています(22勢力)。

概要

ガラスの窓は、ローマにもあったが、中世には教会と宮殿のものだった。小さな円形ガラス(クラウン・ガラス)を鉛の桟で継ぐ。1688年、フランスのサン=ゴバン王立工場が、溶けたガラスを鉄の台に流して延べ、冷ましてから磨く方法を工業化した。大きな平らな板が作れる。ヴェルサイユの鏡の間(1684年)は、それより前の吹きガラスの鏡だった。19世紀、円筒法と機械研磨で値段が下がり、庶民の家に窓が入った。室内が明るくなり、そして店の陳列窓が生まれた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

ガラスの窓は、ローマ帝国の時代にすでにあった。ポンペイの浴場からは、型に流して作ったとみられる窓ガラスが見つかっている。ただし厚く、緑がかっていて、向こうの景色がはっきり見えるほど透明ではなかった。西ローマ帝国が崩れると、こうした技術の多くは西ヨーロッパから途絶えた。

中世の窓は、多くの場合ただの開口部だった。木の鎧戸で閉め、油を塗った布や薄く削った獣の角、油紙を張って光を取り入れる。ガラスが入っているのは教会と王侯の館くらいで、教会のステンドグラスも、小さな色ガラスの切れ端を鉛の桟でつないだものだった。

ローマ時代の窓ガラスの断片(1〜4世紀)
ローマ時代の窓ガラスの断片(1〜4世紀)Wikimedia Commons Bullenwächter · CC BY 3.0

板ガラスを作る方法は、長く二つあった。一つはクラウン法である。溶けたガラスを竿の先に取って吹いて球にし、別の鉄の棒に付け替えて勢いよく回す。遠心力で球が平たい円盤に開き、大きなものでは直径一メートルを超える。冷ましてから円盤を四角く切り分けるが、真ん中には棒を付けた跡が盛り上がって残る。安い建物ではこの厚い中心部も捨てずに窓に使った。古い家の窓に渦を巻いたような分厚いガラスがはまっているのは、その名残である。もう一つは円筒法で、溶けたガラスを長い円筒に吹き、両端を落として縦に切れ目を入れ、炉で温め直して開いて延ばす。大きな板が取れる代わりに、表面が波打った。

17世紀後半、フランスでは財務総監コルベールが、国内で作れるものは国内で作るという政策を進めていた。悩みの種の一つが鏡である。上等な鏡はヴェネツィアのムラーノ島の独占で(ムラーノの硝子職人)、フランスは高い値で買い続けていた。コルベールはムラーノの職人を引き抜き、1665年に王立の鏡の工場をパリに作らせた。その成果が、1684年に完成したヴェルサイユ宮殿の鏡の間である(鏡の間とサン=ゴバン)。ただし、そこに張られた鏡は、まだ吹いて作る昔ながらの方法によるものだった。

1688年、この工場で新しい方法が実用になった。溶けたガラスを平らな鉄の台の上に流し、金属のローラーで延ばして厚みをそろえ、冷ましてから両面を磨く鋳造法である。工場の技術者ルイ・リュカ・ド・ネウーらの手によるとされるが、オルレアンのガラス職人ベルナール・ペローが先に同じ方法を考えていたとする見方もある。吹いて作る方法では、腕のよい職人でも大きさに限りがあった。台に流せば、それまでよりはるかに大きく、平らで、歪みのない板が作れる。工場は数年後にピカルディのサン=ゴバンの村へ移り、のちにその名で知られる会社になった。

ただし、磨く仕事は途方もない手間だった。砂と水をかけながら重い板をこすり合わせ、最後は細かい酸化鉄の粉で仕上げる。初めは人の手で、のちに水車や蒸気機関で行った。だから鋳造の板ガラスは長いあいだ鏡や馬車の窓、宮殿の窓に使われる高級品で、町の家の窓に入るのは、もっと安いクラウンや円筒のガラスだった。

ガラスが庶民の窓に広く入るまでには、さらに時間がかかった。イギリスでは1696年から1851年まで、家の窓の数に応じて税をかける窓税があり、税を逃れるために窓をレンガで塞いだ家がたくさん生まれた。19世紀になると、円筒を大きく吹く技術と機械による研磨が進み、板ガラスの値段は大きく下がった。1851年、ロンドン万国博覧会のために建てられた水晶宮(ロンドン万国博覧会)は、鉄の骨組みに約三十万枚の板ガラスをはめた長さ五百六十メートルあまりの建物で、規格をそろえた部材を組み立てる方法で一年足らずのうちに完成した。設計した庭師ジョセフ・パクストンは、温室を作った経験と、大きな睡蓮の葉の裏の葉脈から骨組みを思いついたと語っている。

ロンドン万国博覧会に関わる図版:The Crystal Palace in Hyde Park for Grand International Exhibition of 1851
ロンドン万国博覧会Wikimedia Commons Read & Co. Engravers & Printers · Public domain

大きなガラスが安くなると、町の姿が変わった。家の中が明るくなり、昼間なら室内で本を読み、縫い物や細かい手仕事ができるようになった。店の正面は大きなガラス張りになり、通りを歩く人が、買うつもりもなく品物を眺めて歩くという楽しみが生まれた。1852年にパリで開店したボン・マルシェをはじめとする百貨店は、大きなガラスとガス灯、のちには電灯で、商品を「見せる」空間を作り上げた。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、ガラスの屋根に覆われたパリの商店街(パサージュ)を歩き回り、そこを近代の都市の暮らしが生まれた場所として描こうとした。

20世紀に入ると、板ガラスはさらに安くなった。溶けたガラスから板を垂直に連続して引き上げる方法がベルギーで生まれ、1950年代にはイギリスのピルキントン社が、溶けた錫の上に溶けたガラスを浮かべて流す方法を実用にした。錫はガラスより重く、ガラスと混じり合わないので、ガラスは自らの重さで完全に平らに広がり、磨く必要がまったくない。いま世界で作られる板ガラスのほとんどは、この方法による。鉄骨で建物を支えるようになると、壁は重さを担う必要がなくなり、外側を丸ごとガラスで覆った高層の建物が都市に立ち並ぶようになった。

安い鏡が家庭に入ったのも19世紀である。それまで多くの人は、自分の顔を水面や磨いた金属のぼやけた像でしか見たことがなかった。毎朝鏡で自分の顔を見るという習慣は、ガラスを平らに作る技術がもたらしたものである。1688年に鉄の台の上に流されたガラスは、宮殿の贅沢から始まって、三百年かけて、すべての家の窓と洗面台にまで届いた。

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