チヌア・アチェベ
概要
『崩れゆく絆』で、植民地化される側から書いた。アフリカを語る言葉を、外の筆から取り戻す試みになる。
関わったできごと(1)
ビアフラ戦争AD1967年 · 独立側を支持した本文
1930年11月16日、イギリスの植民地だったナイジェリアの東部、イボ人の町オギディに生まれた。洗礼名はアルバート・チヌアルモグ。父はイギリス国教会の伝道協会に仕える伝道師で、家ではキリスト教の祈りと賛美歌が日課だった。一方、周りに住む親戚や近所の人々は、昔ながらのイボの神々を祀り、祭りを行っていた。少年は、その二つの世界の境目で育った。教会では禁じられている近所の祭りを、こっそり見に行ったと後に語っている。母や姉からは、イボの昔話をたくさん聞かされた。

植民地政府が作った名門の中等学校を経て、1948年、新設されたイバダンのユニバーシティ・カレッジに奨学金を得て入学した。はじめは医学を学ぶはずだったが、英文学に移った。この頃、イギリス風の洗礼名を捨て、チヌアと名乗るようになった。
大学で読んだ小説が、彼を書く道へ押し出した。アイルランド出身のジョイス・ケアリーが書いた『ミスター・ジョンソン』である。ナイジェリアを舞台にしたこの小説は、イギリスでは名作として評価されていたが、そこに描かれたアフリカ人の主人公は、滑稽で、愚かで、自分たちの姿とは似ても似つかなかった。アチェベは、外から来た人が書いたアフリカではなく、内側から見たアフリカを書かなければならないと考えた。のちに、ライオンが自分たちの歴史家を持つまで、狩りの物語は常に狩人を讃えるだろう、というアフリカのことわざを引いて、自分の仕事を説明している。

大学を出ると、ナイジェリア放送協会に勤めながら小説を書いた。手書きの原稿をロンドンの清書の業者に送ったところ、何か月も音沙汰が無くなり、原稿は危うく失われかけた。1958年、その小説『崩れゆく絆』が出版された。原題は「物事はばらばらになる」という意味で、アイルランドの詩人イェイツの詩の一節から取られている。
舞台は19世紀の終わり、ヨーロッパの国々がアフリカの分け方を取り決めた(ベルリン会議とアフリカ分割)のと同じ頃の、ニジェール川下流のイボの村ウムオフィアである。主人公オコンクウォは、怠け者で借金まみれだった父を恥じ、腕力と勤勉で村の有力者にのし上がった男だ。彼は弱さを見せることを何より恐れ、妻たちを殴り、息子に厳しく当たる。アチェベは村の暮らしを、豊かな儀礼と言葉、ことわざに満ちた一つの完成した社会として描いた。同時に、双子を森に捨てる習わしや、神託の名で人の命を奪う掟も隠さなかった。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、村で居場所の無かった者たちが改宗し、続いて植民地の役所と裁判所が入り込む。村はばらばらになり、オコンクウォは破滅する。

小説の最後の場面で、イギリス人の地方長官は、オコンクウォの死を自分が書くつもりの本の材料にしようと考える。題は『ニジェール川下流の未開部族の平定』。一人の男の生と死は、その本の中では一段落ほどの話にしかならないだろう、と長官は思う。内側から語られた物語が、外からの記録の中でどれほど小さく扱われるかを、皮肉に突きつける結末である。
この小説は、アフリカ人が英語で書いた近代小説の出発点の一つとされ、のちに50以上の言語に訳され、2000万部を超えて読まれた。1957年のガーナの独立に続いて、1960年、ナイジェリアは独立した。アチェベは、イギリスの出版社がアフリカの作家を世に出すために始めた叢書の初代の編集顧問となり、多くの若い作家を送り出した。
英語で書くことには批判もあった。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは、植民地支配者の言葉で書くことをやめ、自分の民族の言葉で書くようになった。アチェベは、英語を捨てるのではなく、アフリカの経験を運べるように作り変えた新しい英語を使うのだと答えた。この論争は、アフリカ文学の大きな問いとして今も続いている。
1966年に出した『人民の男』は、腐敗した政治家たちを風刺し、最後に軍のクーデターで終わる小説だった。その直後、ナイジェリアで本当にクーデターが起きた。翌1967年、東部のイボ人の地域がビアフラ共和国として独立を宣言し、内戦になった(ビアフラ戦争)。アチェベはビアフラの側に立ち、その使節として海外を回って支援を訴えた。住んでいた家は爆撃され、親友の詩人オキボは戦死した。封鎖されたビアフラでは、100万人とも言われる人々が飢えと戦いで死んだ。アチェベはこの体験について、長く小説を書かなかった。
1975年、アメリカの大学で行った講演で、イギリス文学の古典とされるコンラッドの『闇の奥』を取り上げ、アフリカとアフリカ人を人間らしさを欠いた背景として扱っていると論じ、作者を「徹底した人種差別主義者」と呼んだ。この講演は大きな反発を呼んだが、植民地の時代の文学を、描かれた側の目で読み直すきっかけを作った。
1990年、ナイジェリアで自動車事故に遭い、下半身が麻痺した。以後は車椅子の生活となり、アメリカの大学で教えながら暮らした。祖国の政治の腐敗に抗議して、政府からの勲章を二度辞退している。2007年には国際的な文学賞であるブッカー国際賞を受けた。2012年、ビアフラ戦争の体験を振り返る回想録を出し、翌2013年3月21日、アメリカのボストンで亡くなった。82歳。遺体は故郷のオギディに帰って葬られた。
『崩れゆく絆』は、いまもアフリカの学校で読まれ、世界中の大学で教えられている。アフリカ分割(アフリカ分割)の後に植民地とされた側が、自分たちの物語を自分たちの手に取り戻す。その最初の一冊として、この小説は読まれ続けている。