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Person / 人

ヨーゼフ・ハイドン

Joseph Haydn
AD1732年3月31日 – AD1809年5月31日(享年77)
オーストリア重要度 5

概要

車大工の子。ウィーンの聖シュテファンの聖歌隊、声変わりで追い出され、貧しく、屋根裏で。1761年から30年、エステルハージ侯爵の楽長。制服、契約書。「私は世界から隔てられていて、独創的にならざるを得なかった」。交響曲104、弦楽四重奏68。「交響曲の父」「四重奏の父」。ロンドン(1791〜95年、12の交響曲、富と名声)。『天地創造』『四季』。モーツァルトの友人、ベートーヴェンの師。皇帝賛歌(ドイツ国歌)。ナポレオンの砲撃の中で死んだ。

関わったできごと(1)

ハイドン『天地創造』AD1798年4月30日 · 作曲した

本文

1732年3月31日(4月1日、と自分で言った。エイプリルフールに生まれたと言われるのを嫌って)、ローラウ(ウィーンの東、ハンガリー国境)。父マティアスは車大工で、村の裁判官、ハープを耳で弾いた。母マリアは料理人だった。12人の子の2番目。5歳頃から、ハインブルクの親戚の教師フランクの所へ(「食べ物より鞭が多かったが、感謝している」)。1740年、ウィーンの聖シュテファンの楽長ロイターが声を聞いて、聖歌隊へ。8歳。9年。声変わり(1749年。去勢の話が出て、父が止めた)で、追い出された(同級生の弁髪を切った、が口実)。11月、通りに。

貧しい。屋根裏(ミヒャエラーハウス、6階)。教える、セレナーデを弾く、メタスタージオ(下の階に住んでいた)から紹介されて、ポルポラ(イタリアのオペラ作曲家)の伴奏と召使い(靴を磨いた)。「私はポルポラから、作曲の真の基礎を学んだ」。C・P・E・バッハの『クラヴィーア・ソナタ』を暗記した。1757年頃、フュルンベルク男爵の田舎の家で、最初の弦楽四重奏(4人の奏者がいたから)。1759年、モルツィン伯の楽長(ボヘミア)。交響曲第1番。1760年、マリア・アンナ・ケラーと結婚(本当は妹を愛していたが、妹は修道院へ。妻は音楽に無関心で、楽譜をパイ皿の敷き紙と髪の巻き紙に使った、と伝える。子はなく、40年、合わなかった)。

1761年5月1日、エステルハージ侯パウル・アントンの副楽長。契約書。「制服を着る。粉をふった鬘。毎日、朝と午後、侯の部屋の外で命令を待つ。楽団の風紀に責任を持つ。侯のためだけに作曲し、他に売らない、写しを渡さない」。1762年、ニコラウス侯(「豪華侯」)。1766年、楽長。エステルハーザ(1766年〜。ノイジードル湖の南の沼地に、ヴェルサイユを真似た宮殿。オペラ劇場、人形劇場。侯は1年の大半をそこで過ごした)。楽団25人。バリトン(侯が弾く弦楽器。ハイドンは126曲書いた)。「私は世界から隔てられていた。私を惑わせ、悩ませる者がいなかった。だから私は独創的にならざるを得なかった」。交響曲(毎年、何曲も。「朝」「昼」「晩」、「告別」(1772年。楽団員が家族に会いたがっているのを侯に伝えるために、終楽章で奏者が一人ずつ蝋燭を消して去る。侯は翌日、休暇を出した)、「悲しみ」「受難」「マリア・テレジア」)、弦楽四重奏(作品20「太陽」1772年、作品33「ロシア」1781年。「全く新しい特別な方法で」)、オペラ(毎年。エステルハーザで)、ミサ。

1780年代、名声。パリ(「パリ交響曲」1785〜86年)、スペイン(「十字架上の七つの言葉」1786年、カディス)、ロンドン、ナポリ。楽譜出版(アルタリア)。1781年、モーツァルト(25歳)に会った。「ハイドン・セット」(モーツァルトが6曲の四重奏を献呈、1785年。「私の息子たち」)。「私は神に誓って、正直な人間として言う。あなたの息子は、私が名前で、または評判で知る、最も偉大な作曲家だ」(レオポルト・モーツァルトに)。モーツァルトは「パパ・ハイドン」。

1790年9月、ニコラウス侯が死んだ。息子アントンは楽団を解散した(年金は残した)。ハイドンはウィーンへ。ザロモン(ロンドンのヴァイオリニストで興行主)が来た。「私はロンドンのザロモンだ。あなたを迎えに来た。明日、契約しよう」。1791年1月1日、ドーヴァー(58歳で初めて海を見た)。ロンドン、1年半。「ロンドン交響曲」(第93〜98番)。オックスフォードの名誉博士。ヘンデル。ハーシェルの望遠鏡。競馬。フォックスハンティング。「私は貴族のように扱われた」。レベッカ・シュレーター(未亡人)との恋。1794〜95年、2度目(第99〜104番。「軍隊」「時計」「太鼓連打」「ロンドン」)。ジョージ3世が「ここにいてくれ」。1万2000グルデンを持って帰った。

ウィーン。1796年、『皇帝賛歌』(「神よ、フランツ皇帝を守りたまえ」。イギリスの「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」を聞いて、オーストリアにも、と。1797年2月12日、皇帝の誕生日に全部の劇場で。弦楽四重奏「皇帝」の変奏曲。1841年、ホフマン・フォン・ファラースレーベンが「ドイツ、全てに優るドイツ」の詞をつけた。ドイツ国歌)。『天地創造』(1798年)、『四季』(1801年)、6つのミサ(「戦時のミサ」「ネルソン・ミサ」)。ベートーヴェンの師(1792〜94年。「彼は私から何も学ばなかった」とベートーヴェン。しかし敬意)。1803年、最後の作品(弦楽四重奏、未完。「私の力は尽きた。私は老いて弱い」の名刺)。

1809年5月、ウィーンの砲撃。5月26日、召使いたちに「皇帝賛歌」を3度弾いて聞かせた。5月31日、朝、死んだ。77歳。フランスの占領下で、6月15日、モーツァルトの『レクイエム』。1820年、アイゼンシュタットへ移すとき、頭がなかった(骨相学者が盗んでいた。1954年に戻った)。

「私は、人々を喜ばせたい」。