概要
ライデンの製粉業者の子。20代でアムステルダムへ出て、肖像画で成功し、大きな家を買った。妻サスキアと死別(1642年)、内縁の妻を教会に訴えられ、1656年に破産して家財を競売にかけられた。それでも描き続けた。自画像を生涯に80点以上(若い成功者から、老いて笑う男まで)。『テュルプ博士の解剖学講義』『夜警』『ユダヤの花嫁』『放蕩息子の帰還』。貧民の墓に葬られた。
関わったできごと(1)
レンブラント『夜警』AD1642年 · 描いた本文
1606年7月15日、ライデン。父ハルメンは製粉業者(風車を持っていた)。母は パン屋の娘。9人の子の8番目。
ライデンのラテン語学校、そして14歳でライデン大学に登録(すぐ辞めた)。地元の画家に3年、そしてアムステルダムのピーテル・ラストマン(ローマでカラヴァッジョ派を見てきた歴史画家)に6か月。
1625年、ライデンに戻って工房を開いた。ヤン・リーフェンスと共同で。1628年、22歳で最初の弟子(ヘリット・ドウ)を取った。
1631年、アムステルダムへ。画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルフの家に住み、肖像画の注文を受けた。1632年、『テュルプ博士の解剖学講義』。外科医組合の集団肖像。医師たちが、死体の腕の筋肉を覗き込む。人物の視線と姿勢がばらばらで、それが一つの場面を作っている。26歳の彼の名が、市中に知られた。
1634年、サスキア・ファン・アイレンブルフ(画商の従妹。フリースラントの市長の娘)と結婚。持参金が多かった。1639年、ユダヤ人街の大きな家を買った(1万3000ギルダー。20年の分割払い。この契約が、後の破産の一因になった)。
彼は集めた。ローマの胸像、日本の甲冑、ヴェネツィアの絵、貝殻、剥製、武器、東洋の織物、そしてデューラーとマンテーニャの版画。競売で高値をつけた(「自分の職業の名誉のため」と説明した)。
1635〜41年、サスキアが4人の子を産み、3人が数か月で死んだ。1641年、ティトゥスだけが育った。1642年6月、サスキアが結核で死んだ。30歳。同じ年に『夜警』。
サスキアの遺言。財産は息子ティトゥスに、レンブラントは再婚しない限り、その用益権を持つ。だから、彼は再婚できなかった。
ヘールトヘ・ディルクス(ティトゥスの乳母)と関係を持ち、後に彼女が「婚約不履行」で訴え、レンブラントは彼女を「素行不良」として矯正院(ハウス・ファン・コレクティ)に12年の予定で入れさせた(5年で友人が救い出した。この一件は、彼の伝記の中で最も評判の悪い部分)。
ヘンドリッキェ・ストッフェルス(1649年から家政婦として来た、兵士の娘)と暮らした。1654年、教会が彼女を「画家レンブラントと姦淫の生活をしている」として、聖餐から排除した。同じ年、娘コルネリアが生まれた。
1656年、破産の申し立て(キセシー・ボノルム。負債者が財産を譲って支払い不能を宣言する手続き)。1657〜58年、家財と美術品が競売にかけられた。目録が残っていて、そこから彼の収集の中身が分かる。家も売られた。
1660年、ヘンドリッキェとティトゥスが会社を作り、レンブラントを「従業員」として雇う形にした(債権者から彼の収入を守るため)。彼は死ぬまで、その形で働いた。
晩年の絵。『織物商組合の見本監査官たち』(1662年)。『ユリウス・キウィリスの謀議』(1661〜62年。新市庁舎のために描いて、返却された。切り縮められた断片だけが残る)。『ユダヤの花嫁』(1665年頃。男の手が、女の胸の上に置かれている。ゴッホが「この絵の前に2週間、堅いパンだけで座っていられるなら、命が10年縮んでもいい」と手紙に書いた)。『放蕩息子の帰還』(1668年頃。父の二つの手——片方は男の手、片方は女の手のように描かれている)。
自画像。80点以上(油彩約40、エッチング約30、素描)。20代の、驚いた顔、笑う顔、口を開けた顔(表情の習作)。30代の、成功して、豪華な衣装と金の鎖をつけた顔。50代の、皺と、赤い鼻と、しみ。1669年の最後の一枚では、老人が、両手を組んで、静かにこちらを見ている。
1663年、ヘンドリッキェが死んだ(ペスト)。1668年、ティトゥスが結婚して、7か月後に死んだ(27歳)。孫娘は、彼の死後に生まれた。
1669年10月4日、死んだ。63歳。目録に記された全財産は、衣類と、絵の道具だけ。西教会の借りた墓に葬られ、20年後、慣例通り、骨は片づけられた。場所は分からない。