兵馬俑

概要
等身大の兵士8000体が、皇帝の陵の東を守っている。一体ずつ顔が違う。1974年、井戸を掘った農民が見つけた。陵そのものはまだ開けられていない。
場所
34.38°N 109.28°E · 中国・陝西省西安市
本文
紀元前246年、のちの始皇帝、秦の王の政は、13歳で王位についた。中国の王は、即位するとすぐに自分の陵を造り始めるのが習いだった。政の陵も、都の咸陽から渭水を隔てた驪山のふもとで工事が始まる。25年後、政は六つの国を滅ぼして中国を一つにし(秦の中国統一)、最初の皇帝を名乗った。陵の工事は、統一の後に一気に大きくなった。
司馬遷の『史記』(『史記』の完成)は、天下から70万人あまりの刑徒を集めて働かせたと書く。三つの地下水脈を掘り抜くほど深く掘り、銅を流して棺を据え、宮殿と百官の模型を並べ、珍しい宝物で満たした。盗掘する者を射るよう、仕掛けの弩を備えた。水銀で百の川と大河と海を作り、機械で流れめぐらせた。天井には天の星を、床には地の形を表した。人魚の脂で灯をともし、いつまでも消えないようにした、とも書く。

紀元前210年、始皇帝は東方を巡る旅の途中で死んだ。都に運ばれて陵に葬られたとき、子のない後宮の女たちは殉死させられ、墓の中の仕掛けを知る工匠たちは、閉じ込められたまま入口をふさがれた、と『史記』は伝える。陵の工事は、即位から数えて37年に及んだ。その翌年には陳勝・呉広の乱が起こり、秦は皇帝の死から4年ほどで滅びる。
時代はくだって1974年3月、日照りの続く西安の東、臨潼の村で、農民たちが井戸を掘っていた。数メートル掘ったところで、陶器の破片が出た。焼き物の頭、腕、胴。人の形をしていた。知らせを受けた考古学者たちが掘り広げると、地下に、等身大の兵士の像が隊列を組んで並んでいた。陵の盛り土から東へ1.5kmほど離れた場所だった。
最初に見つかった1号坑は、長さ230メートルほどの長方形の坑で、そこだけで6000体ほどの兵士と馬がいると推定されている。続いて、騎兵と戦車を中心とする2号坑、司令部にあたる小さな3号坑が見つかった。合わせて8000体ほど。歩兵、弓兵、騎兵、御者、将軍がそれぞれの役に応じた服と髪形をし、本物の青銅の剣や矛、弩を手にしていた。4号坑は掘られただけで空のまま残されており、秦の滅亡で工事が止まったものと見られている。
像は一体ずつ顔が違う。といっても、すべてを一から作ったわけではない。胴、腕、脚、頭は、いくつかの型を組み合わせて作り、そこに粘土を足して、眉やひげ、髪の結い方、表情を一体ずつ仕上げた。鎧や体格の違う兵士がこれほど大量に作られた背景には、部品を規格化し、工房ごとに分業させる仕組みがあった。像の多くには、作った工房の長や職人の名が刻まれている。仕事の出来を責任者までさかのぼって問える仕組みで、度量衡や文字をそろえた秦の統治(度量衡と文字の統一)の手つきが、ここにも表れている。

もとは鮮やかに彩色されていた。黒い漆を下地に塗り、その上に赤、緑、青、紫などの顔料を重ねている。中には、中国で人工的に作られた珍しい紫の顔料も使われていた。ところが、2000年以上湿った土の中にあった漆は、掘り出されて乾いた空気に触れると、数分で縮れて剥がれてしまう。発掘の初期に、多くの色が失われた。彩色を守る技術が整うまで、発掘はいまも少しずつしか進められていない。
青銅の剣は、掘り出されたとき、錆びずに輝いていたという。1970年代に、表面にクロムの皮膜があり、秦が錆止めの技術を持っていたのだという説が広まった。2019年の研究では、クロムは剣の柄に塗られた漆に由来するもので、意図したものではないとされた。保存のよさは、土の性質と青銅の配合によると考えられている。

坑の中の像は、多くが倒れて壊れた状態で見つかった。坑の屋根を支えていた木の梁には焼けた跡がある。秦の滅亡後、都に入った項羽の軍が秦の宮殿を焼いたことは『史記』にあり、そのときこの坑も荒らされ、火をかけられたのではないかと考えられているが、確かではない。
陵そのものは、まだ開けられていない。地中の調査では、盛り土の中から周囲よりはるかに高い濃度の水銀が検出された。『史記』の水銀の川と海は、誇張ではなかったのかもしれない。地下宮殿の位置や大きさも探査でおおよそ分かってきたが、中の品々を傷めずに掘る技術が無いことと、水銀の害もあって、発掘は見送られている。

兵馬俑の軍は、東を向いている。秦が滅ぼした六国は、いずれも秦の東にあった。死んだ皇帝を、東からの敵から守るための軍だと考えられている。1987年に世界遺産となり、いまでは中国を代表する遺跡として、毎年数百万の人が訪れる。