アイスキュロス『ペルシア人』
概要
サラミスから8年、自分も戦った作者が、負けたペルシアの側から海戦を描いた。現存する最古の悲劇で、実在の事件を扱った唯一のもの。勝った街で、負けた者の嘆きを上演した。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
アイスキュロスBC525年頃–BC456年 · 作者本文
紀元前480年、ペルシアの王クセルクセス1世の大艦隊は、アテナイの沖のサラミスの海峡で、ギリシアの連合艦隊に敗れた(サラミスの海戦)。翌年のプラタイアの戦いで陸軍も敗れ、ペルシアのギリシア遠征は終わった。アテナイは都を焼かれながら勝ち、その後、エーゲ海の覇者へとのし上がっていく。
それから8年後の紀元前472年の春、アテナイのディオニュソスの祭りで、アイスキュロスの悲劇『ペルシア人』が上演された。

アテナイの悲劇は、祭りの行事として国が催す競演だった。3人の作者がそれぞれ悲劇三つと、滑稽なサテュロス劇一つを上演し、審査で順位が決まる。上演にかかる費用は、富裕な市民が割り当てられて負担した。この年、アイスキュロスの上演の費用を出したのは、まだ20代のペリクレスだった。のちにアテナイを率いることになる政治家の、記録に残る最初の公の役目になる。アイスキュロスはこの年、一等を取った。
舞台はペルシアの都スーサ。王の留守を預かる長老たちが合唱隊となり、遠征の知らせを待っている。王母アトッサが現れ、不吉な夢を見たと語る。そこへ使者が駆け込み、艦隊が全滅したと告げる。使者は、死んだペルシアの将たちの名を次々に挙げ、海峡で船がぶつかり合い、櫂が折れ、海が死体で覆われた様子を長々と語る。

王母は夫の先王ダレイオスの墓に供物を捧げ、長老たちが呼びかけると、ダレイオスの亡霊が墓から現れる。亡霊は、息子クセルクセスがヘレスポントス(いまのダーダネルス海峡)に舟を並べて橋を架け、海を鎖で縛ろうとしたことを、神々を恐れぬ傲りだと責める。そして、まだギリシアに残る陸軍もプラタイアで滅びるだろうと告げて消える。最後に、敗れたクセルクセスが引き裂いた衣で戻り、長老たちと嘆きの歌を交わして劇は終わる。
ギリシア人は一人も名前で出てこない。勝った側が、負けた側の悲しみを、負けた側の目で描いた。テミストクレスが敵をおびき寄せた策略も、「アテナイの軍から来た一人のギリシア人」として語られるだけになる。
それをどう受け取るかは、昔から議論がある。勝利をたたえる愛国の劇として観客は喝采したのだろう、という見方。人間の傲りが神に罰されるという悲劇の型にあてはめた教訓の劇だという見方。そして、つい先日まで殺し合った敵の嘆きを、勝った街の劇場で観客に聞かせた、戦争の悲しみの劇だという見方。いずれにしても、ペルシア人を一方的に野蛮な悪として描く劇ではない。
いまに伝わるギリシア悲劇は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三人の作品、合わせて30あまりしかない。そのなかで『ペルシア人』は最も古く、神話ではなく同時代の実際の事件を扱ったものは、これ一つだけになる。ただ、実際の事件を描いた悲劇はこれが最初ではなかった。先輩の作者プリュニコスは、ペルシアに滅ぼされたミレトスの陥落を劇にして、観客を泣かせたために罰金を科されている。4年前には、サラミスの勝利を扱ったプリュニコスの劇が、テミストクレスの費用で上演されていた。
アイスキュロス自身は、マラトンの戦いでペルシア軍と戦い、兄弟をそこで失っている。サラミスでも戦ったと古代の注釈は伝える。海戦の描写は、目で見た者の書き方をしている。アイスキュロスが晩年にシチリアで亡くなったとき、墓碑には悲劇作家としての功績ではなく、マラトンで戦ったことだけが刻まれた、と伝えられる。

『ペルシア人』は、20世紀以降もしばしば上演されてきた。湾岸戦争やイラク戦争のさなかには、勝つ側が負ける側の嘆きを聞く劇として、新たな意味を込めて舞台にかけられた。2500年前の戦争劇が、勝った者の側から、敗れた者の悲しみを想像する試みとして、いまも読まれている。