レオナルド・ダ・ヴィンチ
概要
絵、解剖、水利、飛行。分野を分けずに世界を観察し、大半を未完のまま残した。
関わったできごと(1)
イタリア・ルネサンスの盛期1450年 · 担い手本文
1452年4月15日、フィレンツェの西の小さな町ヴィンチの近くで生まれた。父セル・ピエロは公証人で、母カテリーナは農家の娘とされてきたが、身分の低い女性だったこと以外ははっきりせず、近年は別の出自を唱える研究もある。二人は結婚せず、子は私生児として父方の祖父の家で育てられた。

嫡出でないため、父の職を継げない。当時、公証人の組合は私生児を受け入れなかった。十代半ばでフィレンツェに出て、彫刻家で画家のヴェロッキオの工房に入ったことが、画家になる道になった。工房では絵だけでなく、金属の鋳造、機械の仕掛け、舞台の装置まで手がけた。師の『キリストの洗礼』の中の天使を描いたのは彼で、その出来に師が絵筆を折ったという話を16世紀の伝記作者ヴァザーリが書いているが、伝説の色が濃い。
ラテン語をきちんと習っていない。学者の書物を自由に読めなかったぶん、自分で見て確かめる方に傾いたとされる。自分を「学問のない人間」と呼び、手記に、経験は決して誤らない、誤るのは判断のほうだと書いている。手記は右から左へ、鏡に映したような文字で書かれていた。左利きだったためとも言われる。

1482年頃、ミラノの実力者ルドヴィーコ・スフォルツァのもとへ移った。仕官を願って書いた手紙の下書きが残っていて、持ち運べる橋、城攻めの道具、大砲、装甲車などを作れると十項目にわたって並べ、最後に、平時には絵も彫刻もできると書き添えている。
ミラノでは十数年を過ごし、宮廷の祝宴の演出、運河の設計、軍事の図面に携わった。ルドヴィーコの父の巨大な騎馬像を任され、粘土の原型まで作ったが、鋳造のための青銅は戦争の大砲に回された。1499年にフランス軍がミラノを占領すると、原型は兵士の弓の的にされて壊れたと伝えられる。

この時期に描いたのが、修道院の食堂の壁画『最後の晩餐』である。弟子の一人が自分を裏切る、とキリストが告げた瞬間の、十二人の弟子のどよめきを描いた。ゆっくり描き重ねるために、乾く前の漆喰に描く伝統の技法を使わず、乾いた壁に絵の具を塗ったため、完成から数十年で傷み始めた。いま見られるのは、何度もの修復を経た姿である。
人体解剖を30体ほど行ったと、本人が書いている。病院で、亡くなったばかりの百歳の老人の体を開き、その死因を血管の変化から考えた記録もある。心臓の弁が開閉する仕組みや、血の流れが弁のそばに作る渦を図に描き、その正しさが確かめられたのは20世紀になってからである。胎内の子の姿、筋肉の重なり、骨の動きを描いた素描は、絵のための勉強の域を超えていた。だが解剖の成果をまとめた本は出されず、同時代の医学には影響を与えなかった。

飛行機械、戦車、可動橋、潜水の道具。鳥の飛び方を観察して、羽ばたく翼の仕組みを何枚も描いた。図面は残ったが、作られたものはほとんど無い。手記はおよそ7000ページ分が現存し、元はその倍以上あったとも推測されている。
1500年にフィレンツェへ戻ると、一時はチェーザレ・ボルジアの軍事技師として各地の城砦を調べ、正確な地図を作った。フィレンツェの政庁の大広間では、ミケランジェロと壁画を競作することになったが、新しい技法を試して絵の具が流れ落ち、未完に終わった。この頃に描き始めたのが、のちに『モナ・リザ』と呼ばれる肖像画である。依頼主に渡されることはなく、彼は最期までこの絵を手元に置いて手を加え続けた(モナ・リザの盗難)。

絵も未完が多い。確実に彼の作とされる絵は20点に満たない。注文を受けて何年も納めず、ミラノの『岩窟の聖母』では依頼主の信心会と支払いを巡って長い訴訟になっている。ヴァザーリは、彼が頭の中で完璧を求めすぎて、手がそれに追いつかなかったと書いた。
1513年にはローマへ移ったが、教皇の宮廷では若いミケランジェロやラファエロが重く用いられ、大きな仕事は回ってこなかった。1516年、フランス王フランソワ1世に招かれ、ロワール川沿いのアンボワーズの館に移り住む。王は彼を「第一の画家・技師・建築家」として遇し、しばしば話を聞きに来たという。

1519年5月2日、その地で死んだ。67歳だった。フランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという話はヴァザーリが書いたものだが、王はその日別の場所にいたとされ、事実ではないと考えられている。手記は弟子のメルツィに遺されたが、その死後に散り散りになり、いまは各地の図書館や個人の手に分かれて所蔵されている。
見ることと考えることに時間を使いすぎて、仕上げる時間が残らなかった人になる。絵画、解剖、工学、地理と分野を分けずに観察したその姿は、19世紀に手記が読まれるようになってから、「万能の人」としてイタリア・ルネサンスの盛期を代表する像になった。