人物

レンブラント・ファン・レイン

Rembrandt van Rijn
AD1606年7月15日 – AD1669年10月4日(享年63)
ネーデルラント重要度 5

概要

ライデンの製粉業者の子。20代でアムステルダムへ出て、肖像画で成功し、大きな家を買った。妻サスキアと死別(1642年)、内縁の妻を教会に訴えられ、1656年に破産して家財を競売にかけられた。それでも描き続けた。自画像を生涯に80点以上(若い成功者から、老いて笑う男まで)。『テュルプ博士の解剖学講義』『夜警』『ユダヤの花嫁』『放蕩息子の帰還』。貧民の墓に葬られた。

関わったできごと(1)

レンブラント『夜警』AD1642年 · 描いた

本文

1606年7月15日、ライデン。父ハルメンは製粉業者(風車を持っていた)。母は パン屋の娘。9人の子の8番目。

レンブラントの34歳の自画像
レンブラントの34歳の自画像Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

ライデンのラテン語学校、そして14歳でライデン大学に登録(すぐ辞めた)。地元の画家に3年、そしてアムステルダムのピーテル・ラストマン(ローマでカラヴァッジョ派を見てきた歴史画家)に6か月。

1625年、ライデンに戻って工房を開いた。ヤン・リーフェンスと共同で。1628年、22歳で最初の弟子(ヘリット・ドウ)を取った。

『風車』、1645-1648年、ナショナル・ギャラリー。
『風車』、1645-1648年、ナショナル・ギャラリー。Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

1631年、アムステルダムへ。画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルフの家に住み、肖像画の注文を受けた。1632年、『テュルプ博士の解剖学講義』。外科医組合の集団肖像。医師たちが、死体の腕の筋肉を覗き込む。人物の視線と姿勢がばらばらで、それが一つの場面を作っている。26歳の彼の名が、市中に知られた。

1634年、サスキア・ファン・アイレンブルフ(画商の従妹。フリースラントの市長の娘)と結婚。持参金が多かった。1639年、ユダヤ人街の大きな家を買った(1万3000ギルダー。20年の分割払い。この契約が、後の破産の一因になった)。

処女作と言われる『聖ステファノの石打ち』、1625年、リヨン美術館。
処女作と言われる『聖ステファノの石打ち』、1625年、リヨン美術館。Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

彼は集めた。ローマの胸像、日本の甲冑、ヴェネツィアの絵、貝殻、剥製、武器、東洋の織物、そしてデューラーとマンテーニャの版画。競売で高値をつけた(「自分の職業の名誉のため」と説明した)。

1635〜41年、サスキアが4人の子を産み、3人が数か月で死んだ。1641年、ティトゥスだけが育った。1642年6月、サスキアが結核で死んだ。30歳。同じ年に『夜警』。

『アトリエの画家』、1628年、ボストン美術館。
『アトリエの画家』、1628年、ボストン美術館。Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

サスキアの遺言。財産は息子ティトゥスに、レンブラントは再婚しない限り、その用益権を持つ。だから、彼は再婚できなかった。

ヘールトヘ・ディルクス(ティトゥスの乳母)と関係を持ち、後に彼女が「婚約不履行」で訴え、レンブラントは彼女を「素行不良」として矯正院(ハウス・ファン・コレクティ)に12年の予定で入れさせた(5年で友人が救い出した。この一件は、彼の伝記の中で最も評判の悪い部分)。

妻サスキア・ファン・アイレンブルフの肖像、1635年、ナショナル・ギャラリー。
妻サスキア・ファン・アイレンブルフの肖像、1635年、ナショナル・ギャラリー。Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

ヘンドリッキェ・ストッフェルス(1649年から家政婦として来た、兵士の娘)と暮らした。1654年、教会が彼女を「画家レンブラントと姦淫の生活をしている」として、聖餐から排除した。同じ年、娘コルネリアが生まれた。

1656年、破産の申し立て(キセシー・ボノルム。負債者が財産を譲って支払い不能を宣言する手続き)。1657〜58年、家財と美術品が競売にかけられた。目録が残っていて、そこから彼の収集の中身が分かる。家も売られた。

『売春宿の放蕩息子』、油彩、1635年頃、アルテ・マイスター絵画館 (ドレスデン)。この絵を制作した当時、彼には妻の財産を浪費して邸宅や収集品を買い集めているという非難の声が上がっていた。そのような意見を無視することを決め込み、この絵で自分を放蕩息子に譬えて表した。
『売春宿の放蕩息子』、油彩、1635年頃、アルテ・マイスター絵画館 (ドレスデン)。この絵を制作した当時、彼には妻の財産を浪費して邸宅や収集品を買い集めているという非難の声が上がっていた。そのような意見を無視することを決め込み、この絵で自分を放蕩息子に譬えて表した。Wikimedia Commons Rembrandt · Public domain

1660年、ヘンドリッキェとティトゥスが会社を作り、レンブラントを「従業員」として雇う形にした(債権者から彼の収入を守るため)。彼は死ぬまで、その形で働いた。

晩年の絵。『織物商組合の見本監査官たち』(1662年)。『ユリウス・キウィリスの謀議』(1661〜62年。新市庁舎のために描いて、返却された。切り縮められた断片だけが残る)。『ユダヤの花嫁』(1665年頃。男の手が、女の胸の上に置かれている。ゴッホが「この絵の前に2週間、堅いパンだけで座っていられるなら、命が10年縮んでもいい」と手紙に書いた)。『放蕩息子の帰還』(1668年頃。父の二つの手——片方は男の手、片方は女の手のように描かれている)。

自画像。80点以上(油彩約40、エッチング約30、素描)。20代の、驚いた顔、笑う顔、口を開けた顔(表情の習作)。30代の、成功して、豪華な衣装と金の鎖をつけた顔。50代の、皺と、赤い鼻と、しみ。1669年の最後の一枚では、老人が、両手を組んで、静かにこちらを見ている。

1663年、ヘンドリッキェが死んだ(ペスト)。1668年、ティトゥスが結婚して、7か月後に死んだ(27歳)。孫娘は、彼の死後に生まれた。

1669年10月4日、死んだ。63歳。目録に記された全財産は、衣類と、絵の道具だけ。西教会の借りた墓に葬られ、20年後、慣例通り、骨は片づけられた。場所は分からない。

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