『万葉集』の成立
概要
20巻、4500首。天皇から防人、遊女、乞食まで。大伴家持が最後の歌を759年に詠み、その後に編んだと考えられている。漢字の音で日本語を書いた「万葉仮名」。「令和」はこの本の梅の歌の序文から。読み方の研究は951年に梨壺の五人が訓をつけたことに始まり、鎌倉時代の仙覚の新点で固まる。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
『万葉集』は、現存する日本最古の歌集である。全20巻に、およそ4500首の歌が収められている。歌の多くは、7世紀の前半の舒明天皇のころから759年(天平宝字3年)までのおよそ130年のあいだに作られた。巻頭には伝承上5世紀の雄略天皇の歌が置かれている。天皇や皇族、貴族の歌と並んで、東国の農民の歌、九州の守りに送られた兵士の歌、各地を巡る芸人の歌までが一つの書物に入っている。いつ、誰がまとめたのかを記した記録は無く、成立の事情は歌の中身から推し量るしかない。
書名の意味にも二つの説がある。「万の言の葉」、つまり多くの歌を集めた本という意味と、「万代」、つまり永く後の世まで伝わるべき歌集という意味である。歌の形は、五七五七七の短歌がおよそ4200首と大部分を占め、長い長歌が260首あまり、五七七を繰り返す旋頭歌が60首ほどある。歌は主に、儀礼や旅や宴の歌である「雑歌」、男女や親しい人のあいだで交わした「相聞」、死を悼む「挽歌」に分けて並べられている。

巻1の巻頭には、雄略天皇の作とされる「籠もよ み籠持ち」で始まる求婚の歌が置かれ、次に舒明天皇が香具山に登って国見をした歌が続く。7世紀の後半には、額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば」と、斉明天皇の西への船出を詠んだ。持統天皇の時代に宮廷歌人として活躍した柿本人麻呂は、皇子たちの死を悼む壮大な長歌や、旅の歌を残し、のちに歌の聖と仰がれた。8世紀には、富士を詠んだ山部赤人、貧しい農民と役人の問答の形で暮らしの苦しさを詠んだ「貧窮問答歌」や、子を思う歌で知られる山上憶良、酒をほめる歌を連ねた大伴旅人が現れる。
宮廷の外の歌もある。巻14の「東歌」は、東国の人々の歌を集めたもので、「多摩川にさらす手作りさらさらに」のように、東国の言葉の訛りを残している。巻20などには、東国から九州の守りに送られた防人とその家族の歌が収められ、父母が頭をなでて無事でいろと言った言葉が忘れられない、と別れを詠んでいる。これらの歌は、家持が兵部省の役人として防人の事務にかかわったときに集めたものと考えられている。巻16には、家々を回って祝いの言葉を述べる芸人の歌や、笑いを誘う戯れの歌も入っている。

20巻の終わりを飾るのは、大伴家持の歌である。759年の正月1日、因幡国(いまの鳥取県東部)の長官として赴任していた家持は、国庁での新年の宴で、新しい年の初めの初春の今日降る雪のように、良いことがますます重なれ、と詠んだ。これが『万葉集』の最後の歌で、日付の分かる歌のうちで最も新しい。家持は全体の1割にあたる470首あまりを残した最大の歌人で、日記のように年月を追って自作と周りの人の歌を並べた巻が最後の4巻を占めている。こうしたことから、家持が最終的な編者だったという説が有力である。ただし20巻が一度に編まれたわけではなく、巻1と巻2がまず宮廷の歌集としてまとめられ、そこに後から巻が足されていったと考えられている。
『万葉集』の歌は、すべて漢字で書かれている。日本語にはまだ自前の文字が無かったからである。漢字の意味を借りて日本語の語を書く方法と、意味を捨てて音だけを借りる方法が組み合わされた。「やすみしし わが大君の」を「安見知之 吾大王乃」と書くように、音を借りた字を「万葉仮名」と呼ぶ。のちの平仮名と片仮名は、この万葉仮名を崩したり一部を取ったりして生まれた。書き手の遊び心が出た書き方もある。「しし」を「十六」と書くのは四四十六の掛け算で、「いづ(出)」を「山上復有山」と書くのは、山の上に山を重ねると「出」の字になるからである。

この書き方は、時代が下ると読めなくなっていった。平安時代の951年、村上天皇の命で、源順ら「梨壺の五人」と呼ばれる学者たちが『万葉集』に読みを付けた。これを「古点」という。13世紀には僧の仙覚が古い写本を比べて残りの歌に読みを付けた。江戸時代には僧の契沖が『万葉代匠記』で本格的な注釈を始め、賀茂真淵らの国学者が研究を深めた。それでも読み方が決まらない歌は残っている。柿本人麻呂の「東の野に…」の歌は、原文が「東野炎立所見而」で、昔は「あづまのの けぶりのたてる ところみて」などと読まれていた。いま広く知られる「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて」は、江戸時代の真淵の読み方である。
『万葉集』は日本の歌の見方を何度も変えてきた。905年の『古今和歌集』は、序文で「万葉集に入らない古い歌」を集めたと述べ、自らを『万葉集』の後継と位置づけた。真淵は、『古今和歌集』以後の繊細な歌風に比べて、万葉の歌には力強く率直な「ますらをぶり」があると称えた。明治時代には正岡子規が、技巧に走った当時の和歌を批判し、『万葉集』に学べと説いて、近代短歌の流れを作った。

2019年、新しい元号「令和」が、この歌集から採られた。巻5に収められた、730年の正月に大宰府の長官だった大伴旅人の邸で開かれた梅の花の宴の歌32首の序文に、「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」とある。元号が日本の古典から採られたのは初めてとされた。ただ、この序文は漢文で書かれ、中国の後漢の張衡の「帰田賦」にある「仲春令月、時和し気清し」を踏まえている。全体の組み立ては、王羲之の蘭亭序にならったものと考えられている。日本の古典の中に中国の古典が流れ込んでいることも、『万葉集』の姿をよく表している。
作者の名が分かる歌人は数百人にのぼるが、歌のほぼ半数は作者が分からない。天皇の国見の歌と、名もない東国の娘の恋の歌が、同じ書物の中に並んでいる。8世紀の人々が何を喜び、何を悲しんだかを、これほど多くの声で伝える書物は、ほかに無い。