夏目漱石『吾輩は猫である』

概要
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。英語教師が神経衰弱の気晴らしに書いた話が『ホトトギス』に載り、続きを求められて11回続いた。37歳。2年後に東京帝大を辞めて朝日新聞に入る。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
夏目漱石AD1867年2月9日–AD1916年12月9日 · 作者本文
1903年1月、夏目金之助は2年あまりのイギリス留学から帰国した。ロンドンでは下宿にこもって英文学を読み続け、神経を病んだ。夏目が発狂したという噂が日本の文部省にまで届いたと伝えられる。帰国した金之助は、東京帝国大学の英文科と第一高等学校の講師になった。帝大での前任は、学生に慕われていた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)である。学生たちはハーンを辞めさせた大学に反発し、新しい講師の理屈っぽい講義に不満を漏らした。
同じ年の5月、一高の教え子の藤村操が、日光の華厳の滝に身を投げた。滝の上の木には、世界の真相は「不可解」の一語に尽きる、と書き残されていた。金之助はその数日前、予習をしてこなかった藤村を教室で叱っていた。自分の叱責が死の引き金になったのではないかと、金之助は気に病んだという。家では妻の鏡子とのいさかいが続き、神経の具合は再び悪くなった。

そのころ、千駄木の夏目家に、一匹の黒い子猫が迷い込んだ。鏡子は猫が嫌いで何度も追い出したが、猫は戻ってくる。出入りの按摩の老女が、この猫は爪の先まで黒い福猫だから飼えば家が栄えると言い、そのまま飼われることになった。名前は付けられなかった。
金之助に小説を書くことを勧めたのは、俳句の仲間の高浜虚子だった。亡き正岡子規が育てた俳句雑誌『ホトトギス』は、子規の死後、虚子が引き継いでいた。仲間たちは「山会」という集まりで、見たままを書く写生文を持ち寄って読み合っていた。1904年の暮れ、金之助は一編の文章を書いて虚子に渡した。虚子が山会で読み上げると、座は笑いに包まれた。金之助は題を「猫伝」としていたが、虚子が書き出しの一句をそのまま題にすることを勧めたと伝えられる。

1905年1月1日発行の『ホトトギス』に、「吾輩は猫である」は漱石の名で載った。名前はまだ無い、どこで生れたかとんと見当がつかぬ、と猫が名乗りを上げる書き出しである。語り手の猫は、中学の英語教師である苦沙弥先生の家に住みつき、主人とその家に集まる人々を冷ややかに観察する。胃が弱く、何をやっても長続きしない主人。でたらめな話で人をかつぐ美学者の迷亭。ガラス玉を磨き続ける理学者の寒月。苦沙弥の家を見下す実業家の金田とその妻。苦沙弥には漱石自身が、寒月には漱石の教え子で物理学者になる寺田寅彦が、半ば重ねられているとされる。
一回で終わるはずだった話は評判を呼び、虚子に続きを求められて書き継がれた。連載は1906年8月まで11回に及び、本は上中下の3冊で刊行された。筋らしい筋は無い。猫の目を借りて、明治の知識人のもったいぶった議論や、金持ちの俗物ぶりや、文明開化の滑稽さを笑い飛ばす。最後に猫は、客の飲み残したビールに酔い、水甕に落ちて溺れ死ぬ。南無阿弥陀仏とつぶやきながら沈んでいく結末は、笑いの話を静かな諦めで閉じている。

満37歳で書き始めたこの作品で、金之助は作家漱石になった。連載のあいだにも筆は止まらず、1906年には『夏目漱石『坊っちゃん』』を短いあいだに書き上げ、『草枕』を発表した。1907年、漱石は帝大の職を辞め、朝日新聞社に専属の小説記者として入った。大学教授の地位を捨てて新聞屋になることは世間を驚かせたが、漱石は「入社の辞」で、新聞屋が商売なら大学屋も商売だと書いて、世間の見方をひっくり返してみせた。以後、死ぬまでの10年足らずのあいだに、『三四郎』『それから』『夏目漱石『こころ』』などの長編を新聞に書き続けることになる。
モデルの黒猫は、1908年9月に死んだ。漱石は裏庭に猫を葬って小さな墓標を立て、その裏に「此の下に稲妻起る宵あらん」の句を書いた。親しい人々には、猫の死亡通知のはがきまで出している。夏目漱石の作家としての出発点は、神経衰弱の気晴らしに、家に居着いた名も無い猫の目から人間を眺めることだった。嫌なものを笑って書くことが、漱石にとって一つの治療でもあった。