死の舞踏

概要
墓地の壁に、骸骨が教皇も王も農民も同じ列に引き込む絵が描かれた。黒死病と戦乱の世紀に、死が身分を平らにするという主題が繰り返し現れる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
15世紀初めのパリは、暗い時代のただなかにあった。1348年に初めてヨーロッパを襲った黒死病(黒死病)は、人口の3分の1から半分を奪ったあとも、10年、20年おきに繰り返し戻ってきた。イングランドとの百年戦争は続き、1415年のアザンクールの戦いでフランスの騎士は大敗した。フランス王家はブルゴーニュ派とアルマニャック派に割れて殺し合い、1418年にブルゴーニュ派がパリを押さえ、1420年からはその同盟者のイングランドの軍がパリに入っていた。飢え、疫病、兵士の略奪。死は日々の光景だった。
1424年の夏から翌年の春にかけて、パリの中心にあるサン=ジノサン墓地の回廊の壁に、長い絵が描かれた。当時のパリの一市民が残した日記にも、その制作のことが書きとめられている。この墓地はパリで最も大きな墓地で、地面がいっぱいになると古い骨を掘り出して回廊の上の屋根裏に積み上げていた。人々は骨の山を見上げながら、そこを散歩し、商いをし、待ち合わせをした。

絵に描かれたのは、生きた人と死者が交互に手を取り合って踊る行列だった。先頭は教皇で、皇帝、枢機卿、王、司教、騎士、修道院長、商人と、身分の高い順に続き、最後は農民、子ども、隠者に至る。その一人一人の手を、干からびた死者が引いている。死者は皮が骨に張り付き、腹が裂けた姿で、にやりと笑いながら踊るように誘う。生きている側は、おびえ、ためらい、言い訳をする。絵の下には、死者と生者が交わす短い詩が添えられていた。どれほど偉くても、どれほど貧しくても、呼ばれた者は断ることができない。
この主題の元になったのは、それ以前からあった詩や説教だとされる。「私は死にに行く」と繰り返すラテン語の詩や、狩りに出た三人の若い貴族が三体の死者に出会い、私たちもかつてはお前たちのようだった、お前たちもやがて私たちのようになる、と告げられる「三人の生者と三人の死者」の話が知られていた。パリの墓地の絵は、それを身分の行列として一枚の壁にまとめ、公の場に掲げた。そこが新しかった。
パリの絵は評判を呼び、1485年には印刷業者ギヨ・マルシャンが、この絵と詩を木版画の本にして売り出した。印刷術(グーテンベルクの活版印刷)が生まれて間もない時期で、本はよく売れ、版を重ねた。そこから主題はヨーロッパ中に広がった。ドイツのリューベックの聖マリア教会には1463年に長大な死の舞踏が描かれ、スイスのバーゼルでは墓地の壁に描かれたものが名所になった。教会の壁画、写本の余白、木版画。地域によって登場する身分も、添えられる言葉も違った。

16世紀には、ドイツの画家ハンス・ホルバインが、死者が人々の日常に忍び込む場面を小さな木版画の連作にした。死者は踊りに誘うのではなく、農夫の馬を追い、商人の金を数え、裁判官の後ろに立つ。行列から一人ずつの場面へ、死の表し方が変わっていった。
パリのサン=ジノサン墓地の絵そのものは、17世紀に回廊が取り壊されたときに失われた。墓地も18世紀の末には衛生上の理由で閉じられ、そこに積まれていた骨は、町の地下の石切り場に移された。いまパリの地下納骨堂に並ぶ骨の多くは、そのときのものである。死の舞踏の絵は、マルシャンの版画を通して姿が伝わっている。

この主題をどう読むかについて、オランダの歴史家ホイジンガは『中世の秋』(物語「『中世の秋』で読む中世の終わり」)で、死への強い執着を中世の終わりの人々の感じ方の特徴として描いた。死がすべての身分を同じにするという考えは、裏を返せば、生きているあいだの身分の差がどれほど大きく、動かしがたいものだったかを示している。死の舞踏は、身分の高い者への皮肉としても、自分の死を準備せよという教えとしても見られた。19世紀には、サン=サーンスが真夜中に骸骨が踊る管弦楽曲を作り、この題名はさらに広く知られるようになった。