できごと

雅楽寮

The Bureau of Court Music
AD701年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民唐突厥ツングース系の人びと吐蕃吐蕃渤海ウイグルカルルク高句麗タイ系の諸王国日本Nan-Zhaoアイヌ新羅ヒンドゥーの諸国真臘チャンパドヴァーラヴァティーAD701年平城京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD701年の版図を描いています(19勢力)。

概要

大宝令で治部省の下に置かれた。唐楽、高麗楽、百済楽、新羅楽、そして倭の歌舞を、国家が教習させる役所である。楽師と楽生の定員が令に書かれている。大陸から来た音楽が、朝廷の儀式の音として制度に組み込まれた。唐の宮廷音楽そのものは中国では失われ、日本の雅楽と正倉院の楽器に、その形の一部が残った。

場所

平城京
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県

本文

701年に定められた大宝律令は、国家の役所の仕組みを細かく書き記した。その中で、儀式や礼を受け持つ治部省の下に置かれたのが、雅楽寮(うたまいのつかさ)である。音楽と舞を、国が教え、国が演じさせるための役所だった。朝廷の儀式で何を、どのように奏でるかが、ここで決められた。

令には、楽師と楽生の定員まで書かれている。のちの養老令によれば、日本古来の歌と舞を受け持つ者として歌師や歌人、歌女が百人、舞師と舞生百人、笛の師と生徒と笛を作る職人が置かれた。その一方で、外から来た音楽の担い手も定められた。唐の音楽を教える唐楽師が十二人、その生徒が六十人。高麗楽、百済楽、新羅楽にはそれぞれ師が四人、生徒が二十人。さらに伎楽や腰鼓の師もいた。合わせれば四百人を超える。生まれたばかりの律令国家が、これだけの人数を音楽のために抱えていたのである。

御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年(慶応3年)出版
御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年(慶応3年)出版Wikimedia Commons Public domain

外から来た音楽は、いくつもの道筋をたどっていた。『日本書紀』によれば、612年、百済から来た味摩之という人が、中国南部の呉の地で学んだ伎楽を伝えた。伎楽は、頭からすっぽりかぶる大きな仮面を着けて練り歩く芸能で、正倉院や法隆寺に残る面は、鼻が高く目の大きな、異国の人の顔をしている。752年の大仏開眼の法要でも盛大に演じられたが、その後は廃れ、中世には絶えてしまった。

中心になったのは唐楽、つまり唐の宮廷の音楽である。遣唐使とともに渡った人々が学び、楽器や楽譜が持ち帰られた。朝鮮半島の三国からも、それぞれの音楽が伝わった。さらに736年には、林邑(いまのベトナム中部のチャンパー)の僧、仏哲が、インドの僧菩提僊那とともに来日し、林邑楽と呼ばれる曲を伝えたとされる。菩提僊那は、大仏開眼の法要で導師を務めた人である。奈良の都の儀式では、中国、朝鮮、東南アジア、インドにつながる音が、同じ庭に響いていた。

人長舞
人長舞Wikimedia Commons Mikomaid(from Japan) · CC BY 2.5

楽器は、正倉院に残っている(正倉院の楽器)。なかでも螺鈿紫檀五絃琵琶は、五本の弦を持つ琵琶として世界にただ一つ現存するもので、中国でも失われた形を伝えている。ほかにも、ハープの仲間の箜篌、竹の管を並べた排簫、いまのものとは別系統の古い尺八などがある。これらの多くは、のちに雅楽の編成から外れて絶えた。いまは正倉院の実物をもとに、復元の試みが続けられている。

唐の宮廷音楽そのものは、本場の中国では失われた。8世紀半ばの安史の乱で宮廷の楽人たちは散り散りになり、やがて唐の滅亡を経て、宋以後の宮廷の音楽はまったく別のものに変わっていった。日本の雅楽には、その形の一部が残った。ただし、そのままの姿ではない。平安時代に日本で大きく作り替えられ、演奏の速さは極めて遅くなった。唐の時代の楽譜から復元すると、もとはずっと速く軽やかな曲だったと考える研究者もいる。だから「雅楽を聞けば唐の音楽が聞ける」というのは正確ではない。それでも、旋律の骨組みと楽器の形は伝わっている。

春日権現験記
春日権現験記Wikimedia Commons Takashina Takakane · Public domain

9世紀、仁明天皇のころを中心に、雅楽は大きく整理された。外来の音楽を、唐楽と林邑楽を中心とする左方と、朝鮮半島から来た音楽をまとめた高麗楽の右方に二分し、舞楽では左方が赤系、右方が緑系の装束を着けるようになった。管絃の楽器の編成も、笙・篳篥・龍笛の管、琵琶・箏の絃、鞨鼓・太鼓・鉦鼓の打楽器に固まった。遣唐使の中止のあと、大陸から新しい音楽が入ってこなくなると、雅楽は日本の宮廷の音楽として、独自の道を歩み始める。

役所としての雅楽寮は、平安時代のうちに衰えた。代わりに宮中の楽所が実際の演奏を担い、演奏の技は特定の家に代々受け継がれるようになった。多、安倍、豊原、東儀といった家々で、東儀家はいまも雅楽を伝えている。京都の宮中、奈良の興福寺と春日大社、大阪の四天王寺には、それぞれ楽人の集団があり、三方楽所と呼ばれて、少しずつ違う伝承を守った。

林歌
林歌Wikimedia Commons Mikomaid(from Japan) · CC BY 2.5

明治になると、1870年に新政府が雅楽局を置き、三方楽所の楽人を東京に集めた。伝承は一つにまとめられ、このとき失われた違いもあったと指摘されている。楽人たちは同時に西洋の音楽も学ばされた。日本で最初に西洋の楽器を本格的に演奏したのは、雅楽の楽人たちである。いまの国歌の旋律(君が代)を作ったのも、宮中の楽人だった。

いま雅楽は、宮内庁式部職楽部の二十数人の楽師によって演奏され、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。伝わる曲は百数十曲で、平安時代には数百曲あったと考えられている。失われた曲の楽譜が残っている場合もあるが、当時の速さや装飾が分からず、楽譜だけでは音にならない。雅楽は、世界で最も古くから演奏され続けている合奏音楽の一つとされる。千三百年のあいだ、変わらずに伝わったのではない。変わりながら、途切れずに続いてきたのである。

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