概要
1920年1月、ボストン・レッドソックスは、投手としても打者としても力を見せていたベーブ・ルースを、ニューヨーク・ヤンキースに売った。それまでの野球は、飛ばない球で、細かく点を取り合う競技だった。ヤンキースで打者に専念したルースは、その年に54本、1927年には60本の本塁打を打ち、ホームランで観客を熱狂させる時代を開いた。1923年に完成したヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」と呼ばれた。一方、ルースを手放したレッドソックスは、86年間優勝できなかった。1934年、ルースは大リーグの選抜の一員として来日した。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
20世紀のはじめのアメリカの大リーグの野球は、「デッドボール時代」と呼ばれる。球は使い古されて柔らかくなっても取り替えられず、よく飛ばなかった。投手は球につばや泥をつけて変化させることも許されていた。本塁打は少なく、一人の打者が年に十数本打てば本塁打王になれた。試合は、安打と盗塁、バントで一点ずつを積み重ねる、細かい戦いだった。
ジョージ・ハーマン・ルース、通称ベーブ・ルースは、1895年、ボルティモアに生まれた。手に負えない子どもだったため、7歳で、カトリックの修道士が営む少年のための施設に入れられ、そこで野球を覚えた。1914年、ボストン・レッドソックスに入団し、左腕の投手として活躍した。1918年のワールドシリーズでも勝ち投手になった。同時に、打者としても並外れた力を持ち、1919年には、投げない日に外野を守って29本の本塁打を打ち、大リーグの記録を塗り替えた。
1920年1月、レッドソックスの持ち主ハリー・フレイジーは、劇場の経営の資金に困っていたともいわれ、ルースを10万ドルでニューヨーク・ヤンキースに売った。ヤンキースで打者に専念したルースは、1920年に54本の本塁打を打った。その年、ルースひとりの本塁打の数は、大リーグのほとんどのチームの本塁打の合計を上回った。1927年には、60本の本塁打を打ち、この記録は34年間破られなかった。
ルースの本塁打は、野球を変えた。1919年のワールドシリーズで八百長の事件が発覚し、野球の人気が揺らいでいたなかで、豪快な本塁打は観客を球場に呼び戻した。チームは本塁打を打てる打者を求めるようになり、新しい球が頻繁に使われ、投手が球に細工することは禁じられた。ヤンキースは、1923年に5万人以上を収容する巨大なヤンキー・スタジアムを建て、「ルースが建てた家」と呼ばれた。ヤンキースは、ルースの加入から何度もワールドシリーズを制し、大リーグで最も強いチームになった。一方、ルースを手放したレッドソックスは、2004年まで86年間、ワールドシリーズで勝てず、「バンビーノの呪い」と言われた。
1934年秋、ルースは、大リーグの選抜チームの一員として日本を訪れた。銀座のパレードには大勢の人が詰めかけた。この遠征は、日本の職業野球の始まりのきっかけになった(日本の職業野球の始まり)。ルースは1935年に引退し、1948年にがんで亡くなった。