王昭君の降嫁
概要
後宮の女性が匈奴の単于に嫁がされ、草原で生涯を終えた。漢と匈奴の和親の証で、その後60年、境は静かだった。詩と物語が千年語り継ぐ。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
王昭君BC50年頃–? · 嫁いだ本文
漢と北の遊牧国家匈奴との関係は、建国のときから漢の悩みの種だった。紀元前3世紀の末、冒頓単于が草原をまとめると(匈奴の統一)、漢の高祖劉邦はこれに挑んで包囲され、命からがら逃れた。それから漢は、皇族の娘を単于に嫁がせ、毎年絹や酒、穀物を贈る「和親」によって平和を買う道をとった。半世紀あまりのち、漢の武帝がこの屈辱的な関係を破り、衛青や霍去病を送って匈奴を北へ追いやった。だが戦争は双方を疲れさせた。
紀元前1世紀の半ば、匈奴の内部で単于の位をめぐる争いが起き、一時は5人もの単于が並び立った。そのなかの一人、呼韓邪単于は、兄の郅支単于に敗れると、漢に臣従して助けを求める道を選んだ。紀元前51年、呼韓邪は自ら長安に赴いて漢の皇帝に挨拶し、手厚くもてなされた。郅支単于はのちに西へ逃れ、紀元前36年に漢の軍に討たれた。匈奴を代表するのは、漢と結んだ呼韓邪だけになった。

紀元前33年の正月、呼韓邪は三度目の長安訪問を行い、漢の皇帝の婿になりたいと願い出た。元帝はこれに応え、後宮に仕える女性の中から、王嬙、字を昭君という人を与えた。昭君は長江の中流、いまの湖北省の秭帰の出身で、良家の娘として後宮に入ったが、何年たっても皇帝の目に留まることがなかった。『後漢書』は、彼女がそれを悲しみ恨んで、自ら匈奴へ行くことを願い出たと書いている。別れの宴の日、着飾った昭君が現れると、その美しさは宮中を照らすほどで、元帝はひどく驚き、手放すのを惜しんだが、約束を破るわけにはいかなかったという。この年、漢は元号を「竟寧」と改めた。境の安らぎ、という意味である。
昭君は「寧胡閼氏(胡を安んずる后)」の称号を受けて草原へ赴き、呼韓邪との間に男の子を産んだ。だが2年後、呼韓邪は亡くなる。匈奴には、父が死ぬと、その子が実母以外の父の妻を自分の妻とする習わしがあった。昭君は漢に帰りたいと願い出たが、漢の成帝は、匈奴の習わしに従うよう命じた。昭君は、呼韓邪の別の妻の子で、新たに単于となった復株累単于の妻になり、二人の娘を産んだ。その後、昭君がいつどこで亡くなったのかは、記録に無い。

昭君の嫁入りのあと、漢と匈奴の境は60年ほど静かだった。昭君の娘や孫たちも、漢と匈奴の間を取り持つ役を果たしている。この平和を壊したのは、漢の帝位を奪った王莽だった(王莽が新を建てる)。王莽は匈奴の単于に与えていた印を格下げし、名を勝手に変えさせるなどして怒らせ、北の境は再び戦乱に戻った。
昭君の物語は、やがて史実を離れて膨らんでいった。いちばん有名なのは、晋の時代ごろにまとめられた『西京雑記』の話である。後宮の女性は多すぎて皇帝が一人一人に会えないので、絵師に肖像を描かせ、その絵を見て呼ぶ相手を選んでいた。女性たちは美しく描いてもらおうと絵師に賄賂を贈ったが、昭君だけは贈らなかったので、わざと醜く描かれ、皇帝の目に留まらなかった。匈奴に送り出すことになってはじめて本人を見た元帝は、その美しさに驚いて悔やみ、絵師の毛延寿らを処刑した、という。史書にはこの話は無い。
唐の詩人たちも、こぞって昭君を詠んだ。李白、杜甫、白居易らが、遠い異国に嫁いだ女性の悲しみを詩にしている。琵琶を抱いて馬に乗り、砂漠を行く姿が、昭君の決まった姿になった。元の時代には、馬致遠の戯曲『漢宮秋』が、昭君が国境の川に身を投げる悲劇として描いた。昭君は、中国で最も多く物語られた女性の一人になった。
いま、内モンゴル自治区の区都フフホトの郊外に、昭君の墓とされる大きな塚がある。秋になって周りの草が枯れても、この塚だけは青々としている、という言い伝えから「青冢」と呼ばれてきた。ほかにも昭君の墓とされる場所はいくつもあり、どれが本当かは分からない。20世紀の中国では、昭君は漢族と北方の民族の友好の象徴として、悲劇の女性とは違う姿で語られるようにもなった。