人物

重源

Chōgen
AD1121年 – AD1206年(享年85・推定)
鎌倉幕府重要度 4

概要

醍醐寺の僧。宋に三度渡ったと自分で言った。61歳で東大寺の大勧進。「南無阿弥陀仏」を名乗った。周防の杣、伊賀と播磨の別所、宋の技術、運慶と快慶。25年。86歳で死ぬまで。東大寺の俊乗堂の像は、皺と目の力で有名。

関わったできごと(1)

東大寺の再建AD1195年(建久6年) · 勧進した

本文

1121年、京の武士の家に生まれた。父は紀季重とされる。13歳で京の南の醍醐寺に入って出家し、真言宗の僧になった。だが重源は、寺にこもって学問を積む学僧ではなかった。若い頃から大峰山、熊野、葛城山といった山々をめぐって修行を重ねた。山の中を歩き、人々の間に入っていく修行者、聖(ひじり)として生きた人だった。

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Wikimedia Commons b_mode68 · CC BY 3.0

重源は宋に渡っている。晩年に自分の生涯の事業を書き上げた『南無阿弥陀仏作善集』では、宋に三度渡ったと述べている。確かな記録があるのは1167年頃の渡航で、天台山や阿育王山といった名高い寺を訪ね、翌年、同じく宋に渡っていた若い栄西と一緒に帰国したとされる。三度という数は確かめられず、誇張だと考える研究者もいる。ともかく重源は宋の寺々の建物や仏教の様子をその目で見て、宋の職人とのつながりを得て帰ってきた。それがのちに生きることになる。

1180年12月、平清盛の命を受けた平重衡の軍が、平氏に逆らった奈良の寺々を攻め、火を放った。東大寺と興福寺は炎に包まれ、聖武天皇が国の力を傾けて造った大仏殿も焼け落ちた。大仏は頭が落ち、手も溶けた。逃げ込んでいた多くの人々も焼け死んだと伝えられる。国家の象徴が灰になったのである。

南無阿弥陀仏作善集(部分)
南無阿弥陀仏作善集(部分)Wikimedia Commons Memoir of Chōgen; I created the file · Public domain

翌1181年、後白河法皇は東大寺の再建を命じ、重源をその責任者である大勧進に任じた。61歳だった。勧進とは、人々に寄付を呼びかけて、寺や仏像の建立の資金と労力を集めることである。国の財政が源平の争乱で傾いていた中で、天皇の命令だけでは再建は進まない。身分の上下を問わず、一枚の紙、半銭の銭でもよいから仏のために差し出してほしい、と呼びかけるほかなかった。重源が選ばれた理由ははっきりしないが、宋に渡った経験と、聖として各地を回って人々の寄進を集めてきた実績が見込まれたと考えられている。法然が推薦したという話も伝わる。

重源は自らを「南無阿弥陀仏」と名乗った。阿弥陀仏の名を称える念仏の言葉を、そのまま自分の名にしたのである。弟子たちにも「何阿弥陀仏」という名を与えた。重源は勧進のための一輪車を作らせ、各地を回って寄付を集めた。後白河法皇をはじめ、貴族から庶民までが銭や米や材木を差し出した。鎌倉の源頼朝も、米や金を寄進して再建を支えた。

まず大仏の修理に取りかかった。日本の職人には巨大な銅像を鋳直す技術が残っていなかった。重源は宋から来ていた工人の陳和卿らを起用し、宋の技術で大仏の頭と手を鋳造させた。1185年8月、平氏が壇ノ浦で滅んだ(壇ノ浦の戦い)数か月後、後白河法皇が自ら筆を執って、修理された大仏の開眼供養が行われた。

壇ノ浦の戦いに関わる図版:AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen
壇ノ浦の戦いWikimedia Commons Tosa Mitsunobu · Public domain

次は大仏殿だった。巨大な建物の柱には、長さ20メートルを超える太い木が何十本も要る。近畿の山にはもうそんな木は残っていなかった。1186年、周防国(いまの山口県)が再建の費用をまかなう国に指定され、重源は自ら周防に下った。佐波川の上流の奥深い山で巨木を探し、切り出した。木を運ぶために谷に道を通し、浅い川には堰を設けて水をためては流し、材木を少しずつ下流へ送った。設けた堰は118か所に及んだと伝えられる。材木は瀬戸内海を船で運ばれ、淀川、木津川をさかのぼって奈良に届いた。

重源の建物は、宋の福建地方の建て方を取り入れた、それまでの日本に無い様式だった。太い柱を貫く横木を何段も重ね、組み物を大きく前に張り出させる。大きな建物を少ない材料で丈夫に、速く建てるための工夫で、のちに大仏様(天竺様)と呼ばれる。いま東大寺に残る南大門、そして播磨の浄土寺の浄土堂が、その姿を伝えている。

東大寺南大門
東大寺南大門Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

重源の仕事は東大寺だけにとどまらなかった。伊賀、播磨、周防、備中、摂津の渡辺などに、別所と呼ばれる拠点を作り、そこに阿弥陀堂や、人々が体を清める湯屋を置いた。播磨の魚住の港を修築し、河内の狭山池を改修した。狭山池の改修を記した重源の碑は、1993年に池の底から見つかっている。寄付を集めるだけでなく、道や港や池を整えて人々の暮らしを助けることも、勧進の聖の仕事だった。

1195年、大仏殿の完成を祝う供養が行われ(東大寺の再建)、頼朝も大軍を率いて奈良に来て参列した。1203年には、運慶と快慶らが、わずか70日ほどで南大門の金剛力士像を造り上げ、この年、東大寺の総供養が営まれた。重源は83歳になっていた。大勧進を引き受けてから20年あまりがたっていた。

東大寺所蔵、重源の肖像
東大寺所蔵、重源の肖像Wikimedia Commons Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition · Public domain

1206年6月、重源は亡くなった。86歳だった。大勧進の職は栄西が継いだ。東大寺の俊乗堂には、重源の坐像が残っている。深い皺の刻まれた顔、少し前にかがんだ体、数珠を繰る手。晩年の重源をそのまま写したかのようなこの像は、鎌倉時代の肖像彫刻の傑作とされる。国が焼け落ちた寺を、一人の聖が人々の寄進を集めて建て直した。重源のこの仕事は、のちの時代にも、寺社の造営を勧進で行う手本になった。

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