女性の権利

概要
人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。
この物語について
この年表に並ぶ名前は、圧倒的に男が多い。それは何が起きたかではなく、誰が書き残したかの結果でもある。
古代の王や将軍、思想家の記録の多くは、男の書記や歴史家が、男の読者のために書いたものだった。女性が畑を耕し、布を織り、子を育て、市場で物を売っていたことは、わざわざ書く値打ちのある出来事とは見なされなかった。だから記録に名を残した女性の多くは、権力の頂点に、例外として立った人たちである。
紀元前15世紀のエジプトでは、ハトシェプストがファラオとして20年あまり国を治めた。彼女は公式の像では男の王と同じ付け髭を着けた姿で表され、死後、その名は記念碑から削られた。女性の王は、王の姿を借りなければ王として描かれなかったのである。エジプト最後の女王クレオパトラ7世は、ローマの権力者カエサルやアントニウスと結んで国を守ろうとしたが、ローマの側の書き手たちによって、男を惑わす女として描かれた。私たちが知る彼女の姿の多くは、敵が書いたものである。

東アジアでも、女性が国の頂点に立った例はある。3世紀の倭では、卑弥呼が「鬼道」によって人びとを従え、魏に使いを送ったと中国の史書は記す。6世紀の末には推古天皇が即位し、7世紀の唐では、則天武后が690年に自ら皇帝となった。中国の歴史でただ一人の女帝である。だが後の儒学者たちは、彼女を王朝を乗っ取った者として描き、女が政治に口を出すことは国を乱すもとだという教えを強めていった。
学問や文学の世界にも、名を残した女性がいた。5世紀のアレクサンドリアで数学と哲学を教えたヒュパティアは、415年、キリスト教徒の群衆に襲われて殺された。平安時代の日本では、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』が生まれた。男の貴族が公の文書を漢文で書いていた時代に、女房たちは仮名で、宮廷の暮らしと人の心を書き綴った。公の言葉から締め出されていたことが、かえって自分たちの言葉の文学を生んだともいえる。

中世ヨーロッパの終わりに、記録の中でもひときわ目を引く女性が現れる。百年戦争のさなかの1429年、神の声を聞いたという農家の娘ジャンヌ・ダルクが、フランス軍を率いてオルレアンの包囲を解いた。だが2年後、彼女はイングランド側に引き渡され、異端として火刑に処された。罪状の一つは、男の服を着続けたことだった。
16世紀のイングランドを45年にわたって治めたエリザベス1世は、生涯結婚せず、夫を通じて外国に国を委ねることを避けた。1588年、スペインの無敵艦隊を迎え撃つ兵たちの前で、自分の体はか弱い女のものだが、王の心を持っていると語ったと伝えられる。18世紀のオーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世、19世紀のイギリスのヴィクトリア女王も、それぞれの国に大きな足跡を残した。だが、女性の君主が現れても、ほかの女性の暮らしはほとんど変わらなかった。彼女たちは制度が変わった結果ではなく、跡継ぎの事情が生んだ例外だった。

ヨーロッパの外にも、同じような例外はあった。13世紀のインドでは、デリーのスルタンの娘ラズィーヤが父の指名で位を継ぎ、男の服を着て象に乗り、自ら軍を率いた。だが有力な武将たちの反発を受け、在位は4年ほどで終わった。17世紀のアフリカ南西部では、ンジンガがンドンゴとマタンバの女王として、ポルトガルの奴隷狩りと植民地化に数十年にわたって抵抗した。どちらも、女性であることを理由にした反発と戦いながら国を率いた。
転機は、すべての人間は生まれながらに平等だという思想から来た。1789年、フランス革命の議会は「人間と市民の権利の宣言」を出した。だがここでいう人間と市民は、事実上、男のことだった。1791年、劇作家オランプ・ド・グージュは、宣言の一条一条を女性に置き換えた「女性と女性市民の権利宣言」を書き、女性が断頭台に上る権利を持つなら、演壇に上る権利も持つべきだと訴えた。彼女は2年後、自らその断頭台で処刑された。翌1792年には、イギリスのメアリ・ウルストンクラフトが、女性が劣って見えるのは教育を与えられないからだと論じている。

19世紀、運動は各地で形になった。1848年、アメリカのニューヨーク州セネカ・フォールズに集まった女性たちは、独立宣言をなぞって「すべての男女は平等に造られている」と宣言した。工場で働く女性が増え、女子の学校が作られ、女性が自分の財産を持つ権利を求める声が上がった。参政権はその象徴になった。
運動を後押ししたのは、暮らしの変化でもあった。産業革命の後、紡績や製糸の工場では、若い女性が安い働き手として大量に雇われた。日本でも明治の富岡製糸場をはじめ、各地の工場で多くの工女が長い時間働き、生糸の輸出を支えた。外で働いて賃金を得ても、その金や財産を自分の名で持てず、政治にも口を出せない。その矛盾が、権利を求める声を広げていった。

最初に国の選挙で女性の投票を認めたのは、南太平洋のニュージーランドだった。1893年、ケイト・シェパードらが集めた3万人を超える署名が議会に届けられ、その年の9月、女性の参政権を定めた法律が成立した。ニュージーランドの女性参政権は、先住のマオリの女性にも投票を認めていた。ただ、女性が議員に立候補できるようになったのは1919年のことである。その後、オーストラリア、フィンランド、ノルウェーが続いた。
イギリスでは、穏やかな請願を重ねても何十年も実らないことに業を煮やした女性たちが、より激しい手段に訴えた。1903年にエメリン・パンクハーストらが作った団体は、街頭での抗議、窓ガラスの破壊、放火にまで及んだ。イギリスの女性参政権運動の女性たちは投獄されると絶食で抵抗し、看守は管を使って無理やり食べさせた。1913年には、エミリー・デイヴィソンが競馬場で国王の馬の前に飛び出し、死亡している。第一次世界大戦で女性が工場や病院で国を支えた後、1918年、イギリスはようやく30歳以上の女性に参政権を認めた。男女が同じ条件で投票できるようになったのは1928年である。アメリカは1920年、フランスは1944年だった。

日本では、1889年の大日本帝国憲法の発布に合わせて定められた選挙法が、女性に選挙権を与えなかった。それどころか1890年の法律は、女性が政治の集会に加わることさえ禁じた。1898年の明治民法は、妻の財産の管理を夫に委ね、家の長である戸主に強い権限を与えた。それでも、1900年には津田梅子が女子英学塾を開き、1911年には平塚らいてうらが文芸誌『青鞜』を創刊して、その創刊の辞に「元始、女性は実に太陽であった」と書いた。女性の参政権がようやく実現したのは、敗戦後の1945年12月で、翌年4月の総選挙では39人の女性議員が生まれた。スイスで国の選挙に女性が加われたのは、さらに後の1971年だった。
参政権は終わりではなく、始まりだった。マリー・キュリーは1903年と1911年にノーベル賞を受けたが、フランスの科学アカデミーは彼女を会員に選ばなかった。1955年、アメリカのアラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークスがバスの白人席を譲らずに逮捕された事件は、黒人の公民権運動の大きなきっかけになった。その運動を地域で支えた女性たちの働きは、長く男の指導者の陰に置かれてきた。ケニアのワンガリ・マータイは、農村の女性たちと木を植える運動を広げ、2004年、アフリカの女性として初めてノーベル平和賞を受けた。1979年には国連で女性差別撤廃条約が採択され、日本はこれに合わせて1985年に男女雇用機会均等法を作った。

人口の半分が、自分たちの代表を選ぶ権利を得るまでに、文明の歴史のほとんどの時間が費やされた。それは、権利を求める声が無かったからではなく、その声が記録されず、聞き入れられなかったからである。いまも議会や企業の役員の席に占める女性の割合は国によって大きく違い、日本はその低いほうに位置する。この年表に女性の名前が少ないこと自体が、その長い歴史の跡なのである。
この物語が起きた場所
筋(205)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ハトシェプストの治世できごとBC1479年死後、その名は記念物から削り取られた女性でファラオを名乗り、交易で栄えた20年。死後、その名は記念物から削り取られた。デイル・エル・バハリ
- ハトシェプスト人物? – BC1458年頃女性でファラオを名乗り、20年治めた。死後、その名は記念物から削り取られている。
- 婦好人物? – BC1200年頃1万3000を率いた妃武丁の60人以上の妃の一人。甲骨に「婦好が羌を伐つ」「婦好に1万3000を与える」「婦好が祭る」「婦好は子を産むか」。将軍で、祭司で、領地を持った。墓から鉞(斧)が二つ出た。軍の指揮の印。
- サッポー人物BC630年頃 – BC570年頃レスボス島の詩人。古代には九人の抒情詩人の筆頭に数えられたが、まとまった形で残っているのは一篇だけで、あとは断片しかない。
- クレオパトラ7世人物BC69年 – BC30年8月12日(10日説あり)プトレマイオス朝最後の女王。アクティウムの敗北の翌年に自死した。
- 班昭人物AD45年頃 – AD117年頃女誡班彪の娘、班固と班超の妹。14歳で結婚し、早く寡婦になった。兄の『漢書』を完成させ、宮中で皇后と女官に教え、「曹大家」と呼ばれた。『女誡』を書いて、女性の従順を説いた。中国で最初の女性史家であり、女性への教訓の元でもある。
- ブーディカの反乱できごとAD60年記録はすべてローマ側のものローマの入植地を三つ焼いた。記録はすべてローマ側のもので、彼女自身の言葉は残っていない。カムロドゥヌム
- ブーディカ人物? – AD61年頃ローマに反乱を起こしたブリテンの女王。ロンディニウムを焼いたが敗れ、自ら命を絶ったと伝わる。
- モンタノス派できごとAD170年頃二人の女預言者フリギアの男が「私は聖霊」と言い、二人の女預言者プリスキラとマクシミラが続いた。終末は近い、ペプザに新しいエルサレムが降る。断食、殉教、女の預言。テルトゥリアヌスが入った。教会は「預言は終わった」と決めた。それで教会は教会になった。ペプザ

- 卑弥呼の遣使できごとAD239年魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を得た。日本の側に同時代の記録が無く、国の位置も墓も決着していない。邪馬台国(位置は特定されていない)
- ゼノビア人物AD240年頃 – ?ローマの属領から自立し、エジプトまで支配した。敗れて連行され、その後の消息は伝わらない。
- 卑弥呼人物? – AD248年頃倭の女王。中国の史書にだけ記録が残り、その国がどこにあったのかは決着していない。
- ゼノビアのパルミラできごと267年三世紀の危機でローマが揺れた隙に自立し、エジプトまで押さえた。5年で鎮圧される。パルミラ
- ヒュパティア人物AD355年頃 – AD415年アレクサンドリアの数学者・天文学者。街の宗教対立のなかで群衆に殺された。
- ヒュパティアの死できごとAD415年数学者が街の宗教対立のなかで群衆に殺された。アレクサンドリアの学問の終わりの象徴として引かれる。アレクサンドリア
- テオドラ人物AD500年頃 – AD548年芸人の娘から皇后になった。ニカの乱で逃げようとした夫を思いとどまらせたと伝わる。
- 推古天皇人物AD554年 – AD628年記録に残る日本最初の女性の天皇。聖徳太子と蘇我馬子とともに、国の形を整えた時代の中心にいる。
- 推古天皇の即位できごとAD592年記録に残る日本最初の女性の天皇。以後、江戸時代までに8人10代の女性天皇が立つ。豊浦宮(位置は特定されていない)
- 則天武后人物AD624年 – AD705年12月16日中国史上ただ一人、自ら皇帝を名乗った女性。科挙で人を登用し、後世の史書からは苛烈な評ばかりを受ける。
- 善徳女王人物? – AD647年女主は国を治められないと言われた徳曼。唐から来た牡丹の絵に蝶がいないのを見て「香りがない」と言い、玉門池で蛙が鳴くのを聞いて百済の伏兵を知った。「三つのことを知っていた」。瞻星台。芬皇寺。反乱した毗曇が「女主は国を治められない」と言った。その最中に死んだ。
- 則天武后の即位できごとAD690年中国史上ただ一人中国史上ただ一人、女性が自ら皇帝を名乗った。国号を周と改め、15年治める。洛陽
- 藤原道綱母人物AD936年 – AD995年あるかなきかの蜻蛉藤原倫寧の娘。「本朝三美人」と『尊卑分脈』。954年、兼家の妻に。翌年、道綱。兼家の正妻は時姫で、道長の母。夫の足が遠のき、他の女に子が生まれ、鳴滝の寺に籠もり、連れ戻された。『蜻蛉日記』。「あるかなきかの蜻蛉」。歌人としても『拾遺集』に。
- 清少納言人物AD966年頃 – AD1025年頃『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
- 紫式部人物AD973年頃 – AD1014年頃『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
- 『蜻蛉日記』できごとAD974年(天延2年)頃女が自分の人生を自分で藤原兼家の妻の一人が、結婚から21年を書いた。夫が来ない夜、他の女の家に行く車を数え、息子道綱を育て、「はかなき身の上」。女が自分の人生を自分で書いた最古の日記。『源氏物語』の30年前。作者の名は分からず「道綱母」。京都

- 和泉式部人物AD976年頃 – ?二人の親王と大江雅致の娘。和泉守の妻。冷泉天皇の子為尊親王と恋をし、親王が死ぬと弟敦道親王と。『和泉式部日記』。親王も死に、道長の娘彰子に仕えた。紫式部が「けしからぬ方こそあれ」「歌はいとをかし」と書いた。「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」。娘小式部内侍も歌人。
- 『枕草子』できごとAD1002年頃好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。京都

- 『源氏物語』できごとAD1008年頃作者の本名は分かっていない長編の物語として世界で最も古い部類に入る。作者の本名は分かっていない。京都

- 菅原孝標女人物AD1008年 – ?物語に憧れた人生道真の5代の孫。母は道綱母の妹。上総で育った。「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」。物語。源氏。宮仕え。橘俊通と結婚。夫が死んだ。「夢」。『更級日記』。『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』の作者とも。
- 『更級日記』できごとAD1059年頃40年を書いた菅原孝標の娘。13歳で上総から京へ。「物語を読みたい」と薬師仏に祈った。『源氏物語』を全巻もらって、昼も夜も読んだ。宮仕え、結婚、夫の死。50歳を過ぎて、少女の頃からの40年を書いた。物語に憧れた人生の、静かな終わり。京都

- アンナ・コムネナ人物AD1083年12月1日 – AD1153年頃皇女にして歴史家。父の治世を書いた『アレクシアス』は、十字軍を東側から見た同時代の記録になる。
- ヒルデガルト・フォン・ビンゲン人物AD1098年 – AD1179年9月17日修道院長・作曲家・薬草学者。幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた稀な例。
- 纏足できごとAD1100年頃母が娘に施した南唐の宮廷の踊り子から始まった、と伝える。宋代に広まり、明清に、漢族の女の大半に及んだ。4〜6歳で、親指以外の指を足の裏へ折り曲げて布で縛り、骨を変形させる。歩けるが遠くへ行けない。「三寸金蓮」。母が娘に施した。良い縁組の条件で、階級の印で、恥じらいの象徴だった。満洲族とモンゴル族と客家はしなかった。1902年に清が禁令を出し、20世紀の前半に消えた。最後の世代が、いま100歳を超える。開封

- トルバドゥールの歌できごとAD1100年頃手の届かない貴婦人アキテーヌ公ギヨーム9世が、オック語で、恋の歌を作った最初の人。「フィン・アモール(雅な愛)」。手の届かない貴婦人に、騎士が仕える。ベルナール・ド・ヴァンタドゥール、ベルトラン・ド・ボルン、ジャウフレ・リュデル(「遠くの愛」)、女のトロバイリッツ(ディア伯爵夫人)。孫娘アリエノールが北へ、イギリスへ運んだ。トルヴェール、ミンネゼンガー、ダンテ、ペトラルカ。ヨーロッパの恋愛は、ここで作られた。ポワティエ
- エロイーズ人物AD1100年頃 – AD1164年5月16日手紙ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読む娘。叔父の家でアベラールに学び、愛した。息子アストロラーブ。結婚を拒んだ。「あなたの妻より娼婦と呼ばれたい」。アルジャントゥイユの修道女、パラクレの修道院長。手紙。「私は神のためでなく、あなたのために修道女になった」。
- アベラールとエロイーズできごとAD1117年頃三つの言語を読む娘パリで最も人気の哲学教師が、参事会員の姪の家庭教師になり、子を作り、秘密に結婚した。叔父が人を雇って教師を去勢させた。彼は修道士に、彼女は修道女に。20年後の手紙。「妻より愛人と呼ばれたい」。二人はペール・ラシェーズに一緒にいる。ノートルダム
- エレノア・オブ・アキテーヌ人物AD1122年頃 – AD1204年4月1日フランス王妃からイングランド王妃になり、十字軍にも同行した。自身の広大な所領を最後まで手放さなかった。
- ヒルデガルトの『スキヴィアス』できごと1141年女性が公に神学を語れた稀な例修道女が幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた、この時代では稀な例。ビンゲン
- 糸車できごとAD1200年頃繊維を引き出しながら撚りをかけ、巻き取る。手回しの錘だけでやると、極端に遅い。人類が費やしてきた労働時間のうち、糸を紡ぐことに使われた分は膨大で、そのほとんどを女性が担った。車輪で錘を回す装置が、中国とインドで先に現れ、13世紀にヨーロッパへ届く。生産量が数倍になった。同じ道具が、二十世紀にガンディーの手の中で、独立運動の象徴になる。インドの国旗の中央にある輪は、もとはこの車である。デリー
- ラズィーヤ人物AD1205年頃 – AD1240年10月15日デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺された。
- ラズィーヤの即位できごとAD1236年デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺される。デリー
- シャジャル・アッ=ドゥッルの即位できごとAD1250年奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。貨幣に名が刻まれ、カリフが認めなかった。カイロ
- シャジャル・アッ=ドゥッル人物? – AD1257年イスラム世界で数少ない女性の君主奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。イスラム世界で数少ない女性の君主。
- 百年戦争できごと1337年例外的に戦場に立った女性がいた116年に及ぶ英仏の争い。この過程で両国に「国民」という意識が育つ。アジャンクール
- ジャンヌ・ダルク人物AD1412年 – AD1431年5月30日制度ではなく例外として現れた19歳で火刑になった農民の娘。百年戦争の流れを変え、後にフランスの象徴になる。
- ハインリヒ・クラーマー人物AD1430年頃 – AD1505年インスブルックで追い出されたシュレットシュタット(アルザス)。ドミニコ会、異端審問官(1474年)。ラーヴェンスブルクで魔女を焼き、1485年、インスブルックで50人を訴えて、司教ゴルザーが「老いぼれて子供のようだ」と言って追い出した。1484年、教皇インノケンティウス8世の勅書「限りなき願いをもって」を得ていた(魔女の存在を認め、審問官に権限を)。1486〜87年、『鉄槌』。共著者とされたケルンのシュプレンガーは、たぶん関わっていない。ケルン大学の認可の書類も偽造の疑い。晩年、ボヘミアでフス派を追った。
- イサベル1世人物AD1451年4月22日 – AD1504年11月26日レコンキスタを完了させ、コロンブスの航海に出資した。同じ年にユダヤ人を追放している。
- 『魔女に与える鉄槌』できごとAD1487年ほとんどが女ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーが、インスブルックで魔女裁判に失敗して司教に追い出され、教皇の勅書を付けて、この本を書いた。魔女は実在する。悪魔と契約し、交わり、天候と作物と男の性器を害する。ほとんどが女である(「女は信仰が弱い(femina=fe minus)」)。訊問と拷問と処刑の手引き。印刷術で30版。魔女狩りは1560年から1630年が頂点で、4万〜6万人が処刑された。シュパイアー

- ミーラーバーイー人物AD1498年頃 – AD1547年頃王家に嫁ぎながらクリシュナへの信愛を歌い、宮廷を捨てて放浪した。その歌はいまも歌われている。
- グル・ナーナクとシク教の成立できごとAD1500年頃同じ床で同じものをパンジャーブのヒンドゥーの家に生まれ、川で沐浴して3日、姿を消した。戻って最初に言った。「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」。神は一つ(イク・オンカール)。形を持たず、像に宿らない。カーストを認めない。出家せず、家庭を持ち、働き、分かち合う。共同の食事(ランガル)では、誰もが同じ床に座って同じものを食べる。24年、東はアッサム、西はバグダードまで歩いた。10代のグルを経て、シク教になった。アムリトサル
- エリザベス1世人物AD1533年9月7日 – AD1603年無敵艦隊を退け、海洋国家への道を開いた。生涯独身を通し、王朝はここで絶える。
- アミナ女王人物AD1533年頃 – AD1610年頃ハウサの都市国家を率いて周辺を従えた。土塁で囲む築城の様式が「アミナの壁」として各地に残る。
- ヌール・ジャハーン人物AD1577年5月31日 – AD1645年12月17日皇妃でありながら自分の名で貨幣を発行し、勅令を出した。実質的にムガルを動かした時期がある。
- 春日局人物AD1579年 – AD1643年10月26日大奥を作った明智光秀の家老、斎藤利三の娘。父は山崎のあと斬首。稲葉正成と結婚し、離縁して家光の乳母に。家光が跡継ぎになるように駿府へ行って家康に会った、と伝える。大奥の制度を作った。伊勢参りの名目で上洛して天皇に拝謁し、春日局の名を賜った。家光が病むと自分は薬を断つと誓って、薬を飲まずに死んだ。
- ンジンガ女王人物AD1583年 – AD1663年12月17日40年にわたってポルトガルの奴隷貿易に抵抗した。外交と軍事を使い分け、オランダとも同盟を結んだ。
- 賤ヶ岳の戦いできごとAD1583年6月11日(天正11年4月21日)市と3人の娘清洲会議で秀吉は信長の孫三法師を立て、柴田勝家は信長の三男信孝を立てた。琵琶湖の北で対陣。勝家の甥佐久間盛政が抜け駆けし、秀吉は大垣から52キロを5時間で戻って攻めた。「賤ヶ岳の七本槍」。勝家は北ノ庄で市(信長の妹)と共に自害した。市の3人の娘(茶々、初、江)は秀吉が引き取った。賤ヶ岳

- アルマダの海戦できごとAD1588年スペインの無敵艦隊が敗れた。イングランドが海洋国家へ向かう転機になる。ティルベリー

- 産科鉗子と、出産の職の交代できごとAD1600年頃産婆の仕事を奪った器具出産は、長く女性の領分だった。産婆が取り上げ、男は部屋に入らない。ユグノーの亡命者チェンバレン家が、難産で赤子を引き出す鉗子を考案した。彼らは、それを100年以上、家族の秘密にした。金箔を貼った大きな箱で運び込み、産婦の目を布で覆い、他の者を部屋から出して使った。器具を持つ男性の外科医が、次第に産婆の仕事を奪った。器具は命を救ったが、その独占が、どれだけの死を放置したかは分からない。1813年、家の床下から、古い鉗子が見つかった。ロンドン
- 出雲阿国のかぶき踊りできごとAD1603年(慶長8年)1629年に禁じられた出雲大社の巫女と称する女が、京の北野で、男装して刀を差し、傾いた(かぶいた)派手な格好で踊った。茶屋の女と戯れる寸劇。「ややこ踊り」から「かぶき踊り」。関ヶ原の3年後。江戸に呼ばれ、女歌舞伎が流行り、1629年に幕府が風紀で禁じ、若衆歌舞伎も禁じ、野郎歌舞伎に。歌舞伎は女が始めて、男のものになった。京都
- ンジンガのポルトガル抵抗できごと1624年40年にわたって奴隷貿易に抗った。外交と軍事を使い分け、オランダとも組んでポルトガルを牽制する。ンドンゴ(位置は特定されていない)
- ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス人物AD1648年11月12日 – AD1695年4月17日女性が学ぶことを禁じる根拠は無いと書いた学問を続けるために修道院に入った女性。教会に筆を折らされ、蔵書を手放した2年後に死ぬ。
- メアリー・ウォートリー・モンタギュー人物AD1689年5月15日 – AD1762年8月21日公爵の娘。父の書斎で独学しラテン語を身につけた。決められた縁談を拒んで駆け落ちした。1715年に天然痘にかかり、顔に痕が残り、まつ毛を失った。弟は同じ病で死んでいる。夫の大使赴任でイスタンブールに住み、現地の女性が行う接種を見て、五歳の息子に施した。帰国後、娘にも施し、宮廷を説得して普及させた。書簡集は当時の紀行文学として高く評価され、東方の女性を憐れむ視線への反論にもなっている。
- ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」できごとAD1691年禁じる根拠は聖書に無い、と反論した女性が世俗の学問に耽るのは本分から外れる、という司教の書簡に反論した。禁じる根拠は聖書に無い、台所でも哲学はできる、と。その後、筆を折る。テノチティトラン
- セイラムの魔女裁判できごとAD1692年告発が連鎖した牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。セイラム

- マリア・テレジア人物AD1717年5月13日 – AD1780年11月29日相続を認めないと戦争を仕掛けられ、それを凌いで40年治めた。義務教育の導入など制度を作り替える。
- エカチェリーナ2世人物AD1729年5月2日 – AD1796年11月17日クーデタで夫を退け、34年統治した。啓蒙思想と文通しながら、農奴制はむしろ強めている。
- ダホメの女性部隊できごと1729年数千人の女性が正規の兵だった王の親衛隊として、数千人の女性が正規の兵として訓練された。ヨーロッパの観察者が驚いて記録を残している。フランスとの戦争で、その大半が戦死した。アボメイ

- マリア・テレジアの統治できごと1740年女性の相続を認めないと戦争を仕掛けられ、それを凌いだ。義務教育を導入し、帝国の仕組みを作り替える。ウィーン
- マリー・アントワネット人物AD1755年11月2日 – AD1793年10月16日浪費と外国人への憎しみを一身に受けたマリア・テレジアの娘として14歳でフランスへ嫁いだ。浪費と外国人への憎しみを一身に受け、「パンがなければ」の言葉を言った証拠は無い。夫の9か月後に処刑された。
- メアリ・ウルストンクラフト人物AD1759年4月27日 – AD1797年9月10日『女性の権利の擁護』人権宣言が男性のものだった時代に、『女性の権利の擁護』を書いた。女性が劣って見えるのは教育を与えられていないからだ、と。娘が『フランケンシュタイン』を書く。
- ろう学校と手話できごとAD1760年頃口話法が手話を締め出したパリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
- 乳母と捨て子できごとAD1780年頃名も記録も残っていない労働18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。パリ
- フランス革命できごと1789年掲げた人権は当初は女性を含んでいなかった身分制を壊し、国民が主権を持つという考えを現実にした。恐怖政治も同じ革命が生んだ。パリ

- 人権宣言できごとAD1789年8月26日2年後にグージュが女性の側から書き直した人は生まれながらに自由で権利において平等である。国民議会が17条で書いた。女性は含まれておらず、2年後にグージュが「女性の権利宣言」で問い直す。パリ

- 『女性の権利の擁護』できごとAD1792年人権宣言が男性のものだった3年後に書かれた。女性が劣って見えるのは、劣った教育しか与えられていないからだ、と論じた。ロンドン

- ルクレシア・モット人物AD1793年1月3日 – AD1880年11月11日半分の給料ナンタケットのクエーカー。女性の説教者。同じ仕事で男の教師の半分の給料しかもらえなかったことが、出発点だった。奴隷の労働で作られた綿と砂糖を買わない運動。自宅を「地下鉄道」の駅にした。セネカ・フォールズの会議を開き、女性が公衆の前で話すこと自体が非難された時代に、話し続けた。
- ナポレオン法典できごとAD1804年3月21日妻は夫の許可なしには革命前のフランスには、北の慣習法と南のローマ法、そして地方ごとに数百の法体系があった。ナポレオンは4人の法律家に起草させ、自ら102回の審議のうち57回に出席した。全2281条。法の前の平等、所有権の絶対、契約の自由、宗教から切り離された婚姻。同時に、妻を夫の許可なしには何もできない立場に置いた。征服地とその模倣を通じて、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東、そして日本の民法へ広がった。彼は言った。「私の真の栄光は、40の戦勝ではない。永遠に生きるのは、私の民法典である」。パリ
- オースティン『高慢と偏見』できごとAD1813年1月28日客間の会話で、財産と女性の立場を描いた1813年1月、作者の名を伏せた小説が出版された。田舎の地主の家の五人姉妹は、父が死ねば家も土地も遠い親戚の男に渡る決まりの中で暮らしている。結婚は、女性が生きていくほとんど唯一の手段だった。聡明な次女エリザベスと、高慢に見える資産家ダーシーが、互いの思い込みを乗り越えていく。ジェイン・オースティンは、客間の会話だけで、財産と身分と女性の置かれた立場を描き出した。二百年後も、映画とドラマで繰り返し作り直されている。ロンドン
- エイダ・ラブレス人物AD1815年12月10日 – AD1852年11月27日父と同じ年齢で死んだバベッジの解析機関の解説に、機械に計算させる手順を書き加えた。数を扱う機械が数以外のものも扱えると、100年早く書いている。
- エリザベス・キャディ・スタントン人物AD1815年11月12日 – AD1902年10月26日女の聖書判事の娘。法律を学びたかったが、女は法学校に入れなかった。1840年、ロンドンの世界奴隷制反対大会で、女性代表がカーテンの後ろに座らされたことに憤って、ルクレシア・モットと会議を約束した。「所感の宣言」。7人の子を育てながら、スーザン・B・アンソニーと50年組んだ(スタントンが書き、アンソニーが歩いた)。晩年、『女の聖書』で教会を批判して、運動の中で孤立した。
- ヴィクトリア女王人物AD1819年5月24日 – AD1901年1月22日63年在位し、その名が時代の呼び名になった。この間に英国は世界の4分の1を版図に収める。
- フローレンス・ナイチンゲール人物AD1820年5月12日 – AD1910年8月13日ランプフィレンツェ生まれの富裕な家の娘。「神の声を聞いた」。看護は下女の仕事で、家族が反対した。クリミア、スクタリの病院に38人の看護婦と。ランプ。死亡率を42%から2%に。汚水と換気を直した。戦争のあと、統計で議会を動かした。鶏頭図(円グラフの一種)。『看護覚え書』。ナイチンゲール看護学校。90歳。人生の後半はベッドの上で、手紙で世界の病院を変えた。
- デカブリストの乱できごとAD1825年12月26日妻11人がシベリアへナポレオン戦争でパリを見た青年将校たちが、憲法と農奴解放を求めて、皇帝の空位に乗じて立った。ペテルブルクの元老院広場に3000の兵を並べて「コンスタンチンと憲法」を叫んだ(兵の多くは「憲法(コンスチトゥーツィヤ)」をコンスタンチンの妻の名だと思った、と伝える)。ニコライ1世は葡萄弾で潰した。5人が絞首刑(縄が3本切れて、二度吊るされた)、121人がシベリアへ。妻11人が地位を捨てて従った。元老院広場(ペテルブルク)

- サティーの禁止できごとAD1829年寡婦を夫の火葬の火に投じる慣習が法で禁じられた。外から野蛮だと言うのではなく、ヒンドゥーの経典がそれを求めていないと内側から論証する運動が先にあった。コルカタ
- 西太后人物AD1835年11月29日 – AD1908年11月15日幼帝の後見として47年間、清の実権を握った。改革を潰した側とも、遅れて進めた側とも評される。
- リリウオカラニ人物AD1838年9月2日 – AD1917年11月11日ハワイ最後の君主。米国系の勢力に退位させられ、流血を避けるために抵抗しなかった。『アロハ・オエ』の作者。
- フレーベルと幼稚園できごとAD1840年託児所ではなく教育の場にそれまで、就学前の子どもを預かる施設は、母親が働く間の託児所だった。フリードリヒ・フレーベルは、幼児期そのものに固有の意味があると考えた。子どもは遊びを通して世界を理解する。彼は球、立方体、円柱から始まる一連の教具(恩物)を作り、庭仕事と歌と手仕事を組み合わせた。施設を「子どもの庭(キンダーガルテン)」と名づけた。1851年、プロイセンが革命思想の温床として禁止した。彼の死後、弟子たちが世界へ広めた。バート・ブランケンブルク
- ヤア・アサンテワー人物AD1840年頃 – AD1921年10月17日男たちが黄金の椅子を守らないなら女が戦うと言い、軍を率いた。60代になる。敗れて流刑地で死んだ。
- エイダ・ラヴレスの覚え書きできごとAD1843年伯爵夫人にして分析家イタリアの数学者メナブレアが書いた解析機関の解説を、エイダが英訳し、原文の2倍以上の長さの注釈を付けた。注記Gに、ベルヌーイ数を求める手続きが表の形で書かれている。最初のプログラムと呼ばれる。それ以上に重要なのは、彼女が「この機械は数を計算するだけのものではない」と書いたことである。記号の関係を扱えるなら、和声の規則を与えれば作曲もできる。同時に、機械は人が命じたことしかできない、とも書いた。ロンドン
- ケイト・シェパード人物AD1847年3月10日 – AD1934年7月13日署名を集めて制度そのものを変えた署名を集めて世界で最初の女性参政権を実現させた。紙幣にその肖像が載っている。
- セネカ・フォールズ会議できごとAD1848年7月19日全ての男女は平等にニューヨーク州の小さな町の教会に、300人。奴隷制廃止運動の中で、女性が発言を許されなかったことから生まれた。「所感の宣言」。独立宣言を書き換えて、「全ての男女は平等に造られている」。11の決議。財産、教育、職業、離婚、そして選挙権(これだけは票が割れ、フレデリック・ダグラスの支持で通った)。100人が署名した。72年後、憲法修正第19条。セネカフォールズ
- 女性が初めて医学の学位を得るできごとAD1849年1月23日冗談の全員一致を、本気で受け取った29の医学校に断られ、30校目で教授会が判断を学生に投げた。学生は冗談で全員一致の入学を認め、本人は本気で受け取って首席で卒業した。ジェニーヴァ(ニューヨーク州)
- ミシンと分割払いできごとAD1851年既製服と縫製工場手縫いでシャツ1枚に14時間かかった。ミシンなら1時間である。1846年にハウが本縫いの機構を特許にし、1851年にシンガーが実用的な足踏み式を作った。特許の争いが泥沼化し、1856年、各社が特許を持ち寄る共同管理(世界最初のパテント・プール)で決着した。シンガーの発明はむしろ売り方にある。高価な機械を、月賦で家庭に売った。分割払いという仕組みが、ここから消費財に広がる。同時に、縫製工場と既製服の産業が生まれた。ボストン
- タイトゥ・ベトゥル人物AD1851年頃 – AD1918年2月11日自分の兵を率いたメネリク2世の皇后。アドワでは自分の兵5000を率い、イタリア軍の水源を断つ作戦を進言した。ウッチャリ条約のイタリア語版の詐術に最も強く反対した。アディスアベバ(「新しい花」)の名をつけ、都の場所を選んだ。1907年、メネリクが病に倒れると事実上の支配者になり、1910年に貴族に追われて修道院に退いた。
- ブルーマーできごとAD1851年ズボンをはく女性への嘲笑19世紀の半ば、上流と中流の女性の服は、何枚も重ねたペチコートで膨らませた床までのスカートと、体を締めつけるコルセットだった。1851年、ニューヨーク州セネカ・フォールズで女性の権利の新聞を出していたアメリア・ブルーマーは、膝下までのスカートの下にゆったりしたズボンをはく服を紙面で勧め、自らも着た。人々はこの服を「ブルーマー」と呼んだ。女性の権利の運動家たちが着たが、男の服を着たがる女と嘲笑され、数年で多くが手放した。この服が広まるのは、40年後の自転車の流行のときだった。セネカフォールズ
- 女王の無痛分娩できごとAD1853年4月7日誰が痛みを引き受けるべきかは、医学ではなく地位が決めたヴィクトリア女王が八人目の子を産むとき、ジョン・スノウがクロロホルムを与えた。布に垂らし、陣痛のたびに嗅がせる。女王は「あの祝福されたクロロホルム」と日記に書いた。出産の痛みを消すことには強い反対があった。産みの苦しみは創世記に定められたものであり、取り去るのは神への背きだという主張である。医学の側からも、痛みは分娩を進める力だと言われた。女王が使ったことで、その議論は事実上終わった。誰が痛みを引き受けるべきかは、医学ではなく地位が決めた。ロンドン
- スクタリの野戦病院できごとAD1854年38人を率いたクリミア戦争。イスタンブール対岸の兵舎病院に、38人の看護婦を連れて着いた。傷病兵は床に並び、下水が床下に溜まり、換気がなく、包帯も食事も足りない。死因の大半は戦傷ではなく、チフス、コレラ、赤痢だった。彼女は掃除と換気と洗濯と食事を整えさせ、そして数を数えた。死因別の死亡者を月ごとに示す「鶏頭図」を描き、政治家に見せた。統計を説得の道具にした最初期の例。スクタリ
- 『ボヴァリー夫人』裁判できごとAD1857年1月31日読みすぎた恋愛小説田舎医者の妻が、退屈と、読みすぎた恋愛小説の理想から、姦通と借金に落ち、砒素で死ぬ。連載後、公序良俗と宗教への冒涜で起訴された。検事は、姦通が罰せられていないこと、そして作者がどこにも道徳の判断を書いていないことを、罪だと論じた。無罪。作者は「私が有罪なら、文学全部が有罪になる」と書いた。作者の顔が見えない語り、正確な文体。近代小説の出発点とされる。パリ
- エメリン・パンクハースト人物AD1858年7月15日 – AD1928年6月14日3週間前に死んだマンチェスターの綿商の家。14歳で参政権の集会に連れて行かれた。弁護士の夫と死別して、貧民の出生と死亡の登録係として働き、救貧院の女たちを見た。1903年、女性社会政治同盟。「言葉でなく行動を」。窓ガラス、放火、投獄13回、ハンガー・ストライキ。1914年、戦争が始まると運動を止めて、政府に協力した。1928年6月、21歳以上の女性の選挙権が成立する3週間前に死んだ。
- 奴隷解放宣言できごとAD1863年1月1日含まれなかった州反乱している州の奴隷は「永遠に自由である」。合衆国に留まった奴隷州(ケンタッキー、メリーランド等)の奴隷は含まれなかった。戦争の手段として、大統領の軍の権限で。350万人。黒人が北軍に入った。18万人。戦争は「連邦を守る戦争」から「奴隷を終わらせる戦争」になった。奴隷制の廃止は1865年の憲法修正第13条。ワシントンD.C.

- 津田梅子人物AD1864年12月31日 – AD1929年8月16日6歳で岩倉使節団に同行して渡米した。帰国後、女性のための高等教育の学校を作る。
- マリ・キュリー人物AD1867年11月7日 – AD1934年7月4日放射能の研究でノーベル賞を二度受けた。扱った物質が原因とみられる病で死んでいる。
- マリア・モンテッソーリ人物AD1870年8月31日 – AD1952年5月6日医学より教育の問題だと考えたアンコーナ近郊。技術学校に進んで工学を志し、医学部へ転じた。イタリアで最初期の女性医師の一人。精神科の助手として施設の子どもを見て、これは医学より教育の問題だと考えた。1907年、ローマのスラムで子どもの家を開いた。生涯独身とされたが、同僚との間に生まれた息子マリオを里子に出し、後に自分の共同研究者として迎えた。ムッソリーニと当初は協力し、後に決裂してイタリアを去った。インドで戦時中を過ごし、オランダで死んだ。
- パリ・コミューンできごとAD1871年3月18日女性の参加普仏戦争でパリは4か月囲まれて降伏し、国民議会はプロイセンに屈した。3月18日、モンマルトルの大砲を取りに来た政府軍に、パリの国民衛兵が立った。72日。選挙、政教分離、夜のパン職人の労働禁止、女性の参加。ヴェルサイユの政府軍が5月21日に入り、1週間。「血の週間」。2万人が殺され、4万人が裁かれ、ニューカレドニアへ。「労働者の政府の最初の形」とマルクスは書いた。パリ

- 角底の紙袋できごとAD1871年発明するより、発明者だと認めさせるほうが難しかった紙袋は封筒のような平たい形で、物を入れると倒れた。工場で働いていたマーガレット・ナイトは、底を角ばった形に折って糊づけする機械を考える。自立し、たくさん入る袋ができた。模型を作らせた鉄工所の男が、女に機械の発明はできないと言って先に特許を出願する。ナイトは自分の設計図と試作を証拠に提出し、裁判で勝った。1871年に特許を得て会社を作る。角底の袋は、いまも店で使われている形そのままである。発明したことよりも、発明者だと認めさせることのほうが難しかった。スプリングフィールド
- 樋口一葉人物AD1872年5月2日 – AD1896年11月23日17歳で戸主になった父が死んで17歳で戸主になり、母と妹を食べさせるために小説を書いた。吉原の裏で荒物屋を開いて失敗し、そこで見たものが『たけくらべ』になった。14か月で代表作を全部書いて、結核で24歳。五千円札。
- 富岡製糸場できごとAD1872年生糸は、開国した日本の最大の輸出品だった。だが手作業の糸は質がばらつき、外国の商人に買い叩かれる。政府は、フランスから技師と機械を招き、群馬の富岡に大きな製糸工場を建てた。1872年に動き出す。全国から士族の娘たちが工女として集められ、技術を覚えて故郷に戻り、各地の工場で教えた。赤い煉瓦の建物は、いまも残っている。のちの製糸業の繁栄は、長時間の労働に耐えた無数の女工たちによって支えられた。富岡
- タイプライターとQWERTYできごとAD1873年新聞編集者クリストファー・ショールズらが、実用になる印字機を作った。活字棒が扇形に並び、打つと上へ跳ね上がって紙を叩く。速く打つと隣り合う棒が絡む。そこで、よく続けて使われる文字を離す配置に変えていった。QWERTY である。1873年、銃器製造のレミントン社が製造を引き受けた。紙が見えない、大文字しか打てない、という欠点を抱えたまま普及した。事務の現場に女性が入る大きな入口になり、配列だけが、いまも指の下にある。ミルウォーキー
- お歯黒をやめるできごとAD1873年結婚した女性が歯を黒く染め、眉を剃る。江戸時代の日本では、それが既婚の印であり、美しさでもあった。明治の政府は、外国人の目に野蛮と映ることを気にかけた。1870年に華族にお歯黒と眉剃りをやめるよう求める布告を出し、1873年には皇后が自らやめてみせる。人びとはすぐには従わず、農村では明治の終わりまで残った。美しさの基準は、国の外の視線で書き換えられることがある。東京
- 満載喫水線できごとAD1876年乗船を拒めば投獄19世紀のイギリスで、老朽船に過積みして沈没させ、保険金を得る商法があった。「棺桶船」。船員は乗船を拒めば投獄された。議員サミュエル・プリムソルが、船主の議員たちを相手に10年戦い、議場で「人殺し」と叫んで退場処分になった。1876年の商船法で、船腹に丸に横線の印を義務づけた。この線より下に沈めてはならない。塩分と季節で必要な余裕が違うので、印は数本の線でできている。ロンドン
- 与謝野晶子人物AD1878年12月7日 – AD1942年5月29日女性の参政権を言った堺の菓子屋の娘。与謝野鉄幹と恋をして家を出て、『みだれ髪』。子を13人産み、『源氏物語』を現代語にし、女性の参政権を言い、「君死にたまふことなかれ」を書いた同じ人が、日中戦争を讃える詩も書いた。
- 電話交換手できごとAD1878年9月1日声と、忍耐と、低い賃金初期の電話は、交換台に繋ぎ替える人が要る。最初に雇われたのは電信の少年たちだった。乱暴な口をきき、客と喧嘩し、勝手に線を抜いた。ボストンの交換局が、エマ・ナットという女性を雇う。評判が良く、以後、交換手は女性の職業になった。声の質、忍耐、そして低い賃金が理由に挙げられている。数十万人がこの職に就き、そして自動交換機が、それを消していった。応答の速さと丁寧さは、機械が引き継がなかったものである。ボストン
- ラデン・アジェン・カルティニ人物AD1879年4月21日 – AD1904年9月17日閉じ込められたまま手紙で議論しつづけた貴族の娘として12歳で家に閉じ込められ、手紙で外の世界と議論しつづけた。その書簡集がインドネシアの女子教育を動かす。
- フランシス・パーキンズ人物AD1880年4月10日 – AD1965年5月14日合衆国初の女性閣僚マサチューセッツの生まれ。1911年3月25日、友人宅でお茶を飲んでいて騒ぎを聞き、通りへ出て、トライアングル工場から人が落ちてくるのを見た。以後、労働の安全に生涯を費やした。ニューヨーク州の工場調査委員会で三十を超える法を作らせ、州の労働長官を経て、1933年、合衆国初の女性閣僚となる労働長官に就いた。十二年在任し、社会保障法、公正労働基準法、最低賃金、週四十時間、児童労働の禁止を実現した。
- 帝王切開で母が生きるできごとAD1882年帝王切開は古くから行われていたが、それは母が助からないと決まったあとに子を取り出す手術だった。切った子宮を縫わなかったため、出血と感染でほぼ確実に母は死ぬ。1882年、ライプツィヒのマックス・ゼンガーは、子宮の切り口を銀線で丁寧に縫い合わせる方法を示した。麻酔と消毒が揃いつつあった時期である。母の生存率は跳ね上がり、手術は最後の手段から、選べる手段に変わっていく。いま世界で生まれる子のおよそ五人に一人がこの方法で生まれる。多すぎるのではないかという議論も、同時に続いている。ライプツィヒ
- テ・プエア・ヘランギ人物AD1883年11月9日 – AD1952年10月12日第一次大戦の徴兵を拒み、若者を匿った。土地を奪われた者が、その国のために戦う理由は無いと主張する。
- 安全型自転車の登場できごとAD1885年自転車が女性を解放した1817年、ドイツのドライスが足で地面を蹴って進む二輪の乗り物を作り、のちに前輪にペダルがつき、速さを求めて前輪が巨大になった。だが高い座席の自転車は転ぶと危なかった。1885年、イギリスのコヴェントリーのジョン・ケンプ・スターレーは、前後同じ大きさの車輪をつけ、ペダルの力を鎖で後輪に伝える「ローヴァー」を売り出した。3年後には空気を入れたゴムのタイヤも現れた。誰でも安全に乗れる自転車は、1890年代に欧米で大流行し、とくに女性に、付き添いなしで自由に出歩く手段を与えた。コヴェントリー
- 平塚らいてう人物AD1886年2月10日 – AD1971年5月24日「元始、女性は実に太陽であった」。『青鞜』を創刊し、女性が自分の言葉で書く場を作った。
- ガソリンで走る車できごとAD1886年1月29日マンハイムの技術者カール・ベンツは、小さなガソリンエンジンを積んだ三輪の車を作り、1886年1月29日に特許を出した。だが売れない。1888年の夏、妻のベルタは、夫に告げずに十代の息子二人と車に乗り、百キロほど離れた実家まで走った。燃料は途中の薬局で買い、詰まった管は帽子のピンで直したと伝えられる。この遠出が評判になり、改良の手がかりにもなった。自動車は、動くことを証明してみせた者によって世に出た。マンハイム
- マッチ工場の少女たちできごとAD1888年7月5日替えのきく未熟練の少女たちが、それでも工場を止めた白リンの蒸気を吸い続けると顎の骨が腐る。「燐顎」と呼ばれ、患部は暗闇で青白く光り、外科医は骨を削り取るしかなかった。ロンドン東部のブライアント・アンド・メイ社では、十代の少女が長時間働き、遅刻や取り落としに罰金を科されていた。アニー・ベサントが労働の実態を記事にすると、会社は署名を強要しようとし、拒んだ女性が解雇された。千四百人が仕事を止めた。三週間で罰金制度が廃され、組合ができた。白リンの使用が英国で禁じられるのは、その二十年後である。ロンドン
- 大日本帝国憲法の発布できごと1889年2月11日(明治22年2月11日)ここでも参政権は男性のみだったアジアで最初の近代的な成文憲法。天皇が定めて国民に与える形をとり、議会には限られた権限が置かれた。江戸

- 第一回帝国議会できごと1890年11月29日(明治23年11月29日)有権者は納税額で絞られ、全人口の1%選挙で選ばれた議員が国政に加わった。有権者は納税額で絞られ、全人口の1%ほど。江戸
- ニュージーランドの女性参政権できごとAD1893年9月19日世界で最初の女性参政権世界で最初に女性の国政選挙権が認められた。署名運動が議会を動かす。ウェリントン
- ヴィクトリア女王即位60年できごとAD1897年帝国が世界の4分の1を占めた時期の頂点。その17年後に第一次大戦が始まる。ロンドン

- マルガレーテ・シュッテ=リホツキー人物AD1897年1月23日 – AD2000年1月18日死刑を求刑され102歳まで生きたウィーン。応用美術学校に入った最初の女性の一人。第一次大戦後の食糧難の中で、労働者の住宅と菜園の設計から出発した。1926年、フランクフルト市の建築家エルンスト・マイに招かれ、公営住宅の台所を設計した。1930年から5年間、ソ連で都市計画に従事。1940年、反ナチスの抵抗運動のためウィーンで逮捕され、死刑を求刑されて懲役15年、4年半を獄中で過ごした。戦後は東側で仕事をしたため、オーストリアで長く冷遇された。102歳まで生きた。
- ラジウムの発見できごとAD1898年数トンの鉱石から0.1グラムを取り出した。放射能という現象が物質の性質だと分かる。パリ
- 明治民法と家制度できごとAD1898年7月16日妻は夫の許しが要った明治の政府は、不平等条約を改めるため、西洋にならった法典を急いだ。フランスの法学者ボアソナードが起草した民法は1890年に公布されたが、「民法出でて忠孝亡ぶ」と、日本の家族の道徳を壊すとの反対が起き、施行は延ばされた。日本の学者が書き直した新しい民法は、1898年7月16日に全体が施行される。家族は「家」の単位でまとめられ、家の長である戸主が、家族の結婚や住む場所に同意する権限を持った。家の財産と地位は、原則として長男がひとりで継いだ。妻は、重い取引をするのに夫の許しが要った。家制度は、1947年に日本国憲法のもとで民法が改められるまで続いた。東京
- 女子英学塾の創設できごとAD1900年6歳で渡米した女性が、帰国後に女性のための高等教育の場を作った。東京
- サローテ・トゥポウ3世人物AD1900年3月13日 – AD1965年12月16日トンガを47年治めた女王。1953年のロンドンで、雨のなか幌を上げずに手を振りつづけて記憶された。
- 白粉の毒できごとAD20世紀初め害が分かってから、置き換わるまで数十年かかった肌を白く見せる化粧品には、長く鉛の化合物が使われた。伸びがよく、よく付き、艶が出る。ヨーロッパでも日本でも、上流の装いの定番だった。だが鉛は皮膚から入る。手足のしびれ、貧血、そして子への害。明治の日本では、舞台で濃く塗る役者やその子に中毒が出て問題になった。無鉛の白粉が売り出されても、付きが悪いと嫌われ、置き換えは進まない。国が鉛入りの製造を禁じたのは1934年である。危険が分かってから、習慣と商品が入れ替わるまでに、数十年かかった。東京
- ちゃぶ台できごとAD20世紀初め江戸時代の食事は、一人ずつの膳だった。身分と序列が、膳の高さと置く位置に表れる。明治の終わりから、家族が一つの低い台を囲む形が広まった。ちゃぶ台である。都市の狭い住宅で、折りたためて場所を取らないことが利点になった。同じ鍋から取り分け、顔を見て話す。家族という単位の見え方が変わり、それを明治政府の家族観の広まりと結びつけて論じる研究もある。戦後の台所の洋式化とともに、食卓は椅子式へ移っていく。半世紀ほどの、短い主役だった。東京
- 産婆に免許をできごとAD1902年専門職にすることは、誰かを締め出すことでもあるイギリスの貧しい家では、出産の大半を近所の産婆が扱っていた。訓練を受けた者もいれば、経験だけの者もいる。死産と産褥熱による母の死は多かった。1902年の法は、産婆を登録制にし、中央の委員会が訓練と資格を管理することにした。無資格で介助すれば罰せられる。これで水準は上がったが、代償もあった。読み書きや受験の費用が壁になり、長年地域を支えてきた年配の産婆の多くが職を失う。専門職にすることは、線の外に人を置くことでもある。ロンドン
- イギリスの女性参政権運動できごと1903年方法をめぐって運動自体が割れた請願では動かないと見て実力行使に踏み切った。投獄と強制摂食が続き、方法をめぐって運動自体が割れる。ロンドン

- パーマネントできごとAD1906年髪型は、その時代に何が許されているかを映す髪を巻いても、湿気ですぐ戻る。ドイツ出身でロンドンに店を構えたカール・ネスラーは、アルカリの薬液を塗った髪を金属の棒に巻き、電気で熱して形を固定する方法を公開した。最初の施術には数時間かかり、頭皮を焼く事故もあった。それでも「持つ」ことの価値は大きく、機械は各国の美容室に入っていく。日本では大正末から広まり、戦時中は敵性の風俗として自粛が求められ、戦後にまた一気に戻った。髪型は、その時代に何が許されているかを、いちばん早く映す。ロンドン
- マダム・C・J・ウォーカーできごとAD1906年洗濯女として働いていたサラ・ブリードラヴは、自分の脱毛に悩んで頭皮の薬を作り、行商を始めた。1906年から売り出した一連の商品は、黒人女性の髪を手入れするための道具と手順の組み合わせである。訪問販売の女性を数千人育て、成績を競わせ、集会を開いた。アメリカで最も早く自力で富を築いた黒人女性の一人になる。その髪型を白人に近づける手助けだという批判は当時からあった。抑圧された側が売り手になるとき、何を売るのかという問いが残る。インディアナポリス
- モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日イタリア最初期の女性医師ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
- フリーダ・カーロ人物AD1907年7月6日 – AD1954年7月13日事故の後遺症と向き合いながら、自画像ばかりを描いた。「私は自分をいちばんよく知っている」と言っている。
- 電気洗濯機できごとAD1908年家電で家事時間は減らなかった洗濯は、家事の中で最も重い労働だった。水を汲み、湯を沸かし、灰汁で煮て、板でこすり、絞り、干す。一家族の一週間分に丸一日かかった。1908年、シカゴのアルヴァ・フィッシャーが、電動機で回す洗濯桶「トール」を売り出した。1920年代にアメリカの家庭に普及し、1950年代に日本へ。歴史家ルース・シュウォーツ・コーワンは、家電が普及しても主婦の家事時間はほとんど減らなかったと指摘した。基準が上がり、外注していた仕事が家に戻ったからである。シカゴ
- 母の日の始まりできごとAD1908年5月10日アメリカのアンナ・ジャーヴィスは、南北戦争のころから、病気の予防や敵味方を超えた和解のために母親たちの集まりを率いた母を、1905年に亡くした。彼女は、母を偲び、すべての母親をたたえる日を作ろうと呼びかけ、1908年5月10日、ウェストヴァージニア州の教会で最初の催しが開かれ、フィラデルフィアのデパートでも大きな式典が開かれた。母が好きだった白いカーネーションが配られた。1914年、議会は5月の第2日曜日を母の日と定めた。だがアンナは、花屋やカード会社が母の日を商売にしていくことに怒り、晩年は母の日の廃止を訴えた。フィラデルフィア
- 『青鞜』の創刊できごとAD1911年9月1日「元始、女性は実に太陽であった」。女性が自分の言葉で書く場が日本にできた。東京
- カルティニの書簡できごとAD1911年(書簡集の出版)貴族の娘として12歳で家に閉じ込められ、手紙で外の世界と議論しつづけた。死後に出た書簡集が、インドネシアの女子教育を動かす。ジャカルタ
- トライアングル・シャツウエスト工場の火災できごとAD1911年3月25日九階の扉は施錠されていたビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。ニューヨーク
- 参政権の口紅できごとAD1912年見られる飾りから、自分で決める印へ十九世紀の欧米では、濃い口紅は舞台の女優か娼婦のものとされ、身持ちの良い女性はつけないものだった。1912年、ニューヨークの女性参政権の行進で、参加者が赤い口紅をつけたと伝わる。化粧品の店を開いていたエリザベス・アーデンが配ったとも言われる。口紅は、見られるための飾りから、自分で決める印に意味を変えた。金属の筒に入れて繰り出す口紅が出回ると、外で塗り直せるようになり、一気に広まった。ニューヨーク
- ローザ・パークス人物AD1913年2月4日 – AD2005年10月24日バスで席を譲らなかった。偶然の一件のように語られるが、本人は以前から運動に関わっていた。
- 二枚のハンカチできごとAD1914年締める下着から、支える下着へ十九世紀の女性は、鯨のひげや鋼の骨を入れたコルセットで胴を締め上げた。息が浅くなり、内臓が押されると医師も警告していた。ニューヨークの社交界にいたメアリー・フェルプス・ジェイコブは、薄いドレスからコルセットの骨が透けるのを嫌い、二枚のハンカチとリボンで胸を覆う下着を作った。1914年に特許を取る。第一次世界大戦では、アメリカ政府が鋼の節約のためコルセットを控えるよう呼びかけたと言われる。締める下着から、支える下着へ変わった。ニューヨーク
- ワイカトの徴兵拒否できごとAD1917年第一次大戦の徴兵に、マオリの王家の血を引く女性が拒否を呼びかけた。19世紀に土地を没収されたままの国のために、なぜ死ぬのか、と。アオテアロア(位置は特定されていない)
- インディラ・ガンディー人物AD1917年11月19日 – AD1984年10月31日インド初の女性首相。バングラデシュ独立を支援し、緑の革命を進め、そして非常事態宣言で民主政を止めた。
- 米騒動できごとAD1918年第一次世界大戦の好景気で物価が上がり、シベリアへの出兵を見越した米の買い占めで、米の値段が一年で倍になった。1918年7月、富山の漁村の女性たちが、米を県外へ積み出すのをやめよと浜に集まった。新聞が「越中の女一揆」と報じると、八月には全国の都市と炭鉱に騒ぎが広がり、米屋や商社が襲われる。政府は軍隊を出して鎮めたが、内閣は倒れた。代わって、初めての本格的な政党内閣が生まれた。台所の怒りが、政治の形を変えた。富山
- 禁酒法できごとAD1920年1月17日運動を担った女性たち合衆国憲法修正第18条により、酒の製造・販売・輸送が禁じられた。飲むこと自体は禁じられていない。運動を担ったのは、禁酒同盟と、女性キリスト教禁酒同盟である。背景に、酒場が政治と労働と移民の男性文化の中心にあったことと、それへの反発がある。結果は、需要が地下へ潜っただけだった。密造、密輸、そして組織犯罪。ニューヨークだけで数万の潜り酒場ができた。1933年、修正第21条で撤廃された。憲法の修正が撤廃された唯一の例である。ニューヨーク
- 貼る絆創膏できごとAD1920年医療品会社で綿の仕入れをしていたアール・ディクソンの妻は、台所でよく指を切った。ガーゼを当てて粘着テープで留めても、一人ではうまく巻けない。ディクソンは、テープの上に小さなガーゼを並べて貼り、上から布をかぶせておけば、切って一枚ずつ使えると考えた。1920年のことである。会社が製品にしたが、はじめは手作りで売れ行きも鈍かった。機械で作り、無菌にし、兵士に配られて広まる。小さな傷を自分で手当てするのが、当たり前になった。ニューブランズウィック
- 女性の参政権(アメリカ)できごとAD1920年8月18日母の手紙と、一票差性別を理由に投票権を奪ってはならない、という憲法の修正は、四分の三の州が認めれば成立する。1920年8月18日、最後の一州としてテネシーの議会が採決した。賛否は拮抗し、反対に回るとみられていた二十四歳の議員ハリー・バーンが、母親からの、よい子でいて賛成しなさいという手紙を胸に賛成票を投じ、一票差で可決される。セネカ・フォールズの会議から七十二年だった。だが南部の黒人の女性は、その後も様々な手口で投票から締め出され続けた。ナッシュヴィル
- セーラー服できごとAD1920年代初め明治の女学生は袴で通った。大正の半ば、体を動かしやすく、洋服を着る練習にもなる服として、女学校が水兵の服を手本にした制服を取り入れ始める。1920年代のはじめ、京都や福岡の女学校のものが早い例とされる。安く、洗え、誰が着ても似た姿になる。昭和のうちに全国へ広がり、女子学生の姿そのものになった。やがて学校の個性を示すために、スカーフの色や襟の線で区別するようになる。軍の服が、少女の服の型になった。京都
- マーガレット・サッチャー人物AD1925年10月13日 – AD2013年4月8日イギリス初の女性首相。国営企業を売り、労組と対決した。評価は本人の死後もまっぷたつに割れている。
- 『女工哀史』できごとAD1925年紡績の工場で長く働いた細井和喜蔵は、そこで見た女性の労働者の暮らしを、細かな聞き取りと自分の経験で書き記し、1925年に出版した。農村から集められた少女たちが、寄宿舎に閉じ込められ、昼夜交代で十二時間以上働き、結核で倒れていく。細井は本が出た直後に、二十八歳で病死した。この本は、日本の近代の繁栄を底で支えた労働の実態を伝える記録として、いまも読まれている。東京
- フラッパーとモダンガールできごとAD1920年代断髪と洋装第一次世界大戦のあと、欧米の都市には、膝の見える短いスカートをはき、髪を短く切り、化粧をして、ジャズで踊り、たばこを吸う若い女性たちが現れた。アメリカでは「フラッパー」と呼ばれた。戦争で働きに出て、選挙権を得た女性たちの、新しい生き方の表れだった。日本でも、関東大震災のあとの東京で、断髪に洋装の若い女性が銀座を歩くようになり、「モダンガール」、略して「モガ」と呼ばれた。タイピストや百貨店の店員、電話の交換手として働く女性たちだった。世間はモガを軽薄だと冷やかしたが、女性の服と暮らしは確かに変わっていった。東京
- フランクフルト・キッチンできごとAD1926年歩数を数えて設計したウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。フランクフルト

- シャネルのリトル・ブラック・ドレスできごとAD1926年コルセットの要らない服ガブリエル・シャネルは、孤児院で育ち、帽子の店から身を起こした。第一次世界大戦のころから、彼女は、男の下着に使われていた柔らかいジャージーの布で、コルセットの要らない、体を締めつけない服を作った。女性が自分で着られ、動き、働ける服だった。1926年、アメリカの雑誌『ヴォーグ』は、シャネルの飾りの少ない黒い短いドレスの絵を載せ、誰もが着られるこの服を、大量生産の車になぞらえて「シャネルのフォード」と呼んだ。黒は喪服の色だったが、シャネルはそれを、日常にも夜会にも着られる上品な色に変えた。パリ
- 緒方貞子人物AD1927年9月16日 – AD2019年10月22日国連難民高等弁務官を10年務めた。国境の内側にいる避難民も助けるという判断で、支援の枠を広げる。
- 人見絹枝の銀メダルできごとAD1928年8月2日日本の女性の初めてのメダル1928年のアムステルダム・オリンピックは、陸上競技に初めて女子の種目が加えられた大会だった。日本からただ一人の女子選手として出場した人見絹枝は、得意の100メートルで敗れたのち、経験のほとんど無い800メートルに挑み、8月2日、ゴールで倒れ込みながら2位に入った。日本の女性として初めてのオリンピックのメダルだった。走り終えて倒れる選手が多かったことから、女子の800メートルは、その後1960年まで行われなくなった。人見は、女性がスポーツをすることに冷たい世間と戦いながら走り続け、ちょうど3年後の同じ日、24歳で病に倒れた。アムステルダム
- アンネ・フランク人物AD1929年6月12日 – AD1945年2月または3月隠れ家で2年日記を書き、15歳で収容所で死んだ。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。
- コラソン・アキノ人物AD1933年1月25日 – AD2009年8月1日夫を暗殺された主婦から大統領になった。市民が戦車の前に立つ形で独裁を終わらせた「ピープルパワー」の顔になる。
- 核分裂の発見できごとAD1938年1938年の暮れ、ベルリンの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、ウランに中性子を当てると、ずっと軽いバリウムができることに気づいた。意味が分からず、ユダヤ人として亡命していた元の共同研究者リーゼ・マイトナーに手紙で相談する。マイトナーと甥のフリッシュは、雪の中を歩きながら、原子核が二つに割れ、莫大なエネルギーを出したのだと解き明かした。数年後、それは原子爆弾になる。ノーベル賞はハーン一人に贈られた。ベルリン
- 体を数字にするできごとAD1939年数字が先にあり、体が合わせられていく男物は胸囲と身長で型が作れたが、女物は難しかった。通信販売が広がると、返品が経営を圧迫する。アメリカ農務省は1939年から、一万五千人の女性の体を計測する調査を行った。ただし、応じたのは謝礼の要る調査に来られる人が中心で、白人が大半だった。その数字から作られたサイズ表が、長く業界の基準になる。その後、体格は変わり、各社が同じ番号で違う寸法を出すようになった。番号は、体の大きさではなく、売り手の都合を表す記号に近い。数字が先にあり、体が合わせられていく。ワシントンD.C.
- ワンガリ・マータイ人物AD1940年4月1日 – AD2011年9月25日木を植える運動を女性たちと始め、環境と民主化を結びつけた。アフリカの女性で最初のノーベル平和賞。
- 産む場所が家から病院へできごとAD1940年代安全と引き換えに、決めるのは医師になった二十世紀の初めまで、子は家で生まれるものだった。アメリカでは1900年に病院で生まれる子は数パーセントだったが、1940年代に半分を超え、1950年代には大半になる。麻酔、輸血、抗生物質、そして帝王切開が使えるのは病院だけだった。母と子の死は大きく減る。同時に、産む人は横たわらされ、家族から離され、決めるのは医師になった。1960年代から、この形への異議が出る。付き添いを認めろ、姿勢を選ばせろ、という要求である。安全と、産む側が決められることをどう両立させるかは、いまも課題として残っている。ワシントンD.C.
- ENIACできごとAD1946年配線をしたのは6人の女性ペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。フィラデルフィア
- ペロンとエビータできごとAD1946年人気と権力が一つになる政治軍人フアン・ペロンは、労働を担当する役職で労働者の賃金と権利を引き上げ、熱烈な支持を集めた。1946年、大統領に選ばれる。妻のエバ、愛称エビータは、貧しい家の出の女優で、財団を作って貧しい人びとに施し、女性の参政権の実現にも力を尽くした。人びとは彼女を聖女のように慕った。1952年、三十三歳でエビータが癌で死ぬと、国じゅうが喪に服す。ペロンの政治は、労働者の味方と独裁の両方の顔を持ち、いまもアルゼンチンの政治を二分している。ブエノスアイレス
- 女性が初めて投票した日できごとAD1946年4月10日女性が初めて票を投じた日明治のはじめから、女性の参政権を求める声はあったが、戦前には実現しなかった。敗戦の年の暮れ、選挙の法律が改められ、二十歳以上の男女に選挙権が与えられる。1946年4月10日の総選挙で、女性たちは初めて票を投じた。投票率は男性より低かったが、三十九人の女性が衆議院議員に選ばれる。その数は、その後半世紀以上破られなかった。戦前から運動を続けてきた市川房枝は、追放されたのち、のちに参議院で長く活躍することになる。東京
- 電子レンジできごとAD1947年レーダーの部品を扱っていた技術者パーシー・スペンサーが、装置の前でポケットの菓子が溶けたことに気づいた。電波が水の分子を揺らし、熱を出す。1947年に売り出された最初の製品は、背丈ほどの大きさで、業務用である。家庭に入るのは1960年代以降になる。日本では、駅の売店や列車の食堂車が早くに採用した。この機械は、料理の順序を変えた。作り置いて冷やし、食べるときに温める。家族が同じ時刻に食卓に着かなくてもよくなり、食事の形そのものが変わっていく。ボストン
- 民法の改正と家制度の廃止できごとAD1947年12月22日家制度の廃止日本国憲法は24条で、結婚は両性の合意のみに基づいて成り立ち、夫婦は同じ権利を持つこと、家族に関する法は個人の尊厳と両性の本質的平等に立って作られなければならないと定めた。これに合わせて、1947年12月22日、民法の家族と相続の部分が全面的に改められ、翌年の元日から施行された。家の長である戸主の権限と、長男がひとりで家を継ぐ家督相続は廃止され、子どもたちは等しく相続することになった。妻が重い取引に夫の許しを要する決まりも消えた。戸籍は、家ではなく夫婦と子どもを単位に作られることになった。東京
- ボーヴォワール『第二の性』できごとAD1949年人は女に生まれるのではない、女になるのだ。1949年、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』でこう書いた。女らしさは生まれつきではなく、社会が女性を男性に対する他者として作り上げてきたものだと、生物学、歴史、神話、文学、日々の暮らしを通して論じる。出版されると、性や母性をあからさまに論じたとして激しい非難を浴び、ローマ教皇庁は禁書にした。二十年後、世界の女性解放の運動は、この本を土台の一つにした。パリ
- ヒーラ細胞できごとAD1951年家族が知ったのは20年後ジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。ボルティモア

- 写真51番できごとAD1952年5月6日断りなく見せられた写真キングス・カレッジで、ロザリンド・フランクリンと大学院生レイモンド・ゴスリングが、DNAの繊維にX線を当てて撮った。露光62時間。写真に、はっきりとしたX字の模様が出た。らせん構造の証拠である。フランクリンは、確証を積み上げてから発表する方針だった。1953年1月、同僚のモーリス・ウィルキンズが、彼女に断りなく、この写真をワトソンに見せた。ワトソンは後に「それを見た瞬間、私の口はぽかんと開き、脈が速くなった」と書いている。ロンドン
- モンゴメリー・バス・ボイコットできごと1955年一人が席を譲らなかったことから、黒人住民が381日間バスに乗らなかった。公民権運動の始まりとされる。モンゴメリー

- 三種の神器できごとAD1950年代後半白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。この三つが、戦後の日本で豊かさの目標として並べられた。神話の宝になぞらえた呼び方が広まり、月賦で買う家が増えていく。冷蔵庫が来ると、毎日の買い物が減り、作り置きができる。洗濯機が来ると、冬の水仕事から解放される。家事にかかる時間が減り、その時間の多くは女性のものだった。家電は、家の中の労働の形を変え、働きに出る前提を作った。同時に、電気の使用量が跳ね上がり、発電と送電の計画が引き直されることになる。東京
- 自動で炊ける電気釜できごとAD1955年朝の数時間が、女性の暮らしに戻ったかまどで飯を炊くには、夜明け前に起き、火加減を見張り続けなければならない。その仕事は主婦のものだった。1955年、東京の電機会社が、釜を二重にして間接的に熱し、炊き上がると自動で電気が切れる電気釜を売り出した。スイッチを入れて寝ていれば、朝には飯が炊けている。最初は高価だったが、数年で数百万台が売れた。朝の数時間が、女性の暮らしから戻ってきた。のちにタイマーと保温が加わり、電気釜はアジア中の台所に広がる。東京
- 修正液できごとAD1956年事務の不便を知っていたのは、事務をしている本人ダラスの銀行で秘書をしていたベティ・ネスミス・グレアムは、電動タイプライターの打ち間違いに困っていた。新しいリボンは、消しゴムで消すと汚れる。看板描きの内職で、失敗は上から塗って直すことを知っていた彼女は、白い絵の具を小瓶に入れて職場へ持っていく。1956年頃のことである。同僚に分けるうちに注文が増え、台所で作って売り始めた。会社は1979年に大企業へ売られる。事務の現場の小さな不便を知っていたのは、事務をしている本人だった。ダラス
- バービー人形できごとAD1959年3月9日赤ん坊を抱く練習から、職業を着替える遊びへルース・ハンドラーは、娘のバーバラが紙の人形で大人の役を演じて遊ぶのを見ていた。当時の人形は、ほとんどが赤ん坊の姿である。ドイツの大人の女性の人形を手本に、1959年3月9日、ニューヨークの玩具見本市で大人の体の人形を出した。最初の人形は日本で作られている。服を替え、職業を替え、宇宙飛行士にも大統領候補にもなった。一方で、ありえない体の比率が少女に与える影響も批判され続け、2016年に体型の違う人形が加わった。ニューヨーク
- 使い捨てのおむつできごとAD1961年洗濯の手間が消え、埋め立て地が残った布のおむつは、洗って干して繰り返し使う。その洗濯は、ほとんど母親の仕事だった。日用品会社の技術者ヴィクター・ミルズは、孫のおむつを替えながら、吸い取って捨てられるものを作ろうと考えた。1961年、パンパースの名で試験的に売り出す。はじめは高く、毎日使えるものではなかったが、作り方が改良されて値が下がると一気に広まった。洗濯の手間が消えた代わりに、埋め立て地に大量のおむつが残るようになる。シンシナティ
- 連続テレビ小説の始まりできごとAD1961年4月3日困難に負けずに生きる女性1961年4月3日、NHKは朝のテレビで、毎日15分ずつ続く連続ドラマ『娘と私』の放送を始めた。朝の忙しい時間でも、時計がわりに見られる長さである。1966年の『おはなはん』は、明治から昭和を生きた女性の一代記で、視聴率は50パーセントを超えた。これ以来、困難に負けずに生きる女性を主人公にするのが、この枠の決まりのようになる。「朝ドラ」と呼ばれ、半年ごとに主人公が替わりながら、半世紀を超えて続いている。東京
- 公民権法できごとAD1964年7月2日ケネディ大統領が提案し、暗殺のあとを継いだジョンソン大統領が議会を押し切った。南部の議員たちは長い演説で採決を引き延ばしたが、1964年7月2日、法は成立する。店や食堂やホテルで、人種や肌の色や宗教や出身国で客を分けることを禁じ、雇うときの差別も禁じた。性別による差別の禁止も加えられた。法案を潰すために反対派が入れたとも言われるが、そのまま残り、女性の職場での権利の土台になった。ワシントンD.C.
- ミニスカートできごとAD1965年ごろ1960年代のロンドンでは、戦後のベビーブームに生まれた若者たちが、親の世代とは違う音楽と服を求めていた。キングス・ロードに店を開いたデザイナーのマリー・クワントは、若い女性が走ったり踊ったりできる、膝上の短いスカートを売り出した。クワントの好きな小型車の名から「ミニ」と呼ばれたともいう。パリのクレージュも短いスカートを発表した。痩せたモデルのツイッギーが世界に広め、1967年に彼女が来日すると、日本でもミニスカートが大流行した。服の流行は、上流の大人から若者へと、作り手が移っていった。ロンドン
- 丙午の年に子が減るできごとAD1966年干支で六十年に一度めぐる丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の命を縮める。江戸時代に広まった迷信で、火付けをした八百屋お七が丙午の生まれだという話と結びついた。1966年、日本の出生数は前の年より四分の一ほど減った。結婚や出産を一年ずらした夫婦が多かったとみられる。前の丙午の1906年に生まれた女性が縁談で避けられたことも、まだ記憶にあった。高度成長のさなか、統計に表れるほど多くの人が暦を気にしていた。次の丙午は2026年である。東京
- 家事労働に賃金をできごとAD1972年愛の行為とされ報酬がない1972年、パドヴァで国際フェミニスト連合が結成され、この要求が掲げられた。マリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムズ。主張は素朴に見えて、鋭い。家事は愛の行為とされ、報酬がない。しかし、それがなければ労働者は明日、工場へ行けない。つまり、資本は、無償の労働の上に立っている。運動の内部でも論争になった。賃金を払えば、女性を家に固定するのではないか。運動は賃金そのものより、見えない労働を可視化する言葉として残った。パドヴァ
- タイトル・ナインできごとAD1972年6月23日三十数語の条文が、女子のスポーツを変えた1972年6月23日に成立したアメリカの法律の第九編は、国の資金を受ける教育の場で、性別による差別を禁じた。わずか三十数語の条文だった。スポーツのことはほとんど想定されていなかったが、学校や大学は、女子の運動部にも男子と同じように予算と機会を配るよう求められる。高校で運動部に入る女子は、数十年で十倍以上に増えた。のちにアメリカの女子サッカーが世界の頂点に立つ土台は、この短い条文にあると言われる。ワシントンD.C.
- ロー対ウェイド判決できごとAD1973年1月22日判決で得た権利は、判決で失われることがある多くの州が人工妊娠中絶を犯罪としていた。テキサスで中絶を望んだ女性が、ジェーン・ロウの仮名で州を訴える。1973年1月22日、連邦最高裁は、女性が妊娠を続けるかどうか決めることは私生活の権利として守られる、と判断し、各州の禁止を大きく制限した。以後、この判決はアメリカの政治を二分する争点であり続ける。2022年、最高裁はこの判断を覆し、中絶を認めるかどうかは再び州ごとに決められることになった。ワシントンD.C.
- 尊属殺重罰規定の違憲判決できごとAD1973年4月4日父の支配から逃れようとした娘刑法200条は、父母や祖父母など目上の親族を殺した者を、死刑か無期懲役に限って罰すると定めていた。1968年、栃木県で、14歳のころから実の父に性的な虐待を受け、子を産まされ続けた29歳の女性が、結婚を妨げて自分を閉じ込める父を殺した。この条文では、どれほど事情を酌んでも刑の執行を猶予できない。1973年4月4日、最高裁判所の大法廷は、この条文は罰が重すぎて法の下の平等に反するとして、戦後初めて法律の規定を憲法違反とした。女性は執行猶予つきの判決を受けた。条文はその後も削られずに残り、1995年の刑法の改正でようやく消えた。東京
- キング夫人と「男女の戦い」できごとAD1973年9月20日男女の戦い1970年代のはじめ、テニスの大会の女子の賞金は、男子の数分の一だった。ビリー・ジーン・キングらの女子の選手たちは、自分たちだけの大会を作り、1973年には女子テニス協会を結成した。その年、かつての男子の王者で55歳のボビー・リッグスは、女子は男子にかなわないと言いふらし、女子の選手に挑戦した。1973年9月20日、ヒューストンのアストロドームで、3万人の観客とテレビの前の数千万人が見守るなか、29歳のキングはリッグスをストレートで破った。同じ年、全米オープンは男女の賞金を同じにした。ヒューストン
- アイスランドの女性の休日できごとAD1975年10月24日女性が一日休んだ国国連が定めた国際婦人年の1975年10月24日、アイスランドの女性の九割が、勤めにも家事にも出なかった。賃金の差と、女性の働きが軽く見られていることへの抗議である。レイキャヴィークの広場には、人口22万の国で二万五千人が集まった。学校や工場や銀行が止まり、父親たちは子どもを連れて職場へ行き、その日は手早く作れるソーセージが店から消えたという。翌年、男女の平等を定める法律ができ、1980年には、ヴィグディス・フィンボガドゥティルが、国民の選挙で選ばれた世界で最初の女性の大統領になった。レイキャヴィーク
- グリーンベルト運動できごとAD1977年木を植える運動が、環境と女性の自立と民主化を同時に扱うものになった。ナイロビ
- 五月広場の母たちできごとAD1977年4月30日1976年、アルゼンチンで軍がクーデターを起こし、反対する者を次々に連れ去った。遺体は見つからず、行方不明者と呼ばれる。その数は数万人ともいわれる。1977年4月30日、子どもを奪われた母親たちが、大統領府の前の五月広場に集まり始めた。集会が禁じられていたので、二人ずつ腕を組んで広場を歩き続ける。頭には白い布を巻いた。毎週木曜日、その行進は独裁が倒れた後も続いた。祖母たちは、奪われた孫を遺伝子の鑑定で探し出している。ブエノスアイレス
- 連帯の結成できごとAD1980年8月31日柵を越えたグダンスクの造船所の電気工が柵を越えて、ストライキを率いた。政府が独立自主管理労組を認めた。「連帯」。1000万人。ソ連圏で初めての、党の外の組織。1981年12月、戒厳令。地下へ。1989年、円卓。選挙。ワレサは1990年に大統領になった。グダンスク
- 一人っ子政策できごとAD1980年9月25日人口が十億に迫り、経済の発展を食いつぶすと恐れた中国の指導部は、1980年9月25日、夫婦に子を一人にとどめるよう呼びかける公開の書簡を出した。都市では厳しく守らされ、違反すれば罰金や職を失うこともあった。強制された中絶や不妊の手術も各地で起きる。男の子を望む家では、女の子が生まれて届け出されないこともあり、男女の比率が大きく崩れた。2016年に二人まで、のちに三人まで認められたが、出生数は減り続けている。北京
- 男女雇用機会均等法できごとAD1985年法律が変わっても、慣行はゆっくりしか変わらない女性は結婚や出産で辞めるもの、とされ、定年まで男女で違う会社も珍しくなかった。女性差別撤廃条約を批准するため、1985年、雇用の場で男女を平等に扱うことを定める法律が作られ、翌年から施行される。だが募集や昇進での平等は、はじめは努力するよう求めるだけだった。企業は総合職と一般職という区分を作り、多くの女性は一般職に置かれた。1997年の改正で、差別は禁止に変わる。法律が変わっても、職場の慣行はゆっくりとしか変わらなかった。東京
- 慰安婦の証言できごとAD1991年8月14日戦争中、日本軍は各地に慰安所を設け、朝鮮半島をはじめアジアの各地から集められた女性たちが、兵士の相手をさせられた。戦後、長いあいだ、その経験は語られなかった。1991年8月14日、韓国の金学順が、元慰安婦として初めて名乗り出て証言する。各地で名乗り出る人が続いた。1993年、日本の政府は、軍の関与と強制性を認めて謝罪する談話を出す。一方で、連行の強制をめぐる議論は続き、日韓のあいだの大きな争点になっている。ソウル
- 無償労働を数えるできごとAD1995年9月15日女性が男性の2倍から10倍第4回世界女性会議の行動綱領に、各国政府への要求が入った。無償労働を測定し、国民経済計算のサテライト勘定として記録すること。生活時間調査を行うこと。以後、各国が調査を始めた。日本の推計で、無償労働の貨幣評価はGDPの2割前後にあたる。世界では、女性が男性の2倍から10倍の無償労働を担っている。数えても、支払われるわけではない。それでも、数えなければ、議論の対象にすらならない。北京
- マララ・ユスフザイ人物AD1997年7月12日 – ?女子が学校へ行くことを主張して銃撃され、生き延びた。17歳でノーベル平和賞を受ける。
- 介護保険できごとAD2000年4月1日家の女性が担うとされていたそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
- グレタ・トゥーンベリ人物AD2003年1月3日 – ?15歳で議会の前に座り、1年後に世界の400万人を歩かせた。国連で「よくもそんなことを」と言った。
- 台所の煙できごとAD2010年世界ではいまも二十億を超える人が、薪や炭や家畜の糞を燃やして煮炊きをしている。家の中にこもる煙は肺と心臓を傷め、毎年数百万人の早すぎる死につながると推計される。煙をいちばん吸うのは、台所に立つ女性と、そばにいる幼い子どもである。2010年、煙の少ないかまどを広める国際的な連合がニューヨークで立ち上げられた。だが新しいかまどは、料理の作法に合わなければ使われない。技術を配るだけでは台所は変わらない。ニューヨーク
- マララの銃撃できごとAD2012年10月9日女子が学校へ行く権利を書きつづけた15歳女子が学校へ行く権利を書きつづけた15歳が、下校のバスで頭を撃たれた。生き延び、2年後に史上最年少でノーベル平和賞を受ける。ミンゴラ

- #MeTooできごとAD2017年10月15日映画プロデューサーの性暴力の告発から、一つのハッシュタグで数千万人が経験を語った。職場の権力と性の関係が、各国で問い直される。ニューヨーク
- 女性、命、自由できごとAD2022年9月16日女性の服装が、争いの前線にイランでは、革命のあと、女性が髪を布で覆うことが法で義務づけられていた。2022年9月、クルド系の二十二歳の女性マフサ・アミニが、覆い方が不適切だとして風紀の警察に拘束され、16日に死んだ。抗議は全国に広がり、女性たちは布を外して火に投げ入れ、髪を切った。女性、命、自由、という言葉が掲げられる。政府は力で抑え込み、数百人が死に、抗議した若者の死刑も執行された。女性の服装が、国のあり方をめぐる争いの前線になった。テヘラン
- デボラ人物唯一の女性の士師「蜜蜂」。士師記で唯一の女性の士師。エフライムの山地のナツメヤシの木の下で人々を裁き、バラクを戦いに送り、勝利の歌を歌った。「私デボラは立った、イスラエルの母として」。士師記5章の歌はBC12世紀の言葉と考えられ、聖書で最古の部分の一つ。
- グズリーズ・ソルビャルナルドッティル人物三度海を渡ったアイスランドからグリーンランドへ。夫が死に、レイフの弟に嫁ぎ、また死に、ソルフィン・カールセフニと組んでヴィンランドへ。そこで息子スノッリを産んだ。アメリカで生まれた最初のヨーロッパ人。帰ってローマに巡礼し、修道女になった。「遠くまで行った女」。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
考えることの歴史23件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。表現の歴史23件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。誰が書き残したか23件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。主権はだれのものか22件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。技術と産業21件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史13件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。都市の歴史12件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。コテンラジオで聞く歴史12件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。明治11件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。確かめるという方法11件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。働くことの歴史10件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。性の歴史10件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。感染症と人類9件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。冷戦のあと9件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。日本の古代8件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。子どもの歴史8件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。教育の歴史7件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。差別の歴史7件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。法と裁判の歴史7件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。交易路とお金6件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。キリスト教のひろがり6件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。国風文化 — かなと宮廷の女たち6件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。冷戦5件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。イスラム世界5件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。中国の王朝4件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。支え合いの歴史4件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史4件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。ローマ人の物語3件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。古代オリエント3件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。武士の700年3件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。障害の歴史3件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。住まいの歴史3件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。探検と発見2件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。東ローマ千年2件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『想像の共同体』で読む歴史2件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『日本の歴史をよみなおす』で読む日本2件を共有 / 日本は農業の国で、百姓は農民だった。その前提を、史料の側から崩した本。『中世の秋』で読む中世の終わり2件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。老いと死の歴史2件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。交通と旅の歴史2件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。言葉と文字の歴史2件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。中華の統一1件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『ローマ人の物語』で読むローマ1件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方1件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ1件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。