カジュラーホーの寺院群
概要
85あった寺院のうち25が残る。壁面を埋める彫刻の一部が性愛を扱っており、その解釈をめぐって議論が続いている。密林に埋もれていたことが、破壊を免れた理由になる。
場所
24.83°N 79.92°E · インド・マディヤ・プラデーシュ州
本文
7世紀にハルシャ王の国が崩れたあと(ハルシャ王の北インド統一)、北インドは多くの王家が並び立つ時代に入った。その中で、9世紀から13世紀にかけて、インド中部のブンデールカンドと呼ばれる地方を治めたのが、チャンデーラ朝である。10世紀の前半に大きな勢力を持つようになり、その都の一つとして、また祭祀の中心として栄えたのが、カジュラーホーだった。
チャンデーラ朝の王たちは、950年ごろから1050年ごろまでのおよそ100年のあいだに、この地に数多くの石の寺院を建てた。伝えでは、寺院は85を数えたという。今残っているのは25ほどである。多くはヒンドゥーの神々、とくにシヴァとヴィシュヌに捧げられているが、ジャイナ教の寺院もあり、王家が異なる宗教の寺院の建立を認めていたことが分かる。

寺院は、高い基壇の上に建てられ、入口から奥の聖室へ向かって、屋根が山の峰が連なるように段々と高くなっていく。最も奥の聖室の上には、シカラと呼ばれる塔がそびえる。神々の住む山、カイラーサ山やメール山を表したものとされる。代表的なカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院は11世紀前半の建立とされ、塔の高さは30メートルほどある。北インドの寺院建築が最も洗練された姿を示す例とされる。
カジュラーホーの寺院を有名にしたのは、内外の壁面をすき間なく埋め尽くす彫刻である。カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院だけでも、数百体の像が刻まれているという。神々や女神、天上の楽人や踊り手、化粧をしたり手紙を書いたり、足のとげを抜いたりする女性たち、戦士、楽師、動物、想像上の獣。体をしなやかにひねった女性の像は、とくに美しいことで知られる。

その中に、男女の性愛の場面を刻んだ像がある。数は全体の一部で、一割ほどとされるが、その大胆な表現は、19世紀にこの地を訪れたイギリス人を驚かせ、今も多くの人の関心を集めている。なぜ寺院の壁にこうした像が刻まれたのかについては、さまざまな説明がある。性の力を修行に取り入れるタントラの思想と結びつける説、豊かさと多産を祈るものとする説、人生の目的の一つとして愛と快楽を数えたインドの伝統を表したものとする説、王朝の富と洗練を示す宮廷の美意識の表れとする説などである。性愛の像が外壁にあり、神が祀られる奥の聖室には無いことから、俗世の営みを外に置き、それを越えて内なる神へ向かう道を示している、という解釈もある。どれか一つに決めることは難しく、議論は今も続いている。
チャンデーラ朝は、11世紀の初めに北西から侵入したガズナ朝のマフムード・ガズナウィーとも対峙した。マフムードがグジャラートのソームナート寺院を略奪した頃(ソムナート寺院の略奪)、チャンデーラの王はマフムードの軍と向き合い、大きな戦いを避けながら国を保ったと伝えられる。12世紀から13世紀になると、王朝はしだいに衰え、北インドにデリー・スルタン朝の成立が成立したあと、その勢力に押されて力を失った。

その後、カジュラーホーは政治の中心から外れ、寺院の多くは崩れていった。14世紀にこの地を通ったイブン・バットゥータは、寺院のそばに長い髪をのばしたヨーガの行者たちが住んでいたことを書き残している。カジュラーホーが辺鄙な土地にあり、周りの森に囲まれていたことが、のちの戦乱で寺院が破壊されるのを免れた一因と考えられている。ただし、地元の人々にとって寺院は完全に忘れられた存在ではなく、祈りの場として使われ続けたものもあった。
1838年、イギリスの軍の技師バートが、土地の人々の案内でカジュラーホーの寺院を訪れ、その記録を残した。これが外の世界への「再発見」とされる。その後、イギリスの考古学者カニンガムらが寺院群を調査し、修復が進められた。1986年に世界遺産に登録され、今ではインドを代表する観光地の一つになっている。毎年春には寺院を背景にインドの古典舞踊の祭りが開かれ、石に刻まれた踊り手たちの前で、生身の踊り手が舞っている。