概要
作品10の12曲。それまでの練習曲は指を鍛えるための練習用の楽譜で、演奏会にはかけなかった。ショパンは、一つの技術的な課題(分散和音、黒鍵、三度、オクターヴ)を、そのまま一つの音楽にした。第12番「革命」は、ワルシャワ蜂起がロシアに潰された知らせを、シュトゥットガルトで聞いた頃の作とされる。彼は二度と祖国に帰らず、パリで死んだ。心臓だけがワルシャワの教会の柱に納められている。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
フレデリック・ショパンAD1810年3月1日–AD1849年10月17日 · 書いた本文
練習曲(エチュード)。18世紀から19世紀初め、指を鍛えるための曲集は数多くあった(クレメンティ、チェルニー)。それは楽器の練習室で弾くもので、演奏会でかけるものではなかった。
ショパンの作品10(12曲、1829〜32年作、1833年出版、リストに献呈)と作品25(12曲、1832〜36年作、1837年出版、マリー・ダグー伯爵夫人に献呈)。
一つ一つが、一つの技術的な課題に取り組んでいる。同時に、それが、そのまま一つの音楽になっている。
作品10-1。ハ長調。右手が、10度以上に開いた分散和音を、鍵盤の端から端まで駆け上がり、駆け下りる。手を大きく開いたまま動かす。「聖堂のアーチ」と呼ばれる。
10-2。イ短調。右手の3・4・5の指(弱い指)だけで、半音階を弾き続ける。同時に1・2の指で内声の和音を押さえる。
10-3。ホ長調。「別れの曲」(映画の邦題から。ショパン自身は「私はこれほど美しい旋律を、これまで書いたことがない」と弟子に言った、と伝わる)。ただし中間部は、両手の6度の連続で、難所。
10-5。「黒鍵」。右手が、黒鍵だけを弾く。
10-12。ハ短調。「革命」。左手が、低音から駆け上がり、駆け下りる、絶え間ない16分音符。右手が上で叫ぶ。
「革命」の名は、ショパン自身がつけたものではない(リストがつけた、と言われる)。1831年9月、彼はウィーンからパリへ向かう途中、シュトゥットガルトで、ワルシャワがロシア軍に陥落したという知らせを受けた。そのときの手記が残っている。
「ああ、神よ、あなたはいるのか。いるのに、復讐しないのか。……モスクワ人の罪は、まだ足りないのか。……父よ、母よ、妹たちは。あるいは、もういないのか。……私はここで、何もできず、素手で、ただ呻いている。……ピアノに、苦しみを吐き出す」。
この作品が、その日に書かれたという証拠はない。しかし、1830年から31年の間の作である。
作品25-11。イ短調。「木枯らし」。右手が、休みなく下降する半音階の奔流。左手が行進曲の主題を刻む。
25-12。「大洋」。両手が同じ分散和音を、上下に往復する。
弾き方について。ショパンは、指の強さを揃えようとする当時の教則法に反対した。「各々の指は、それぞれ違う形と力を持っている。それを均一にしようとするのは無駄で、有害だ。むしろ、その違いを生かせ」。彼の未完の教則本の断片に、そう書かれている。
彼の生涯。1810年、ワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォラ。父ニコラはフランスからポーランドへ来た家庭教師、母は没落貴族の縁者。7歳でポロネーズを出版、8歳で公開演奏。ワルシャワ音楽院。
1830年11月2日、20歳、ウィーンへ発った。友人たちが、ポーランドの土を詰めた銀の杯を贈った。11月29日、ワルシャワで蜂起。彼は帰るべきかを悩み、留まった。蜂起は1831年9月に潰された。以後、彼は二度と祖国の地を踏まなかった。
パリ。1831年から18年。演奏会を嫌った(生涯の公開演奏会は30回ほど。「群衆が怖い。彼らの息が私を窒息させる」)。貴族のサロンで、少人数の前で弾いた。生活は、貴族の令嬢へのレッスン(1時間20フラン、当時としては非常に高い)で立てた。
ジョルジュ・サンド(作家、男装、6歳年上)と1838年から9年。マヨルカ島の冬(廃修道院で、雨と、喀血。そこで24の前奏曲を仕上げた)。ノアンの夏。1847年、破局(サンドの娘をめぐる家族の争いから)。
1848年、革命の年、イギリスとスコットランドへ。演奏して、疲れた。
1849年10月17日、パリ、ヴァンドーム広場12番地。結核。39歳。
心臓。姉ルドヴィカが、彼の望みで、心臓を取り出してアルコールの壺に入れ、コートの下に隠してワルシャワへ運んだ。聖十字架教会の柱の中に納められている。第二次大戦中、ドイツ軍が持ち去り、戦後に戻された。2014年の調査で、結核の痕跡が確認された。
体は、ペール・ラシェーズ墓地。棺に、あの銀の杯のポーランドの土が撒かれた。