七月革命

概要
シャルル10世が議会を解散し、出版を禁じ、選挙権を狭める勅令を出した。パリは3日で立った。「栄光の三日間」。バリケード。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』。シャルルはイギリスへ。オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス人の王」。ブルジョワの王政。革命は、王を替えただけだった。ベルギーがオランダから独立し、ポーランドが立って潰された。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
1814年、ナポレオン・ボナパルトが退位すると、フランスでは、革命で処刑されたルイ16世の弟、ルイ18世が王位に就いた。ブルボン家の復古である。だがルイ18世は、革命以前の絶対王政に戻すことはできないと分かっていた。彼は「憲章」を国民に与え、二院制の議会と、ごく限られた富裕層による選挙を認めた。ウィーン会議のあとのヨーロッパで、フランスは慎重な立憲王政の道を歩み始めた。
1824年、ルイ18世が死に、弟のシャルル10世が王位を継いだ。シャルルは、革命で国を追われた亡命貴族たちの頭目だった人で、古い王政への思いが強かった。彼はランスの大聖堂で中世さながらの戴冠式を行い、革命で土地を没収された亡命貴族に10億フランの補償を与える法を通した。教会の聖物を冒涜した者に死刑を科す法律も作られた。カトリック教会の発言力が強まり、自由主義者たちは、革命の成果が奪われていくことに危機感を募らせた。

1829年、シャルルは極端な王党派のポリニャックを首相に任じた。1830年3月、下院は、内閣は国民の信任を得ていないとする上奏を可決した。王は議会を解散したが、7月の選挙で反対派はかえって議席を増やした。同じ頃、フランス軍はアルジェを攻め落としていた。シャルルはその勝利の勢いを借りて、力で押し切ろうとした。
7月25日、パリ西郊のサン=クルー宮殿で、シャルル10世は四つの勅令に署名した。出版の自由を停止し、新しく選ばれたばかりの下院を解散し、選挙法を改めて選挙権を大地主に限り、9月に新たな選挙を行う、という内容である。選挙権の改正は、商工業で富を築いた人々の多くから投票権を奪うものだった。
7月26日、勅令が官報に載ると、パリの新聞記者たちは、若いジャーナリストのティエールらを中心に抗議の声明を出した。政府は法の秩序を破った、もはや服従の義務はない、という趣旨である。仕事を失うことになる印刷工たちが、真っ先に街に出た。27日、警察が新聞社の印刷機を差し押さえようとすると、群衆が集まり、衝突が起きた。
28日、パリは蜂起した。職人、労働者、学生が、敷石をはがし、馬車や家具を積み上げて、狭い路地にバリケードを築いた。市庁舎やノートルダム大聖堂の塔には、革命とナポレオンの時代の三色旗が翻った。鎮圧に当たった軍の兵士の中には、民衆に銃を向けることをためらい、寝返る者も出た。29日、ルーヴル宮とテュイルリー宮を守っていた部隊が退き、パリは民衆の手に落ちた。この27日から29日までは「栄光の三日間」と呼ばれる。死者は民衆の側が数百から1000人ほど、軍の側が200人ほどとされる。

シャルル10世は勅令を撤回したが、もう遅かった。8月2日、彼は孫に王位を譲ると宣言して退位し、やがてイギリスへ亡命した。ブルボン家の本家の王政は、ここで終わった。
だれが新しい政府を作るのか。民衆の中には共和政を求める声もあったが、銀行家や自由主義の議員たちは、王政のまま、王をすげ替える道を選んだ。白羽の矢が立ったのは、ブルボン家の分家オルレアン家の当主、ルイ・フィリップだった。父は革命に加わって「平等公」と名乗った人で、ルイ・フィリップ自身も若い頃に革命軍で戦った経歴を持っていた。7月31日、パリ市庁舎のバルコニーで、アメリカ独立戦争と大革命の英雄、73歳のラファイエットが、三色旗に包んだルイ・フィリップを抱擁してみせ、群衆は歓呼した。ラファイエットは、これこそ最良の共和政だ、と言ったとも伝えられる。

8月9日、ルイ・フィリップは即位した。称号は「フランスの王」ではなく「フランス人の王」とされ、三色旗が国旗に戻された。選挙権を持つ人の数は広げられたが、それでも成人男子のごく一部、財産を持つ人々に限られた。ルイ・フィリップは傘を手に街を歩く「市民王」として振る舞ったが、その王政は銀行家と大商人のためのものだと、やがて批判されるようになる。
画家のドラクロワは、この革命を題材に『民衆を導く自由の女神』を描いた。三色旗を掲げた女神が、倒れた人々を越えて進み、その横にシルクハットの男、労働者、二丁の拳銃を持った少年が続く。絵は1831年の展覧会に出され、政府に買い上げられたが、民衆を煽る絵とみなされ、長く人目に触れない場所に置かれた。少年の姿は、のちにユゴーがユゴー『レ・ミゼラブル』で描いたガヴローシュを思い起こさせる、と言われる。

パリの革命は、ヨーロッパ各地に波紋を広げた。8月、ブリュッセルで暴動が起き、ベルギーはオランダからの独立へと向かった(ベルギーの独立)。11月には、ロシアの支配下にあったポーランドのワルシャワで蜂起が起きたが、翌年、ロシア軍に鎮圧された。この知らせを旅先で聞いた若いショパンが、深い衝撃を受けたことはよく知られている。ドイツやイタリアの各地でも騒乱が起きた。
七月革命は、王を替えただけだったとも言われる。ルイ・フィリップの七月王政は18年続いたが、選挙権の拡大を拒み続けた末、1848年の二月革命で倒れる(1848年革命)。1830年の夏は、1789年の再演というより、1848年の予行演習だったのかもしれない。