できごと

ブルゴーニュ公の宮廷

The Burgundian court
1384年 – 1477年
期間を持つできごと重要度 4
シベリアの諸集団キプチャク汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国サーミノルウェー神聖ローマ帝国リトアニア大公国ハフス朝ポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝スウェーデンカスティーリャ王国ハンガリー王国モロッコTeutonic Knights東ローマ帝国アラゴン王国ブルガール可汗国デンマークシチリア王国ポルトガルRaškaスコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国1384年ブリュージュ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1384年の版図を描いています(29勢力)。

概要

王より豊かな公が、儀礼と誓いと祝宴で世界を覆った。ファン・エイクが仕え、金羊毛騎士団が作られる。中世が終わりかけている場所で、中世の形式が最も華やかになった。

場所

ブリュージュ
51.21°N 3.22°E · ベルギー・西フランデレン州

本文

1363年、フランス王ジャン2世は、末の息子フィリップにブルゴーニュ公の位と領地を与えた。フィリップは、イングランドとの戦い(百年戦争)のさなかの1356年、ポワティエの戦場で、敗れて捕らわれる父のそばを離れずに戦った少年で、そのことから「豪胆公」と呼ばれたと伝えられる。1369年、彼は豊かなフランドル伯の跡取り娘と結婚し、1384年に義父が死ぬと、フランドルやアルトワなどを相続した。

ここから約100年、4代のブルゴーニュ公が、王に次ぐ、ときには王をしのぐ大領主として振る舞う。公たちは、結婚と相続と買い取りで領地を広げ、フランス東部のブルゴーニュから、いまのベルギーとオランダにあたるネーデルラントの大半までを手に入れた。南の本領と北の低地のあいだには他人の領地が挟まり、領土は飛び地の集まりだった。富の源は北にあった。ブリュージュやヘントの毛織物、アントウェルペンの商い、ブリュッセルの工芸。当時のヨーロッパで最も都市が密集し、最も豊かな土地の一つだった。

ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の肖像(作者不明)
ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の肖像(作者不明)Wikimedia Commons anonymous · Public domain

公たちはフランス王家の一族でありながら、王家と争った。2代目のジャン無畏公はフランスの宮廷の主導権を争って、1407年に王の弟オルレアン公を暗殺させ、自らも1419年に暗殺された。3代目のフィリップ善良公は、父の仇を討つためにイングランドと手を結んだ。1430年、ジャンヌ・ダルクをコンピエーニュで捕らえたのはブルゴーニュの側の軍で、彼女はイングランドに引き渡された。1435年、善良公はフランス王と和解し、戦いの流れは変わっていく。

宮廷は、当時のヨーロッパで最も華やかな場所になった。1430年、善良公はポルトガルの王女との結婚を祝って、ブリュージュで金羊毛騎士団を作った。ギリシア神話の英雄イアソンが求めた金の羊毛を印とする、選ばれた騎士たちの団体になる。儀礼の順序、座る席、食卓の皿の運び方まで細かく定められ、祝宴では、仕掛けで動く人形や、巨大なパイの中から現れる楽士たちが客を驚かせた。

1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを落とすと(コンスタンティノープル陥落)、善良公は翌1454年、リールで盛大な祝宴を開いた。生きた雉を前に、公と貴族たちは、異教徒と戦う十字軍に出ると次々に誓った。「雉の誓い」と呼ばれる。宴では、異教徒に囚われた教会を演じる人物が象の背に乗って現れ、助けを求めて嘆いたという。だが、十字軍は結局送られなかった。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

画家のヤン・ファン・エイクは善良公に仕え、公の結婚相手の肖像を描くために、使節に加わってポルトガルまで旅した。油絵の具を薄く重ねて、宝石の輝きや布の手触りまで描き出す技は、この宮廷と、その周りの豊かな都市の注文の中で磨かれた。ヘントの聖バーフ大聖堂の祭壇画や、善良公の宰相ロランが注文した聖母の絵が残る。音楽では、作曲家バンショワが宮廷の礼拝堂に仕え、デュファイも宮廷と行き来した。ブルゴーニュの宮廷は、北方ルネサンスと呼ばれる芸術の揺りかごになった。

20世紀のはじめ、オランダの歴史家ホイジンガは、この宮廷の過剰さを「中世の秋」と呼んだ。騎士道の理想は、鉄砲と歩兵の時代が来て実際の戦争の役に立たなくなってから、かえって細かく美しく整えられた。それは新しい時代の始まりではなく、一つの文化の熟しきった終わりの姿だ、という見方になる。

ブルゴーニュ公ジャン無怖公の肖像(ジャン・マルエル風)
ブルゴーニュ公ジャン無怖公の肖像(ジャン・マルエル風)Wikimedia Commons anonymous / After Jean Malouel / School of Jan van Eyck · Public domain

最後の公シャルルは、「突進公」と呼ばれた。飛び地の領土をつなげて一つの王国にしようと、ロレーヌやスイスの人びとと戦った。1476年、スイスの歩兵にグランソンとモラで続けて大敗し、1477年1月5日、ロレーヌのナンシーの戦いで戦死した。遺体は数日後、凍った池のそばで、顔も見分けにくい姿で見つかったという。

後に残ったのは、19歳の娘マリーだった。フランス王ルイ11世は、すぐにブルゴーニュの本領を奪った。マリーはその年のうちに、神聖ローマ皇帝の息子、ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、ネーデルラントを守った。その孫が、のちにスペインとオーストリアとネーデルラントを合わせて治めるカール5世になる。ブルゴーニュの富と、金羊毛騎士団と、細かく定められた宮廷の儀礼はハプスブルク家に受け継がれ、スペインとウィーンの宮廷で長く生き続けた。

出典(1)

ヨハン・ホイジンガ(堀越孝一 訳) 『中世の秋』第1章(生活の苛烈さ)・第2章(美しい生活への願い)

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