できごと

モーツァルトの死とレクイエム

Mozart's Requiem
AD1791年12月5日
重要度 3
モーツァルトの死とレクイエムに関わる図版:K626 Requiem Mozart
K626 Requiem Mozart Wikimedia Commons Public domain

概要

匿名の依頼で書いていた鎮魂曲を未完のまま残して死んだ。35歳。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

関わった人(1)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトAD1756年1月27日–AD1791年12月5日 · 当人

本文

1791年は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにとって忙しい年だった。前の年まで、ウィーンでの人気は陰り、収入は落ち、知人に借金を頼む手紙を何通も書いていた。だがこの年に入ると、仕事が次々に舞い込んだ。春にはピアノ協奏曲の最後の一曲を書き上げ、夏からは劇場主シカネーダーの一座のためにドイツ語の歌芝居『魔笛』に取り組み、さらにボヘミア王としての戴冠を祝うプラハの祝典のためにオペラ『皇帝ティートの慈悲』を急いで仕上げた。クラリネット協奏曲もこの年の作である。

その夏、見知らぬ使いがモーツァルトを訪ね、死者のためのミサ曲、レクイエムの作曲を頼んだ。依頼主は名を明かさないこと、作品の写しを手元に残さないことが条件で、報酬の半分が前払いされたと伝えられる。

コンスタンツェ
コンスタンツェWikimedia Commons Joseph Lange · Public domain

依頼主の正体は、のちに分かる。ウィーンの南に領地を持つフランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパッハ伯爵で、その年の初めに若くして亡くなった妻を追悼するための曲だった。伯爵には、名のある作曲家に曲を書かせ、自分で写譜して自分の作として演奏する癖があったとされる。じっさい伯爵は1793年に、このレクイエムを自分の指揮で、自分の作として演奏させている。

モーツァルトが本格的にレクイエムに取りかかれたのは、9月の末に『魔笛』を初演したあとだったとみられる。『魔笛』は大当たりとなり、モーツァルトは劇場に通っては観客の反応を楽しんだ。だが11月の終わり、体調を崩して床に就く。手足がむくみ、高い熱が出た。病床でも作曲を続け、友人たちと書きかけの部分を歌って確かめたという話も、のちに伝えられている。

第8曲「ラクリモーサ」最初の部分の自筆譜
第8曲「ラクリモーサ」最初の部分の自筆譜Wikimedia Commons Public domain

12月5日の未明、モーツァルトは死んだ。35歳だった。

レクイエムは未完のまま残された。全曲を通して完成していたのは冒頭の入祭唱だけで、続くキリエはほぼ仕上がっていた。その後の「怒りの日」から奉献唱までは、声楽の旋律と低音の線、楽器の要所だけが書き込まれた下書きで、涙の日を意味する「ラクリモーサ」は8小節で途切れていた。その先の曲には、モーツァルトの手書きの楽譜は残っていない。

モーツァルトの銀筆画(ドーラ・シュトック画、1789年4月のドレスデン訪問時)
モーツァルトの銀筆画(ドーラ・シュトック画、1789年4月のドレスデン訪問時)Wikimedia Commons Dora Stock · Public domain

夫を失い、二人の幼い子を抱えた妻コンスタンツェにとって、前払いを受けた曲を完成させて残りの報酬を受け取ることは切実な問題だった。彼女はまず、夫が信頼していた作曲家ヨーゼフ・アイブラーに完成を頼んだが、アイブラーは途中で手を引いた。最終的に仕上げたのは、モーツァルトの弟子で、作曲の手伝いもしていたフランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーだった。ジュスマイヤーは下書きに楽器の書き込みを加え、ラクリモーサを書き継ぎ、残りのサンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイは自分で作ったと、のちに述べている。完成した楽譜は、モーツァルトの筆跡をまねた形で伯爵に渡された。

どこまでがモーツァルト自身の音楽で、どこからがジュスマイヤーの補筆なのか。ジュスマイヤーが、いまは失われたモーツァルトのメモや口伝えの指示を使ったのかどうか。その議論は今も続いている。20世紀の後半からは、ジュスマイヤーの手を見直し、別の形で完成させた版がいくつも作られた。それでも、いまも最も多く演奏されるのはジュスマイヤーの版である。

モーツァルトが書き始めた「怒りの日」の作業用手稿、アイブラーによる編曲が加わる
モーツァルトが書き始めた「怒りの日」の作業用手稿、アイブラーによる編曲が加わるWikimedia Commons Public domain

モーツァルトは死を予感し、これは自分のためのレクイエムだと思い込んでいた、灰色の服を着た謎の使いはあの世からの使者だった、といった話が広まったのは、死後のことになる。コンスタンツェや、のちの伝記作家が伝えた逸話が、ロマン主義の時代の天才像と結びついてふくらんでいった。

死因も分かっていない。当時の記録には、高い熱と発疹を伴う病と書かれている。これをもとに、リウマチ熱、腎臓の病、レンサ球菌による感染症、豚肉の寄生虫による病など、さまざまな説が出されてきたが、決め手は無い。宮廷楽長サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂は、モーツァルトの死後まもなくから流れ、のちにロシアの詩人プーシキンの劇や、20世紀の映画『アマデウス』で広く知られた。だが、それを裏づける証拠は何も無い。サリエリはモーツァルトの息子に音楽を教え、若いルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの師にもなった人物である。

コンスタンツェ(ハンス・ハンセン画、1802年)
コンスタンツェ(ハンス・ハンセン画、1802年)Wikimedia Commons Hans Hansen · Public domain

モーツァルトは、ウィーンの郊外の聖マルクス墓地の、共同の墓に葬られた。当時のウィーンでは、皇帝ヨーゼフ2世の改革で埋葬が簡素にされ、貴族ではない中流の市民が、墓標の無い共同の墓に葬られるのは普通のことだった。モーツァルトが貧しさのあまり乞食同然に捨てられるように葬られた、という話は誇張されている。葬列が嵐に阻まれて誰も墓地まで付き添わなかった、という有名な話も、当日の天気の記録とは合わない。ただ、墓の正確な場所は記録されず、今も分かっていない。

死の直後の12月10日、ウィーンの教会でモーツァルトの追悼のミサが行われ、そこでレクイエムの完成していた冒頭部分が演奏されたと考えられている。自分の妻のために他人に曲を書かせた伯爵の注文は、結果として作曲者自身を送る音楽になった。その後もレクイエムは、ベートーヴェンの師だったヨーゼフ・ハイドンの葬儀をはじめ、多くの人を送る場で演奏されてきた。

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