できごと

『ロビンソン・クルーソー』

Robinson Crusoe
AD1719年4月25日
重要度 5
『ロビンソン・クルーソー』に関わる図版:Robinson Crusoe 1719 1st edition
Robinson Crusoe 1719 1st edition Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

59歳のデフォーが、セルカークの4年の無人島の話を元に、28年の島の話を書いた。難破、日記、帳簿、柵、山羊、麦、傘、フライデー。ホモ・エコノミクスの神話、とマルクスが言い、ルソーは『エミール』の唯一の本にした。イギリスで最初の小説、と言われる。表紙に「彼自身が書いた」とあって、デフォーの名はない。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ダニエル・デフォーAD1660年頃–AD1731年4月24日 · 書いた

本文

話の種は実在の船乗りにある。スコットランドのファイフ出身のアレクサンダー・セルカークは、1704年、南太平洋を荒らす私掠船の航海長だった。船の傷みを心配して船長と言い争い、チリ沖のフアン・フェルナンデス諸島の無人島(マス・ア・ティエラ)で、自分から降ろしてくれと言って上陸した。すぐに後悔して呼び戻したが、船は去った。船は実際に間もなく沈んだらしい。彼は4年4か月、野生化した山羊を追い、鼠よけに猫を飼いならし、聖書を読んで暮らした。1709年2月、ウッズ・ロジャーズの私掠船が島に寄り、山羊の皮をまとった男を拾い上げた。ロジャーズは航海記(1712年)にこの話を書き、リチャード・スティールも雑誌『イングリッシュマン』(1713年)で取り上げて、ロンドンで評判になった。ダニエル・デフォーはこれらを読んでいたはずだが、セルカーク本人に会ったかどうかは分からない。

デフォーはこのとき59歳前後で、小説家ではなかった。靴下の卸商や煉瓦工場の経営で財を成しかけては破産し、政治や宗教の時事文を量産する物書きとして生きてきた。1703年には、国教会の強硬派をまねて「非国教徒を根絶やしにせよ」と書いた皮肉の小冊子がそのまま受け取られて罪に問われ、晒し台に立たされている。その後は政治家ハーリーのために各地の世論を探る密偵も務めた。名前ももとは「フォー」で、「デ」は自分で付けた。

ロビンソン・クルーソー
ロビンソン・クルーソーWikimedia Commons Public domain

1719年4月25日、書店主ウィリアム・テイラーが一冊の本を出した。題は長い。『ヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と奇妙で驚くべき冒険。彼は難破して自分以外の全員が死に、アメリカの海岸、オロノコ川の河口近くの無人島で28年間たった一人で暮らした。海賊による最後の奇妙な救出の記述とともに。彼自身によって書かれた』。デフォーの名はどこにもなく、本物の手記として売られた。たちまち版を重ね、海賊版や要約版も出回った。テイラーはその年の8月に続編を出し、翌1720年には教訓を集めた第3部も出したが、こちらはあまり売れなかった。

物語の主人公は、1632年にヨークの中流の家に三男として生まれた。父は「中くらいの身分こそ最も幸せだ」と言って海に出ることを禁じたが、彼は家を飛び出す。嵐、北アフリカのサレの海賊に捕らえられての奴隷暮らし、脱走、ブラジルでの農園経営。そして、農園で使う奴隷をアフリカで買い付けようと乗り出した船が、1659年9月30日に難破し、一人だけ島に打ち上げられる。

クルーソーの島「絶望の島」を描いた地図。物語の出来事を示す
クルーソーの島「絶望の島」を描いた地図。物語の出来事を示すWikimedia Commons photoscan by J. Kenneth Van Dover; original artist unknown · Public domain

ここから先が、この本を特別なものにした部分である。クルーソーは座礁した船へ何度も泳いで渡り、筏で道具、銃と火薬、帆布、食料、聖書、犬と猫を運び出す。金貨を見つけて「お前など何の役にも立たない」とつぶやき、それでも結局持ち帰る場面はよく知られている。柵を巡らした住まいを作り、柱に刻み目を入れて日を数え、インクが続くかぎり日記をつけた。袋から捨てた穀物の屑が芽を出して麦と米が実り、土器は何度も割れたのちに焼けるようになり、山羊を囲って飼い、山羊皮の傘をこしらえる。大きな丸木舟を作ったが重すぎて海まで運べず、作り直す。熱病で死にかけたあと、聖書を読んで信仰に目覚める。自分の境遇を「悪いこと」と「良いこと」の二欄に分け、帳簿のように書き出して心を落ち着ける場面もある。読者は、何もないところから一人の人間が暮らしを組み立てていく工程を、手順ごとに追うことになった。

長い孤独は、砂浜に残された一つの足跡で破られる。対岸から舟で来る人々が、捕虜を連れてきて殺して食べていたのである。何年も恐れ、身を隠したのち、20年余りが過ぎたある日、逃げ出した捕虜の一人を助け、その日が金曜日だったので「フライデー」と名づけた。言葉を教え、服を着せ、キリスト教を教え、自分を「主人」と呼ばせた。やがてフライデーの父とスペイン人を救い、最後は反乱の起きたイギリス船の船長を助けて、その船で島を離れる。28年2か月と19日。帰国すると、ブラジルの農園は留守のあいだに財産を生んでいた。

アレクサンダー・セルカークについての本の表紙
アレクサンダー・セルカークについての本の表紙Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

この本はしばしば「イギリス最初の小説」と呼ばれる。アフラ・ベーンの『オルノーコ』(1688年)やバニヤンの『天路歴程』を挙げる人もいて異論はあるが、普通の人間の日々の暮らしを細部まで本当らしく描く、という近代小説の作法をはっきり示したのはこの本だ、と考える研究者が多い。

後世の読み手は、それぞれの関心をこの島に持ち込んだ。ジャン=ジャック・ルソーは『エミール』(1762年、ルソー『エミール』)で、子どもが最初に読む本、そして長いあいだただ一冊の本にすべきだとした。書物の知識ではなく、自分の手で必要を満たす知恵を学べるからである。カール・マルクスは『資本論』第1巻で、経済学者はロビンソン物語を好むと皮肉りながら、島の一人きりの労働を、時間と道具の配分の例として使った。孤島で計算し記録し蓄える男の姿は、のちに「経済人(ホモ・エコノミクス)」の原型と呼ばれるようになる。一方で、フライデーとの主従関係は、20世紀後半になると植民地支配の縮図として読まれた。ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』(1967年)はフライデーの側から島を描き直し、J・M・クッツェーの『敵あるいはフォー』(1986年)は語り手を女性の漂流者に替えて、物語を書くこと自体を問うた。

フライデーを食人族から解放するクルーソー(カール・オフターディンガー画)
フライデーを食人族から解放するクルーソー(カール・オフターディンガー画)Wikimedia Commons Carl Offterdinger (1829-89) · Public domain

無人島で生き抜く物語は「ロビンソナード」と呼ばれる一つの型になった。ヴィースの『スイスのロビンソン』(1812年)、ヴェルヌの『十五少年漂流記』(1888年)、そして子どもたちの島が暴力に落ちていくゴールディングの『蠅の王』(1954年)は、その裏返しである。セルカークが暮らしたマス・ア・ティエラ島は、1966年、チリ政府によって「ロビンソン・クルーソー島」と改名された。物語の島はカリブ海に近い大西洋側にあるのに、名前は太平洋の実在の島に付いたことになる。

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