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Person / 人

エル・グレコ

El Greco
AD1541年 – AD1614年4月7日(享年73・推定)
スペイン重要度 4

概要

本名ドメニコス・テオトコプーロス。ヴェネツィア領クレタ島で、イコン画家として出発した。ヴェネツィアでティツィアーノとティントレット、ローマでミケランジェロを見た(「あれを消して描き直せる」と言って嫌われた、と伝える)。1577年、トレドへ。以後、死ぬまでそこにいた。引き伸ばされた体、非現実の色、燃える空。忘れられ、19世紀末に再発見された。

関わったできごと(1)

エル・グレコ『オルガス伯の埋葬』AD1588年 · 描いた

本文

1541年、クレタ島カンディア(イラクリオン)。ヴェネツィア共和国領。ドメニコス・テオトコプーロス。父は徴税吏。兄マノウソスは商人(後に借金で没落し、トレドの弟のもとで暮らして死んだ)。

クレタは、ビザンツの伝統が残った島だった。イコン画家の工房があり、ギリシア正教の様式で聖像を描き、それをヴェネツィアやイタリア本土に売っていた。彼はその訓練を受けた。1563年、22歳の記録に「マエストロ・メニゴス、画家」とある。

1567年頃、ヴェネツィア。ティツィアーノの工房にいた(と、後の書簡が示唆する)。色。ティントレットの、斜めに切り込む構図と、劇的な光。

1570年、ローマ。細密画家ジュリオ・クローヴィオが、ファルネーゼ枢機卿への推薦状を書いた。「ティツィアーノの弟子だった若いカンディア人が来ました。私の判断では、絵において稀な才能を持っています」。ファルネーゼ宮に住んだ。

そこで、ミケランジェロの『最後の審判』について、「もし全部を壊すなら、私が、慎み深く、かつ、劣らぬ出来で描き直そう」と言った、と伝わる(教皇庁は、当時、あの裸体に布を描き足すかどうかで揉めていた)。ローマの画家たちの反感を買い、ファルネーゼ宮を出された。

1577年、スペイン。理由は、フェリペ2世がエル・エスコリアル宮の装飾のために画家を探していたこと。ローマで知り合ったスペイン人聖職者の縁で、トレドへ。

1579年、王のために『聖マウリティウスの殉教』。王は受け取ったが、祭壇には掛けなかった。「祈りを妨げる」(構図が異様で、殉教の場面が奥に小さく、手前で聖人たちが議論している)。宮廷画家の道が閉じた。

トレドに残った。以後37年。

トレド。1561年に首都がマドリードへ移るまで、カスティーリャの中心だった街。大司教座があり、修道院と教会が数十。ユダヤ人街とイスラームの記憶が残る。没落しかけていて、しかし、注文はあった。彼は、教会と修道院のための祭壇画で生きた。

裁判。彼は、報酬について、何度も注文主と裁判をした(自分の絵の価値を、鑑定人による評価より高く主張した)。トレド大聖堂の『聖衣剥奪』(1577〜79年)でも、参事会と争った(キリストより高い位置に群衆がいることと、マリアたちが描かれていることを、参事会が「聖書に反する」と指摘した。彼は修正を拒み、報酬を減らされた)。

生活。宮殿の一部(ビリェーナ侯爵邸)を24室、借りていた。音楽家を雇って食事の間に演奏させた、と記録がある(そのために貧しくなった、とパチェーコが書いた)。蔵書目録が残っていて、ギリシア語の古典(ホメロス、アリストテレス、プルタルコス)、イタリア語の建築書とヴァザーリ、スペイン語の詩集が並ぶ。ヴィトルヴィウスとヴァザーリの余白に、彼の書き込みがある(ミケランジェロについて「よい人だったが、絵は描けなかった」)。

家族。ヘロニマ・デ・ラス・クエバス(正式な結婚の記録がない)との間に、1578年、息子ホルヘ・マヌエル。息子は父の工房を継ぎ、建築家にもなり、父の作品の複製を作り続けた。

作品。『オルガス伯の埋葬』(1586〜88年)。『受胎告知』。『聖母被昇天』。『トレド景観』(1596〜1600年頃。メトロポリタン美術館。嵐の空の下の街。西洋で最初期の、人物のいない風景画の一つ)。『ラオコーン』(1610年頃。古代の主題を、トレドの風景の中に置いた)。『第五の封印の開封』(1608〜14年、未完。裸の人々が両腕を上げて立ち上がる。上部が失われている)。

1614年4月7日、トレドで死んだ。73歳。サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院に葬られた(後に別の教会へ移され、その建物が壊されて、遺骨の行方は分からない)。

死後の評価。17〜18世紀、ほぼ忘れられた。「気が触れていた」「乱視だった」。19世紀末、フランスとスペインの画家と批評家が発見した。1908年、マヌエル・コッシオのモノグラフ。

ピカソは1897年(16歳)に彼の絵を模写し、1907年の『アヴィニョンの娘たち』の直前に『第五の封印の開封』を繰り返し見ていた(当時、その絵はパリのスペイン人画家スロアガの所有だった)。セザンヌも模写した。表現主義の画家たちが、彼を先駆者として掲げた。

クレタ島で生まれ、ヴェネツィアとローマで学び、スペインで死んだ。署名は、生涯、ギリシア文字で「ドメニコス・テオトコプーロス、クレタ人が作った」と書き続けた。

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