ミゲル・デ・セルバンテス
概要
レパントで左手を失い、5年アルジェで捕虜だった。58歳で書いた『ドン・キホーテ』が最初の近代小説と呼ばれる。
関わったできごと(1)
『ドン・キホーテ』AD1605年 · 作者本文
1547年、マドリードの東のアルカラ・デ・エナーレスに生まれた。10月9日に洗礼を受けた記録が残り、誕生日は聖ミカエルの日の9月29日頃と推定されている。父は外科医を名乗ったが、実際には瀉血や骨接ぎをする理髪外科医に近く、借金を抱えて各地を転々とした。息子がどこでどれだけ学校に通ったのかは、よく分かっていない。
20代の初め、イタリアへ渡った。マドリードで人を傷つけて逮捕令状が出ていたためとする説がある。ローマで枢機卿に仕えたのち、スペインの歩兵部隊に入った。1571年10月7日、オスマン帝国の艦隊とキリスト教国の連合艦隊がギリシアの沖でぶつかった(レパントの海戦)。セルバンテスは熱を出していたが、甲板に出て戦うと言い張り、胸に2発、左手に1発の銃弾を受けた。左手は生涯動かなくなった。「レパントの片腕男」と呼ばれ、本人もこの戦いを生涯の誇りとした。後年、右手の栄光のために左手を失った、と書いている。

1575年、弟とともにナポリから帰国する船が、北アフリカの海賊に襲われた。総司令官ドン・フアンの推薦状を持っていたため、大物と見なされ、高い身代金を求められた。アルジェで5年、捕虜として過ごす。この間に四度、脱走を企てた。そのたびに失敗し、首謀者として名乗り出たが、なぜか処刑されなかった。1580年、三位一体会の修道士たちが集めた身代金で、ようやく解放された。33歳になっていた。
帰国しても、英雄に用意された職は無かった。牧人を主人公にした小説『ラ・ガラテア』や戯曲を書いたが、生活はできない。1587年からは、無敵艦隊のための小麦や油を農村から徴発する役人になった(アルマダの海戦)。教会の穀物まで取り立てて破門されたこともある。のちには徴税吏として歩き回り、預けた金の銀行が倒れて帳尻が合わなくなり、1597年にセビリアで投獄された。『ドン・キホーテ』の序文には、この物語は、あらゆる不便が住みつく牢獄で生まれた、という一文がある。この獄中での構想を指すと考えられている。

1605年、マドリードで『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版された(『ドン・キホーテ』)。セルバンテスは58歳だった。騎士道物語を読みすぎて自分を騎士だと思い込んだ田舎の郷士が、農夫サンチョ・パンサを従者に旅に出る。本はたちまち評判になり、同じ年のうちにリスボンやバレンシアで海賊版が出回った。だが版権は安く手放しており、作者はさほど豊かにならなかった。
人気が出ると、模倣も現れる。1614年、アベリャネーダという偽名の人物が、勝手に続編を出版した。誰が書いたのかは、いまも分かっていない。セルバンテスはこれに対抗するように、翌1615年に後編を出した。その中で、主人公たちは自分たちのことが書かれた前編を読んだ人々に出会い、偽の続編の噂を聞き、さらには偽作の登場人物と出くわして、あちらは偽物だと証言させる。物語の中の人物が、自分について書かれた本を意識している。小説が自分自身を題材にするこの仕掛けは、400年後の読者をも驚かせ、「最初の近代小説」と呼ばれる理由の一つになった。

晩年の10年余りは、書くことに費やされた。1613年には短編を集めた『模範小説集』を出している。最後の作品『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』の献辞は、死の数日前に書かれた。片足はもう鐙にかけている、と、死に向かう自分を旅立ちになぞらえている。1616年4月22日、マドリードで亡くなり、翌日、三位一体会の修道院に葬られた。68歳だった。
イングランドのウィリアム・シェイクスピアも同じ1616年に亡くなっている。記録上の日付は4月23日で、セルバンテスの埋葬日と重なるため、ユネスコはこの日を「世界本の日」にした。ただし当時のイングランドは古いユリウス暦を使っており、いまの暦に直すとシェイクスピアの死は5月3日になる。二人が同じ日に死んだわけではない。

墓の場所は長く分からなかった。2015年、マドリードの修道院の地下で、セルバンテスのものを含むとみられる遺骨が見つかったと発表されたが、ほかの人々の骨と混ざっており、本人のものと特定はできていない。
『ドン・キホーテ』は、世界で最も多くの言語に訳された小説の一つである。理想に取りつかれて現実とぶつかる人物は、「ドン・キホーテ的」という言葉になった。スペイン語は、いまも「セルバンテスの言葉」と呼ばれる。