人物

フェラ・クティ

Fela Kuti
AD1938年10月15日 – AD1997年8月2日(享年58)
ナイジェリア重要度 3

概要

アフロビートを作り、軍事政権を歌で名指しした。自宅を独立国と宣言し、軍に焼き討ちされている。

関わったできごと(1)

カラクタ共和国の焼き討ちAD1977年2月18日 · 焼かれた側

本文

1938年10月15日、ナイジェリア南西部の町アベオクタに生まれた。父は英国国教会の牧師で、学校の校長を務めたヨルバ人の教育者だった。母のフンミラヨ・ランサム=クティは、女性の権利を求める運動の指導者として知られ、植民地の時代に女性への課税に反対する大規模な抗議を率いた人である。社会と闘う姿を、家の中で見て育った。

フェラ・クティ(1986年頃)
フェラ・クティ(1986年頃)Wikimedia Commons Distributed by Celluloid Records · Public domain

1958年、医学を学ぶためにロンドンへ送られた。だが彼はトリニティ音楽大学に入り直し、トランペットと作曲を学んだ。ロンドンのジャズの店に出入りし、仲間とバンドを組んでいる。1960年、アフリカの年と呼ばれたこの年に、ナイジェリアも独立した。帰国したフェラは、西アフリカで流行していたハイライフという踊りの音楽とジャズを混ぜたバンドを率いたが、なかなか受け入れられなかった。

転機は1969年のアメリカ行きだった。ロサンゼルスで、黒人の権利を求める運動に関わっていた女性サンドラ・スミスと出会い、マルコムXの自伝を読み、アメリカの黒人たちの闘いを知った。自分はアフリカの音楽を知らなかった、と彼はのちに振り返っている。この旅のあと、バンドの名をアフリカ70と変え、音楽も歌う中身も変わった。ガーナのクワメ・エンクルマが説いた、アフリカは一つになるべきだという考えにも、彼は強く惹かれていく。

ランソーム=クティ一家(1940年頃)
ランソーム=クティ一家(1940年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アフロビートと呼ばれるようになる音楽である。ヨルバの打楽器とハイライフの響きに、ジェイムズ・ブラウンのファンクの反復するリズムと、ジャズの即興を重ねた。何十人もの奏者が同じリズムを重ね、管楽器が吠え、一曲が20分を超える。歌詞はピジン英語で書いた。ヨルバ語ではナイジェリアの外や、ほかの民族に届かない。学校で習う標準の英語では、国内の多くの人に届かない。西アフリカの市場や街角で通じる言葉を選んだ。

内容は、そのまま政治だった。1966年のクーデター以後、ナイジェリアはビアフラ戦争をはさんで軍の支配が続いていた。フェラは、軍人の腐敗、警察の暴力、西洋をまねる知識人、国の富を外国の企業に渡す政治家を、曲の中で名指しで笑った。1976年の「ゾンビ」は、命令に従って歩くだけの兵士をゾンビにたとえた曲で、大流行した。

フェラ・クティの息子フェミ・クティ
フェラ・クティの息子フェミ・クティWikimedia Commons Tom Beetz @ http://home.hetnet.nl/~tbeetz/index.html · CC BY 2.0

ラゴスの自宅の一帯を「カラクタ共和国」と名付け、軍の政府には従わない独立国だと宣言した。そこにはバンドの仲間や家族、身を寄せた若者たちが暮らし、録音のスタジオも診療所もあった。演奏の場「シュライン」では、毎晩のように彼が政府を罵った。

1977年2月、およそ1000人の兵士がカラクタ共和国に押し入り、建物を焼き払った。フェラは激しく殴られ、多くの住人が暴行を受けた。70代の母親は2階の窓から投げ落とされ、その傷がもとで翌年に亡くなった。政府の調査は、兵士の暴行を「身元不明の兵士」の仕業として片づけた。フェラは母の棺を、軍の最高指導者がいる兵営の門の前まで運んで置いた。そしてその出来事を「元首のための棺」という曲にした。

ラゴスの「ニュー・アフリカ・シュライン」
ラゴスの「ニュー・アフリカ・シュライン」Wikimedia Commons User:Kaizenify · Public domain

その後も弾圧は続いた。数えきれないほど逮捕され、その数は200回を超えるとも言われる。1984年には外貨の持ち出しの罪で5年の刑を受け、国際的な人権団体が彼を良心の囚人として釈放を求めた。2年足らずで釈放されている。自分の政党を作って大統領選挙に出ようとしたが、立候補は認められなかった。私生活でも型破りで、1978年には一度の式で27人の女性と結婚している。

1997年8月2日、ラゴスで死去した。58歳。兄で元保健大臣の医師オリコエは、死因がエイズに関わる病だったことを公表した。エイズについて語ることがはばかられていた国で、その公表は大きな波紋を呼んだ。葬儀には100万人とも言われる人々が集まった。

息子のフェミとシェウンはいまも父の音楽を受け継ぎ、アフロビートは世界中の音楽家に影響を与え続けている。独裁と闘った音楽家であり、同時に女性観などで批判も受ける人物だった。その矛盾も含めて、フェラはアフリカの独立のあとに来た時代の、怒りと誇りを歌った。

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