できごと

『アヴィニョンの娘たち』

Les Demoiselles d'Avignon
AD1907年
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国アルジェリアモロッコイタリアルーマニアアイスランドチュニジアブルガリアギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1907年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1907年の版図を描いています(25勢力)。

概要

バルセロナのアヴィニョン通りの娼館の5人の女。顔がアフリカの仮面で、体が角ばって、遠近法がなく、正面と横顔が同時に。ピカソ25歳。友人に見せて、ブラックは「石油を飲まされたようだ」、マティスは怒った。9年、アトリエに丸めてあった。キュビスム。500年の遠近法の絵が、ここで終わった。ニューヨーク近代美術館。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

パブロ・ピカソAD1881年10月25日–AD1973年4月8日 · 描いた

本文

ルネサンスのころから、ヨーロッパの絵は、一つの窓から外を眺めるように描かれてきた。画家は一点から見た景色を、遠いものほど小さく、線が奥の一点に集まるように描く(線遠近法の発見)。人の体は陰影で丸く見せ、平らな画面の奥に奥行きがあるように錯覚させる。19世紀の後半、第一回印象派展に集まった画家たちは、光と色の扱いを大胆に変えたが、一つの視点から見た世界を描くという約束は、まだ守られていた。

その約束を揺さぶりはじめたのが、南フランスのポール・セザンヌだった。彼は、自然を円筒や球や円錐としてとらえるよう説き、一枚の絵の中に少しずつ違う角度から見た形を並べた。1906年にセザンヌが亡くなり、翌年パリで大きな回顧展が開かれると、若い画家たちはその絵に衝撃を受けた。同じ1906年には、アンリ・マティスが、強い色と単純な線で裸の人々を描いた『生きる喜び』を発表し、前衛の旗手と見なされていた。

ポール・セザンヌ『水浴の男』、1885〜87年
ポール・セザンヌ『水浴の男』、1885〜87年Wikimedia Commons Paul Cézanne · Public domain

パブロ・ピカソは1881年にスペインで生まれ、1904年からパリのモンマルトルの古い木造の建物「洗濯船」に住んでいた。貧しい芸人や娼婦を青い色調で描いた「青の時代」、サーカスの人々を淡い薔薇色で描いた「薔薇色の時代」を経て、彼は新しい道を探していた。1906年、ルーヴル美術館でスペインの古代イベリアの石の彫刻を見て、その素朴で大きな目の顔に引きつけられた。翌年には、知人がルーヴルから盗み出したイベリアの小さな石の頭部を、そうと知りながら買っている。この盗品は、のちにモナ・リザの盗難の捜査のなかで明るみに出た。

1906年の冬から1907年の夏にかけて、ピカソは大きな画布に取り組んだ。準備の素描は数百枚にのぼり、十数冊のスケッチブックを埋めた。初めの構想では、娼館の部屋に裸の女たちがいて、そこへ水兵と、頭蓋骨か本を手にした医学生が入ってくる場面だった。快楽と死、あるいは性病への恐れを語る寓意だったと考えられている。描き進めるうちに、ピカソは男たちを消し、5人の女だけを残した。題材は、故郷バルセロナのアヴィニョン通りにあった娼館とされる。

エル・グレコ『聖マルティヌスと乞食』、1597〜1600年ごろ
エル・グレコ『聖マルティヌスと乞食』、1597〜1600年ごろWikimedia Commons El Greco · Public domain

完成した絵は、縦横とも2メートル40センチ近い大きな画面である。左端の女は、茶色の幕を引き開けている。中央の2人は腕を頭の後ろに上げて、正面からこちらを見つめる。その顔は、イベリアの彫刻のような大きな目と単純な輪郭で描かれている。右の2人の顔は、さらに激しく変形され、アフリカの仮面のように、縞模様の荒い筆跡で塗られている。右下でしゃがんだ女は、体は背中を見せているのに、顔はこちらを向いている。正面と横と後ろから見た形が一つの体に押し込められ、体は角ばった面に割られている。背景の布も、手前の果物の皿も、同じように割れた面として描かれ、どこが奥でどこが手前かを、遠近法で読み取ることができない。

右の2人の顔は、途中で描き直されたとみられる。ピカソはこのころ、パリのトロカデロにあった民族誌博物館を訪れ、アフリカやオセアニアの仮面と彫刻を見ている。のちに彼は、作家アンドレ・マルローに、あのとき自分は絵とは何かを理解した、絵は悪魔払いの道具なのだ、と語ったと伝えられる。ただし、博物館を訪れた時期が描き直しの前か後か、アフリカの造形がこの絵にどれほど影響したのかについては、研究者のあいだで議論がある。ピカソ自身も、アフリカの影響を否定するようなことを言った時期がある。

アンリ・マティス『生きる喜び』、1905〜06年
アンリ・マティス『生きる喜び』、1905〜06年Wikimedia Commons Henri Matisse · Public domain

1907年の夏、ピカソはアトリエで友人たちにこの絵を見せた。評判はさんざんだった。若い画家ジョルジュ・ブラックは、まるで麻くずを食べさせられ、石油を飲まされて火を吐かされるようだと言ったと伝えられる。マティスは怒り、前衛の運動をからかうものだと受け取った。画家のアンドレ・ドランは、いつかピカソがこの絵の後ろで首を吊っているのが見つかるだろう、ともらしたという。理解を示したのは、ごくわずかな人々だけだった。ピカソは絵を丸めてアトリエにしまい込み、9年近く人前に出さなかった。

それでも、この絵を見た人々の中で何かが動いた。最初は戸惑ったブラックは、セザンヌの絵を手がかりに、1908年、南仏のレスタックの風景を、家々や木を単純な立方体の積み重ねのように描いた。批評家がこれを「小さな立方体」とからかったことから、キュビスム(立方体主義)という名が生まれた。1909年から1914年にかけて、ピカソとブラックはほとんど毎日のように行き来し、物を細かい面に分解して描き、やがて新聞紙や壁紙を画面に貼りつける方法まで試みた。ブラックはこの時期の二人を、ザイルで結ばれた登山者のようだったと回想している。キュビスムの考え方は、未来派や抽象絵画、さらに建築や彫刻にまで広がっていった。

アンリ・ルソー『飢えたライオンがアンテロープに飛びかかる』、1905年。フォーヴィスムの名の由来となった作品
アンリ・ルソー『飢えたライオンがアンテロープに飛びかかる』、1905年。フォーヴィスムの名の由来となった作品Wikimedia Commons Henri Rousseau · Public domain

この絵が初めて人前に出たのは、1916年、パリでの小さな展覧会だった。そのとき、詩人アンドレ・サルモンが『アヴィニョンの娘たち』という題をつけた。ピカソ自身は、仲間うちで「アヴィニョンの娼館」と呼んでいたとされ、題は上品に言い換えられたことになる。1924年、服飾デザイナーで収集家のジャック・ドゥーセが、詩人アンドレ・ブルトンの勧めでこの絵を買った。1939年、ニューヨーク近代美術館が取得し、以来そこに掛けられている。

いまこの絵は、20世紀の美術の出発点の一つとして語られる。一つの視点から世界を写すという何百年も続いた約束を捨て、画家が見て知っていることを、一つの画面に組み直した。その後、絵は何を描いてもよく、どう描いてもよいものになっていった。一方で近年は、ヨーロッパの画家がアフリカの造形を「野性」や「原始」の記号として借りたこと、女性の体が男の画家の不安を映す道具になっていることも、批判的に論じられている。30年後、ピカソは同じように割れた形で、爆撃された町の悲鳴を描くことになる(ゲルニカ爆撃)。

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