人物

クール・ハーク

DJ Kool Herc
AD1955年4月16日 – ?
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ジャマイカのキングストンに生まれ、1967年にブロンクスへ移った。故郷のサウンドシステムの流儀と、大音量の装置を持ち込んだ。1973年8月11日の妹の催しで、曲の打楽器だけの部分を二枚のレコードでつなぐ手法を見せた。そこで踊る者をブレイクボーイと呼んだ。1977年に刺されて以後は表に出ることが減り、後に医療費の工面が問題になった。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ヒップホップの誕生AD1973年8月11日 · 回した

本文

クール・ハークの本名はクライヴ・キャンベルという。1955年4月16日、ジャマイカの首都キングストンに生まれた。のちにレゲエの歌い手ボブ・マーリーが育ったことで知られるトレンチタウンにも近い界隈で、少年時代を過ごした(ボブ・マーリーの平和コンサート)。

クール・ハークの肖像
クール・ハークの肖像Wikimedia Commons Richard Alexander Caraballo · CC BY 3.0

ジャマイカの街で、少年は「サウンドシステム」を見て育った。トラックに巨大なスピーカーと増幅器を積み込んで街角や空き地に持ち出し、大音量でレコードをかけて人々を踊らせる移動式の音響装置である。装置の持ち主は地区の名士で、装置どうしが音の大きさと選曲を競い合う「サウンドクラッシュ」もあった。曲を選んでかける者と、その上にかぶせて掛け声や語りを乗せる者がいた。この形が、そのまま海を渡ることになる。

1967年、12歳の彼は、先に渡っていた母を追ってニューヨークのブロンクスへ移った。ジャマイカ訛りをからかわれたが、体が大きく、運動が得意だったので、仲間からギリシア神話の怪力の英雄にちなんで「ヘラクレス」と呼ばれた。彼はそれを縮めて「ハーク」と名乗り、壁に名前を描くグラフィティで使っていた名の「クール」と合わせて、クール・ハークと呼ばれるようになった。

クール・ハーク(2009年)
クール・ハーク(2009年)Wikimedia Commons Bigtimepeace · Public domain

父は地元の楽団のために音響の装置を買ったが、うまくつなげる者がいなかった。息子がそれをつないでみせ、装置を使う許しを得た。大出力の装置が鳴らす重い低音は、近所で評判になった。

1973年8月11日、妹のシンディが、新学期に備えて服を買うお金を集めようと、住んでいたアパートの地下の集会室で催しを開いた。入場料は数十セントで、音楽をかけたのが兄のクライヴだった。この日が、のちにヒップホップの誕生日とされることになる(ヒップホップの誕生)。この日に何かが突然発明されたというより、後から記念日として選ばれた日だという見方もあるが、その場にいた人々自身がこの日を出発点として語っている。

クール・ハークが最初のパーティーを開いたセジウィック・アベニュー1520番地
クール・ハークが最初のパーティーを開いたセジウィック・アベニュー1520番地Wikimedia Commons Bigtimepeace · Public domain

ハークが見ていたのは、踊る人々だった。ファンクやソウルのレコードには、歌が途切れて太鼓や打楽器だけが鳴る短い部分がある。踊り手たちが最も熱くなるのはそこだった。彼は同じレコードを2枚用意し、1枚でその打楽器の部分(ブレイク)が終わりかけると、もう1枚の同じ部分の頭からかけ直し、ブレイクを何分も引き延ばした。彼はこれを「メリーゴーラウンド」と呼んだ。つなぎ目はまだ粗く、拍がずれることもあったが、踊り手たちが待ち望んでいたものを途切れずに与えた。好んでかけたのは、ジェームズ・ブラウンの曲や、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「アパッチ」などである。人まねされないよう、レコードのラベルをはがして隠したという。

彼自身は長いあいだ韻を踏んで語ることはせず、短い掛け声を音楽にかぶせた。その相棒として、マイクを握って客をあおったのがコーク・ラ・ロックで、のちにエムシーと呼ばれる語り手の最初の形の一人とされる。ジャマイカのサウンドシステムで、レコードの上に語りを乗せていた者たちの、直接の子孫である。ブレイクの部分で床に飛び出して踊る若者たちを、彼は「ブレイクボーイ」「ブレイクガール」と呼んだ。ブレイクには、興奮して我を忘れる、という街の言い回しの意味も重ねられていたと本人は語っている。

1977年、彼は自分の催しの会場で、喧嘩を止めに入って刃物で何か所も刺された。命は取り留めたが、それから表舞台に立つことは少なくなった。そのあいだに、彼が始めた音楽は商売になっていった。1979年にはラップのレコードが全米で大ヒットし、1980年代にはレコード会社と契約と興行の世界ができあがった。彼はそのどこにもいなかった。録音もほとんど残さなかったため、最も輝いていたころの彼の音は記録されていない。

その後、一時は薬物に苦しんだ時期があったと本人は語っているが、立ち直り、やがてヒップホップの始まりを伝える語り部として迎えられるようになった。ヒップホップの歴史をまとめた本に寄せた序文では、ヒップホップは誰でも迎え入れるものであり、「わたし」ではなく「わたしたち」のものだ、という趣旨のことを書いている。

2011年、彼は腎臓の病気で手術を受けることになったが、医療保険に入っておらず、費用を払えなかった。支援が呼びかけられ、ヒップホップを生んだ人が治療費にも困るという話は、アメリカの医療保険の問題として報じられた。

ヒップホップの50周年にあたる2023年、彼はロックの殿堂に迎えられた。ジャマイカの街角の音響装置と、ブロンクスの地下室の催しから始まったものは、いまでは音楽だけでなく、踊り、絵、服装、言葉を含む世界的な文化になった。電子の楽器で音を作る人々(ロバート・モーグ)の流れとも合わさって、その音はいまも形を変え続けている。

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