シャルトルの青
概要
1194年の火災の後、四半世紀ほどで再建された大聖堂に、176の窓が入った。中世の窓としては、これほどまとまって残っている例が他に無い。ガラスは溶かす段階で金属を混ぜて色を付ける。青はコバルト、赤は銅である。とりわけ12世紀の青は、後の時代に再現できなかった。文字を読めない者に聖書を見せる絵だと説明されるが、高い窓の細部は地上から見えない。窓の下部には、寄進した同業組合の職人が働く姿が描かれている。
場所
48.45°N 1.49°E · フランス
本文
1194年6月、パリの南西にある町シャルトルが火に包まれ、大聖堂も焼けた。残ったのは、西の正面の「王の扉口」と二つの塔、そして地下の聖堂だけだった。大聖堂には、聖母マリアがキリストを産んだときに身に着けていたとされる聖なる衣が伝わっていた。数日後、焼け跡の地下からこの衣が無事に見つかったと伝えられる。人々はそれを、聖母がもっと立派な家を望んでいるしるしだと受け止めた。寄進が国中から集まり、再建はすぐに始まった(シャルトル大聖堂)。
再建は驚くほど速く進んだ。身廊と主な部分は四半世紀ほどで形をなし、1220年代にはほぼ姿を整えた。中世の大聖堂の多くは、完成までに百年、二百年とかかり、そのあいだに建築の流行が移り変わって、一つの建物に様式が入り混じる。1248年に起工したケルンの大聖堂(ケルン大聖堂の起工)のように、完成が19世紀までずれこんだ例さえある。シャルトルは短い期間に一気に建てられたため、ほぼ一つの様式でまとまっている。それは、パリ近郊のサン=ドニで始まった新しい建築(サン・ドニ修道院とゴシックの始まり)が成熟した姿でもあった。

壁を高く薄くし、外から支える飛び梁で重さを受け止めることで、壁には大きな窓を開けられるようになった。シャルトルには170を超える窓があり、色ガラスの面積は2000平方メートルを大きく超える。12世紀から13世紀の色ガラスの窓が、これほどまとまって残っている建物はほかに無い。ほとんどの大聖堂は、宗教改革やフランス革命、戦争の中で窓を失い、取り替えた。シャルトルの窓は、奇跡的に生き残った。第二次世界大戦が始まると、町の人々と職人たちは窓を一枚ずつ外し、番号を付けて安全な場所に隠し、戦争が終わってから元に戻した。
中世の色ガラスの色は、表面に塗ったものではない。ガラスを溶かす段階で金属の化合物を混ぜて色を付けるので、色はガラスそのものの中にあり、褪せることがない。青にはコバルト、赤には銅、緑には銅と鉄、紫にはマンガンが使われた。表面に描くのは、顔の表情や衣のひだを表す茶色や黒の線と陰影だけで、それを窯で焼き付けた。

赤には特別な工夫が要った。銅で色を付けたガラスはあまりに濃く、そのままの厚さでは光をほとんど通さず黒く見えてしまう。そこで職人は、透明なガラスの上に薄い赤の層を重ねて吹き、光が通るようにした。こうして作った色とりどりの破片を、鉛の細い枠でつなぎ合わせる。鉛は柔らかく、曲げて形に沿わせることができる。近くで見ると太すぎる鉛の黒い線は、遠くから見ると絵の輪郭になり、色と色を引き締める。
シャルトルの窓の中で、とりわけ名高いのが青である。西の正面の三つの窓や、「美しき絵ガラスの聖母」と呼ばれる窓に残る12世紀の青は、深く澄み、光を受けるとわずかに紫を帯びて輝く。この青は、後の時代にはうまく再現できなかったと言われてきた。原料の砂や灰に含まれていた不純物が色に効いていた可能性がある。中世のガラスは厚さが均一でなく、中に細かな泡や筋を含んでいて、それが光を散らし、色を揺らめかせる。均質な現代のガラスでは、そうはならない。800年の歳月で表面がわずかに侵されたことも、いまの見え方に関わっている。作られた当時の色が、いま私たちが見ている色と同じだったとは限らない。

窓に描かれているのは、旧約と新約の聖書の物語、聖人たちの生涯、そしてキリストの家系を一本の木で表したエッサイの樹などである。「美しき絵ガラスの聖母」は、火事を生き延びた12世紀の聖母子の部分を、13世紀の新しい窓の枠にはめ込んだもので、二つの時代のガラスが一つの窓に並んでいる。
こうした窓は、文字を読めない人々に聖書の物語を絵で見せるためのものだった、とよく説明される。13世紀の司教ギヨーム・デュランも、窓は俗人にとっての聖書だと書いている。だが、この説明には無理もある。高い位置の窓の細部は、地上からではほとんど見分けられない。描かれた人物が誰なのかを知るには、聖人ごとの持ち物などの約束ごとを心得ていなければならない。そして色ガラスを通した堂内は、思いのほか暗い。そのため近年の研究では、物語を読ませることよりも、色の付いた光そのものによって神の存在を感じさせることに主眼があった、という見方が重んじられている。サン=ドニの修道院長シュジェールは、目に見える光を通して、目に見えない光へと心が高められる、という趣旨のことを書いていた。
窓の下の方には、小さな場面が描かれていることが多い。パン屋がパンをこね、肉屋が肉を切り、樽職人が樽を組み、毛皮商が毛皮を広げ、両替商が硬貨を量り、水を運ぶ者が桶を担ぐ。かつては、その窓を寄進した町の同業組合が、自分たちの働く姿を描かせたものだと説明されてきた。いまでは、本当にその組合が寄進した証拠と言えるかについては議論があり、町の社会の秩序を描いた図像として読むべきだという説もある。いずれにしても、13世紀の職人たちの道具や服装や仕事ぶりが、これほど生き生きと残っている史料はめったに無い。文字の記録には、まず残らないものだからである。
1979年、シャルトルの大聖堂は世界遺産に登録された。2009年からは大がかりな洗浄と修復が進められ、窓の汚れが落とされ、内部の壁も、中世に塗られていた明るい色の状態に戻す作業が行われた。これには強い批判も起きた。800年の時が作った重々しい雰囲気を壊している、という声と、もともとの姿に戻しているだけだ、という声がぶつかった。何をもって元の姿とするのか。修復とは何をすることなのか、という問いが、この大聖堂で改めて突きつけられている。シャルトルの青は、いまも晴れた日には堂内の床に色の光を落としている。