誰が書き残したか

概要
残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。
この物語について
その人が何を言ったかは、誰が書き残したかで決まる。書かれなかったことは、無かったことになってしまう。では、いま私たちが知っている歴史は、誰の筆を通って届いたのか。そして、何が残り、何が残らなかったのか。
この年表を作っていて、何度も同じところでつまずいた。調べようとした人物について、本人の書いたものが一行も無いことがある。あるのは、敵か、ずっと後の時代の人か、外国の役人が書いたものだけ、ということがよくある。
書くことは、はじめから記録のためだった。メソポタミアの最初の粘土板は、神殿の倉庫の麦やビールの出入りを記した帳簿である。中国の殷の王は、占いの問いと答えを亀の甲や牛の骨に刻んで埋めた。どちらも、のちの人に読ませるために書いたものではない。それが何千年後に掘り出され、王の名や暮らしの様子を伝えている。書かれたものの多くは、書いた人の思ってもいない形で後世に役立ってきた。
残るかどうかは、書かれたかどうかとも別になる。前7世紀のアッシリア王アッシュルバニパルは、自ら文字を読める王で、帝国じゅうから粘土板を集めさせた。前612年、都ニネヴェは攻め落とされ、宮殿は焼かれた(ニネヴェの図書館)。ところがその火で、粘土板は焼き固められて残った。紙や羊皮紙の書庫なら、その火で消えていた。19世紀に掘り出された粘土板の中から洪水の物語が読み解かれ、『ギルガメシュ叙事詩』の全体が知られるようになったのは、この火事のおかげでもある。

逆に、名高い作品が消えた例は数えきれない。レスボス島のサッポーは、古代には抒情詩人の筆頭とされたが、完全な形で残る詩はごくわずかで、ほかはエジプトの砂の中から出たパピルスの切れ端や、ほかの作家の引用の中にしかない。古代の書物が消えたのを焚書のせいだと語ることが多いが、パピルスは湿気に弱く、何度も書き写されなければ数百年で朽ちる。中世に写す価値があると思われなかったものは、それだけで消えていった。アレクサンドリアの数学者ヒュパティアは、415年に殺されたことで有名だが、本人の著作は一つも残っていない。
書き手の立場が、記録の色を決める。前1世紀の中国の司馬遷は、敗れた将軍を弁護したために皇帝の怒りを買い、宮刑を受けた。死を選ばずに屈辱に耐えたのは、父から託された歴史を書き上げるためだったと、彼は友への手紙に書いている(『史記』の完成)。その『史記』は、勝った者だけでなく、敗れた項羽や、刺客や商人にまで筆を割いた。一方、ギリシアのヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれると同時に、聞いた話を何でも書く「嘘の父」とも言われてきた。調べて書くという営みは、最初から、何を信じるかの判断と切り離せなかった。

60年ごろ、ブリタンニアのイケニ族の女王ブーディカはローマに反乱を起こした(ブーディカの反乱)。彼女が兵の前で行ったという演説は、いくつもの本に引かれている。だが書いたのはタキトゥスとカッシウス・ディオで、どちらもローマ人で、本人を見ていない。ディオは事件の百年以上後の人である。ブーディカ自身の言葉は、一つも残っていない。演説は、ローマの歴史家が、ローマの読者に向けて、反乱者に言わせた言葉である。
日本でも同じことが起きている。卑弥呼は中国の史書にだけ出てくる(卑弥呼の遣使)。3世紀の終わりに陳寿が書いた『三国志』の中の、魏の国の記録の一部である。『古事記』と『日本書紀』には、その名が無い。日本史で最初に名前の分かる人物が、外国の記録にしか存在しない。倭の五王も同じで、日本側の誰にあたるのかがいまも決まらない。そしてその『古事記』も、江戸時代の本居宣長が35年をかけて注釈を書くまで、読み方の分からない古い本だった。

消された例もある。前15世紀のエジプトで、ファラオとして20年あまり国を治めた女性ハトシェプストは、死後しばらくして、記念物から名前と姿を削られた。かつては、彼女に権力を握られていた継子トトメス3世の恨みと考えられていたが、削られたのは彼の治世の後半で、いまは王統の並びを整え、自分の子の継承を確かにするためだったとみる説が有力である。理由はどうあれ、削られたことで彼女は3000年忘れられ、19世紀に碑文が読めるようになってようやく姿を取り戻した。
誰が書いたかで、評価が決まることもある。690年の則天武后の即位によって、中国で女性としてただ一人の皇帝が生まれた。その武則天への酷評を書いたのは、後の時代の、儒教の規範を持つ男性の史官たちだった。残酷な逸話の中には、後から付け加えられたとみられるものもある。13世紀のデリーで即位した女性の君主ラズィーヤを高く評価した年代記作者さえ、彼女は王として必要なものをすべて備えていたが、女性に生まれたことだけが不運だった、という趣旨のことを書いている。清少納言も紫式部も、本名が伝わっていない。

偶然が記録を救うこともある。中国西端の敦煌の石窟では、11世紀ごろに一つの小部屋が塞がれ、1900年に道士の王円籙が見つけるまで、5万点ともいわれる経典や文書が眠っていた(敦煌の石窟の造営)。その多くはその後、イギリスやフランスなどの探検家に持ち出され、いまは世界中の図書館に分かれて収められている。東ローマの歴史家プロコピオスが皇帝夫妻を罵った『秘史』は、生前に公にされることなく、千年後の17世紀にヴァチカンの図書館で見つかって刊行された(プロコピオス『秘史』)。同じ人が、表向きの戦史では同じ皇帝を称えていた。
本人が書いたものが残る場合でも、何が書かれ、何が書かれないかには選択がある。藤原道長は自筆の日記を残した数少ない人の一人だが、「この世をば我が世とぞ思ふ」の歌を書き留めたのは本人ではなく、それを冷ややかに見ていた貴族の藤原実資の日記だった。人に読ませるつもりのなかった文章が残ることもある。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが陣中で自分に向けて書いた覚書は、『自省録』として二千年読まれている。

近い時代でも同じことが起きる。第二次世界大戦中、イギリスのブレッチリー・パークでドイツ軍の暗号エニグマを解いた人々は、1万人ほどにのぼった(エニグマの解読)。彼らは戦後30年ほど、家族にも仕事の中身を話せなかった。中心人物の一人チューリングは、その功績を公に語れないまま1954年に死んだ。ソ連のウクライナで1930年代に起きた大飢饉は、犠牲者の数そのものが長く伏せられた。南京で何人が死んだかは、いまも数字に大きな幅がある。天安門で何が起きたかは、その国の中で公に語ることができない。
アムステルダムの隠れ家で日記を書いていた少女アンネ・フランクは、1944年に連行され、翌年、強制収容所で死んだ。床に散らばった日記を拾い集め、戦後に父へ渡したのは、一家の潜伏を助けていた女性だった。もしその人が拾わなかったら、何百万人のうちの一人の声は、残らなかった。

年表は、残ったものだけで作られる。読める文字で、燃えにくい材料に書かれ、誰かに写す価値があると思われ、権力に消されなかったもの。その条件をくぐり抜けたものの陰には、書かれなかった声と、書かれても消えた声がある。ここに無いことが、無かったことではない。
この物語が起きた場所
筋(220)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 粘土のトークンできごとBC8000年頃西アジアの各地から、親指の先ほどの粘土の小片が大量に出る。円錐、球、円盤、四面体。羊一頭、油一壺というふうに、物の種類ごとに形が決まっていたと考えられている。やがてこれを中空の粘土の球に入れて封をし、円筒印章を転がした。中身が見えないので、外側に同じ数だけ印を押すようになる。すると球そのものが要らなくなり、平たい板に印を押すだけになった。数を表す記号が先にあり、物の名を表す記号は後から加わった。書くことは、数えることの副産物として始まった。ウルク
- 円筒印章できごとBC3400年頃石を円筒に削り、側面に図を彫る。粘土の上で転がすと、帯状の文様が連続して現れる。押した後で作り直せば、跡が乱れて分かる。壺の蓋を粘土で封じ、その上を転がせば、開けたかどうかが見える。文字が生まれる前から、これが所有と、取引の承認と、そして封印に使われた。図柄は個人と役職に固有で、事実上の署名である。首から下げ、死ぬと墓に入れた。閉じたことを示す技術のほうが、文字よりも、先にあった。ウルク
- 楔形文字の成立できごと紀元前32世紀最初の粘土板は倉庫の記録だった最初に書かれたのは詩でも法でもなく、麦とビールの帳簿だった。文字は数えるために生まれている。ウルク
- ウルのゲーム盤と骰子できごとBC2600年頃紀元前177年の粘土板が遊び方を書いていたウルの王墓から、貝殻と青金石を象嵌した盤が5面出土した。20の枡が十字に並ぶ。動かす数は、四面体の骰子で決める。ルールは長く不明だったが、大英博物館の学芸員が、紀元前177年の粘土板に書かれた遊び方の記述を解読して、復元した。同じ盤が、エジプトからインドまでの遺跡に出る。船乗りと商人が運んだ。人が最初に作った道具の中に、生きるためではないものが、これだけ古くからある。ウル

- 六十進法できごとBC2000年頃楔は二種類だけメソポタミアの数は60を単位にした。60は2、3、4、5、6、10、12、15、20、30で割り切れる。分けるのに都合がよい。粘土板に楔で刻む記号は二つだけで、縦の楔(1)と横向きの楔(10)を並べ、位置で桁を示す。位取りの考え方は、ここが最も古い。ゼロにあたる空位の記号は後から現れた。円を360度に、1時間を60分に、1分を60秒に分けるのは、この数の名残である。ウルク
- ビールとニンカシへの讃歌できごとBC1800年頃労働の対価としてのビール粘土板に書かれた、醸造の女神への讃歌。同時に、ビールの作り方の手順書でもある。大麦を発芽させ、パン(バッピル)に焼き、砕いて水に浸し、発酵させ、濾す。文字を持たない者でも、歌として覚えられる。当時、ビールは日常の飲み物であり、そして労働の対価だった。ウルクの粘土板に、労働者への配給として、日に一定量のビールが記録されている。ストローで飲む。濾しきれない殻を避けるためである。ウル
- 『死者の書』とミイラできごとBC1500年頃パピルスに書いて棺に納める正しくは「日のもとに現れ出る呪文」。死者が冥界を通り抜けるための呪文集で、パピルスに書いて棺に納めた。中心にあるのが心臓の計量である。死者の心臓が天秤の一方に、真理の女神の羽根が他方に置かれる。釣り合えば来世へ、傾けば怪物に食われて消える。生前の行いが死後を決めるという考え方が、ここに明確な形で現れている。体を残さねば魂が戻れないので、内臓を取り出し、ナトロンで乾かし、樹脂と布で包んだ。テーベ

- ハトシェプスト人物? – BC1458年頃死後に名を削られ、3000年忘れられた女性でファラオを名乗り、20年治めた。死後、その名は記念物から削り取られている。
- ウガリットの文字できごとBC1400年頃abcの順まで、いまと同じだった楔形文字の形で、30の音だけを表す文字が作られた。文字の数を音の数まで減らす発想が、フェニキア文字と並ぶもう一つの源流になる。ウガリット

- 盤庚の遷都できごとBC1300年頃薬屋の「竜骨」に文字が刻まれていた五度目の遷都で殷に落ち着き、以後273年動かなかった。だからこの王朝は殷と呼ばれる。その跡が殷墟で、甲骨文字はここから出た。殷墟
- 甲骨文字できごと紀元前13世紀占いの問いと答えを、骨に彫って埋めた亀の甲羅を焼いて割れ目で占い、問いと答えを彫りつけた。漢字はここから続いている。殷墟(安陽)

- メルネプタハ碑できごとBC1208年聖書の外で最古ラムセス2世の息子の戦勝碑に、「イスラエルは荒らされ、その種はない」。エジプトの記録に「イスラエル」が出てくる最初で、聖書の外で最も古い。民の名で、国の名ではない。碑はテーベの葬祭殿から1896年に出た。テーベ
- アルファベットの成立できごとBC11世紀頃書くことが専門職の手から離れる数百の記号を覚えなければ書けなかったものが、22の子音字で書けるようになった。書くことが書記の専門職から離れる。ギリシア文字もラテン文字もアラビア文字もヘブライ文字も、ここから枝分かれしている。ビブロス
- アヒラムの石棺できごとBC1000年頃アルファベットの分かれ道ビブロスの王の石棺の縁に、「この棺を開ける者に、王笏は折れ、玉座は覆る」とフェニキア文字で刻まれている。22文字のアルファベットで書かれた最古の長い文。ギリシア文字もラテン文字も、ここから100年か200年のうちに分かれた。ビブロス

- 共和できごとBC841年『史記』の年表がこの年から始まる暴君を民が追い出し、大臣が14年政治を執った。『史記』の年表がこの年から始まる。中国の歴史で、年が確かに分かる最初の年になる。鎬京(位置は特定されていない)

- メシャ碑できごとBC840年頃ベドウィンが火で割ったモアブの王が、自分の神ケモシュの助けでイスラエルの軛を脱いだと石に刻んだ。「オムリ」「イスラエル」「ヤハウェ」の名がある。列王記の裏側の記録。1868年に見つかり、ベドウィンが火で割った。破片をつないでルーヴルにある。ディボン
- シャルマネセル3世の黒いオベリスクできごとBC825年大英博物館アッシリア王が31年の遠征を黒い石に刻んだ。跪いて貢ぐ「オムリの子イエフ」。イスラエルの王が絵で残った唯一。象、猿、ラクダ。カルカルの戦いの相手だったアハブの後継者が、貢いでいる。大英博物館。カルフ(ニムルド)
- アッシュルバニパル人物BC685年頃 – BC627年頃読める王だった。集めさせた粘土板が火事で残る各地から粘土板を集めてニネヴェに図書館を作った。焼けた宮殿の中で粘土が焼き固まったおかげで、『ギルガメシュ叙事詩』はいま読める。
- ニネヴェの図書館できごとBC7世紀半ば宮殿が焼けたおかげで粘土板が残った各地から集めた粘土板3万点あまり。BC612年に宮殿が焼けたとき、粘土が焼き固まって残った。『ギルガメシュ叙事詩』が読めるのはこの火事のおかげになる。ニネヴェ

- サッポー人物BC630年頃 – BC570年頃完全な形で残る詩は一篇だけレスボス島の詩人。古代には九人の抒情詩人の筆頭に数えられたが、まとまった形で残っているのは一篇だけで、あとは断片しかない。
- ペルシアの駅伝できごとBC500年頃雪も雨も暑さも夜の闇もスーサからサルディスまで2500キロ。一日で行ける距離ごとに宿駅を置き、馬と人を待たせる。書簡が着けば、次の者が受け取って走る。ヘロドトスが書いている。「雪も雨も暑さも夜の闇も、定められた行程を全速で走り抜くことを妨げない」。徒歩なら90日の道を、1週間ほどで伝えたと推定される。帝国の広さは、命令が届く速さで決まる。この一文が、20世紀にニューヨークの中央郵便局(1914年開館)の壁に刻まれ、アメリカの郵便配達員の非公式の標語になった。スーサ
- ヘロドトス人物BC484年頃 – BC425年頃ペルシア戦争を書き残した「歴史の父」。見聞を集めて因果を語る形を作った。
- マハーヴィーラの入滅できごとBC468年頃いまも450万人クシャトリヤの家に生まれ、30歳で出家し、12年、裸で歩いて苦行した。「ジナ(勝者)」。教え。全ての生き物に霊魂がある。だから殺さない(アヒンサー)。水を漉し、夜は食べず、道を掃きながら歩き、口を布で覆う。世界は誰かが作ったのではなく、はじめから在る。真理は一つの立場からは言えない(アネーカーンタヴァーダ)。ブッダとほぼ同時代で、二人は会っていない。ジャイナ教は、いまもインドに450万人。パーヴァー
- ローマのケンススできごとBC443年頃5年ごとの申告5年ごとに、市民全員が名と年齢と財産を申告した。監督するのは監察官(ケンソル)。ここで決まるのは、どの階級に属し、どの部隊で戦い、どの投票区で何票を持つかである。数えることは、税と兵役と政治的な権利を同時に割り当てる行為だった。申告を怠れば、財産を没収され、奴隷に落とされることもあった。ケンソルは風紀も監督し、名簿から元老院議員を除くことができた。censor(検閲)の語はここから来る。ローマ
- ヘロドトス『歴史』できごとBC430年頃「調べたこと」を意味する語が、歴史という語になったなぜ戦争が起きたのかを調べて書いた最初の書。「歴史」という言葉の出所になる。ハリカルナッソス

- アンフィポリスの戦いできごとBC422年トゥキュディデスが追放されたトラキアの街をめぐって、スパルタのブラシダスとアテナイのクレオンが戦い、両方とも死んだ。戦争を続けたい二人が同じ日に消えて、翌年ニキアスの和約。アリストファネスは『平和』でその年を祝った。和約は6年しか持たなかった。アンフィポリス
- パーニニの文法できごとBC400年頃口で暗誦されたガンダーラの人が、サンスクリット語を3959の規則で記述した。『アシュターディヤーイー(八章)』。音から語の形成、文まで。規則は代数のように短く(メタ言語、省略、順序の優先)、口で暗誦された。2400年、誰もこれより正確な文法を書けなかった。19世紀のヨーロッパが読んで、比較言語学と、20世紀の生成文法とプログラミング言語の記法(バッカス・ナウア記法)が影響を受けた。タキシラ
- アレクサンドリアの図書館できごとBC3世紀集めるだけでなく、目録を作った。図書分類の始まりプトレマイオス朝の王たちは、世界中の書物を一か所に集めようとした。港に入る船はすべて臨検され、積んでいた巻物は没収されて写しが作られる。返されたのは写しのほうで、原本は図書館に残されたと伝えられる。アテナイから借りた悲劇の台本も、高額の保証金を捨てて返さなかったという。集めるだけでなく、整理もした。カリマコスは蔵書を分野と著者ごとに並べた目録を作り、これが図書目録の始まりとされる。焼失の時期も原因も一つに定まらない。むしろ、支援が細り、学者が去り、写しを取る人がいなくなって、少しずつ失われていった。アレクサンドリア
- 度量衡と文字の統一できごとBC221年同じ字で書けば方言が違っても通じる枡と秤と物差しを揃え、車の幅を揃え、文字を小篆に揃えた。国ごとに違っていたものを一つにする。方言が違っても同じ字で通じる、という中国の形がここで決まる。咸陽
- 兵馬俑できごとBC210年(始皇帝の死と埋葬)陵そのものはまだ開けられていない等身大の兵士8000体が、皇帝の陵の東を守っている。一体ずつ顔が違う。1974年、井戸を掘った農民が見つけた。陵そのものはまだ開けられていない。驪山(兵馬俑)

- ポリュビオス人物BC200年頃 – BC118年頃ギリシア人の歴史家。ポエニ戦争の同時代史料『歴史』を書いた。
- 司馬遷人物BC145年頃 – BC86年頃刑を受けてなお『史記』を書き上げた。紀伝体という書き方を作る。
- ポリュビオス『歴史』できごとBC140年頃人質として内側から見た者が書いたなぜローマが世界を制したのかを、人質として内側から見た者が分析した。ローマ
- マルクス・トゥッリウス・ティロ人物BC103年頃 – BC4年頃キケロ家の奴隷として生まれ、BC53年に解放された。以後、主人の姓を名乗る。秘書であり、書記であり、校正者であり、そして事実上の共同編集者だった。キケロの書簡と演説の多くは、彼が写し、整理し、死後に編纂したものである。速記の体系を作ったとされ、その記号はティロ式と呼ばれた。健康を害しやすく、キケロが心配する手紙が残っている。主人が殺された後も長く生き、伝記を書いたと伝えられるが、失われた。
- 『史記』の完成できごとBC91年頃刑を受けてでも書き上げた伝説の時代から同時代までを紀伝体で書いた。以後2000年の中国の歴史書の型になる。長安
- 塩鉄会議できごとBC81年朝廷の討論の記録が残った国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。長安
- ティロの速記できごとBC63年話された言葉が、その場で文字になった話す速さで書き取る方法である。キケロの解放奴隷マルクス・トゥッリウス・ティロが体系を作ったとされる。プルタルコスは、カティリナ弾劾に続く元老院の討論で、カトーの演説をこの方法で記録させたのが最初だと書く。約4,000の記号から始まり、中世には13,000にまで膨れた。ローマ帝国の元老院と裁判の記録は、これで取られた。中世の修道院でも使われ、そしてカロリング朝の後に廃れた。ただし ⁊ の記号だけは、アイルランド語の表記に、いまも残っている。ローマ
- 班昭人物AD45年頃 – AD117年頃最初の女性史家班彪の娘、班固と班超の妹。14歳で結婚し、早く寡婦になった。兄の『漢書』を完成させ、宮中で皇后と女官に教え、「曹大家」と呼ばれた。『女誡』を書いて、女性の従順を説いた。中国で最初の女性史家であり、女性への教訓の元でもある。
- 許慎人物AD58年頃 – AD148年頃9353字を540部に分けた『五経無双』と呼ばれた学者。9353字を540の部首に分け、六書で成り立ちを説いた。本は息子が121年に献上した。清の段玉裁の注で、二千年後に読み直された。
- ブーディカの反乱できごとAD60年演説とされる文章は、すべて敵側の筆によるローマの入植地を三つ焼いた。記録はすべてローマ側のもので、彼女自身の言葉は残っていない。カムロドゥヌム
- 『エリュトラー海案内記』できごとAD60年頃エジプトから紅海を出て、東アフリカとインドへ行く商人のための実用書。港ごとに売れる物と買える物が書かれている。季節風の使い方が広まった時期のもの。アレクサンドリア
- ブーディカ人物? – AD61年頃本人の言葉は一つも残っていないローマに反乱を起こしたブリテンの女王。ロンディニウムを焼いたが敗れ、自ら命を絶ったと伝わる。
- 『説文解字』できごとAD100年部首で引く仕組みの始まり許慎が9353字を540の部首に分け、字の成り立ちを説いた。部首で字を引くという仕組みが、ここで生まれた。以後の字書はすべてこの形を継ぐ。洛陽

- プルタルコス『対比列伝』できごとAD110年頃シェイクスピアの種ギリシア人とローマ人を一人ずつ並べて、23組。アレクサンドロスとカエサル、デモステネスとキケロ。「私は歴史でなく、生涯を書く」。小さな言葉と冗談に人柄を見た。シェイクスピアが4つの劇をここから取った。カイロネイア
- 『漢書』の完成できごとAD111年一つの王朝を一冊に班固が父の仕事を継いで20年書き、獄で死んだ。妹の班昭が「天文志」と「八表」を書き足して完成させた。前漢一代の歴史。『史記』の通史に対して、一つの王朝を一冊に。以後の正史は、すべてこの形になる。洛陽
- タキトゥス『年代記』できごとAD116年頃怒りも偏愛もなくティベリウスからネロまで。「私は怒りも偏愛もなく書く」と言って、皇帝たちを冷たく描いた。「彼らは荒野を作って、それを平和と呼ぶ」。ローマの歴史家の最高峰で、中世には一冊の写本で生き延びた。ローマ

- マルクス・アウレリウス人物121年4月26日 – 180年3月17日五賢帝の最後。北方の戦陣で自らへの覚え書き『自省録』を書いた。
- 『自省録』できごとAD170年頃人に読ませるつもりのない文章が残った北方の戦陣で皇帝が自分に向けて書いた覚え書き。公開するつもりのない文章が残った。

- 陳寿人物AD233年 – AD297年良史の才蜀の史官で、宦官に逆らって左遷され、晋に仕えて『三国志』を書いた。「良史の才」と言われ、「父の仇の子を貶めた」「米をもらえば伝を立てた」とも言われた。正史の中で最も短く、注が本文の倍ある。
- 卑弥呼の遣使できごとAD239年日本側に同時代の記録が無い魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を得た。日本の側に同時代の記録が無く、国の位置も墓も決着していない。邪馬台国(位置は特定されていない)
- 卑弥呼人物? – AD248年頃外国の記録にしか存在しない倭の女王。中国の史書にだけ記録が残り、その国がどこにあったのかは決着していない。
- 箸墓古墳できごとAD250年頃宮内庁が管理し掘れない奈良盆地の南東、纒向。全長280メートル、最初の巨大前方後円墳。『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫の墓と言い、「昼は人が作り、夜は神が作った」。2009年の年代測定で3世紀中頃。卑弥呼の死んだ頃。卑弥呼の墓と言う人と、違うと言う人。宮内庁が管理し、掘れない。箸墓古墳

- 陳寿『三国志』できごとAD285年頃倭人伝はその一部蜀に仕えて晋に仕えた史官が、魏・蜀・呉を65巻に書いた。魏を正統にし、蜀に「本紀」を立てなかった。倭人伝はその一部。130年後に裴松之が注を付けて倍にし、1100年後に小説になった。洛陽
- ヒュパティア人物AD355年頃 – AD415年アレクサンドリアの数学者・天文学者。街の宗教対立のなかで群衆に殺された。
- 敦煌の石窟の造営できごとAD366年(造営の始まり)塞がれた一室から5万点の文書が出た砂漠の縁の崖に千年かけて掘りつづけられた。20世紀にその一室から5万点の文書が出て、現存最古の印刷本『金剛般若経』(868年)もそこにあった。敦煌
- ソグド商人のネットワークできごと400年届かなかった手紙が、敦煌の砂から出たサマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
- ヒエロニムスのウルガタできごとAD405年ヘブライ語から直接ラテン語へベツレヘムの洞窟で20年、ヘブライ語から直接ラテン語に聖書を訳した。ギリシア語訳から重ねて訳す習慣を捨て、「ヘブライの真理」に戻った。以後1000年、西方の聖書はこれ一つだった。ベツレヘム
- 倭の五王できごと413年中国の史書にだけ名が残る讃・珍・済・興・武。中国の史書にだけ名が残り、日本側の史料の誰にあたるのかは決まっていない。平城京
- ヒュパティアの死できごとAD415年本人の著作は一つも残っていない数学者が街の宗教対立のなかで群衆に殺された。アレクサンドリアの学問の終わりの象徴として引かれる。アレクサンドリア
- ナーランダー僧院の創建できごとAD5世紀前半旅人の記録が、この大学を掘り当てた数千人が学ぶ、記録に残る最古級の大学になる。中国、朝鮮、チベット、スリランカから留学生が来た。玄奘も5年ここで学んでいる。ナーランダー
- 『文選』できごとAD530年頃700余りを選んだ梁の皇太子が、周から梁までの文章と詩を、130人、700余りに選んだ。30巻。経書と諸子と史書は除き、「文」だけ。唐で科挙の教科書になり、「文選爛、秀才半」。日本の『万葉集』と『枕草子』は、これを読んだ人が書いた。南京

- プロコピオス『秘史』できごとAD550年頃隠して書いた歴史皇帝の戦争を公式に書いた歴史家が、同じ皇帝と皇后を悪魔と娼婦として描く本を隠して書いた。1623年にヴァチカンで見つかった。同じ人が同じ時代を二通りに書いた、稀な例になる。コンスタンティノープル
- バーミヤンの大仏できごとAD600年頃2001年3月ヒンドゥークシュの谷の砂岩の崖に、高さ55メートルと38メートルの立像が彫られた。表面は泥と漆喰で成形され、顔と手は木の骨組みで作られ、金と朱で彩色されていた。玄奘が630年に見て「金色に輝き、宝飾が煌めく」と書いた。シルクロードの交易と、ギリシアとインドとイランの様式が混ざった場所。2001年3月、タリバンが爆薬で破壊した。空の窪みが残っている。バーミヤン
- 科挙の始まりできごとAD605年答案の名前を隠すそれまで官吏は、家柄と推薦で選ばれた。九品官人法の下で、有力な家が官職を世襲した。隋の文帝が推薦制を廃し、煬帝が進士科を置いた。試験の成績で選ぶ。唐で制度が整い、宋で決定的になった。宋代には、答案から名前を隠し(糊名)、筆跡で分からないよう書記が写し直した(謄録)。合格率は数千分の一。試験は3日3晩、独房のような号舎に籠って行われた。家柄でなく試験で人を選ぶという考え方は、ここから世界へ広がった。長安
- コルンバヌスのボッビオできごとAD614年薔薇の名前の元アイルランドの修道士が12人と大陸へ。リュクスイユ、ブレゲンツ、ボッビオ。王を叱り、教皇に手紙を書き、アイルランドの復活祭を守った。厳しい戒律。彼の弟子が100の修道院を作り、ボッビオは中世で最も本の多い図書館になった。『薔薇の名前』のモデルの一つとも言われる。ボッビオ
- 則天武后人物AD624年 – AD705年12月16日中国史上ただ一人、自ら皇帝を名乗った女性。科挙で人を登用し、後世の史書からは苛烈な評ばかりを受ける。
- ブラーマグプタのゼロできごとAD628年バグダードへ渡った『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』。ゼロを数として扱い、負の数(借金)を含む計算の規則を書いた最初の本。「ゼロを足しても引いても変わらない」「借金から借金を引くと財産になる」「ゼロで割ると……」(この最後だけ、彼は答えを出せなかった)。10進の位取りと、この規則が、8世紀にバグダードへ、12世紀にヨーロッパへ渡って、いまの数字になった。ビンマール(ビッラマーラ)
- イシドルス『語源』できごとAD630年頃1000の写本セビリアの司教が、古代の知識を全部、20巻に。文法、医学、法、神、動物、宇宙、船、道具、食べ物。「語の起源を知れば物が分かる」。ほとんどが誤りで、中世で最も読まれた本。1000の写本。「最後の教父」。インターネットの守護聖人。セビリャ
- 庚午年籍できごとAD670年永久保存を命じられた台帳白村江で敗れた天智天皇が、全国の民を戸ごとに登録させた。姓と名と年齢と続柄。これに基づいて口分田を配り、租庸調と兵役を課す。日本で最初の全国的な戸籍とされ、氏姓の根本台帳として永久保存が命じられた(のちに失われた)。数えられることは、土地を与えられることであり、同時に税と徴兵の名簿に載ることでもあった。逃亡した者を追う仕組みでもあり、8世紀の戸籍には、実態と合わない女性ばかりの戸が並ぶ(兵役逃れのための偽籍)。飛鳥
- ベーダ人物AD672年 – AD735年5月26日時の計算7歳で修道院に預けられ、60年、ジャロウで暮らした。『教会史』。「時の計算について」。復活祭の日を計算するために、暦と天文を書いた。「尊者」。ダンテが天国に置いた唯一のイングランド人。
- 則天武后の即位できごとAD690年評価の材料が、批判する側の筆にしかない中国史上ただ一人、女性が自ら皇帝を名乗った。国号を周と改め、15年治める。洛陽
- 大宝律令できごとAD701年(大宝元年)養老令の注釈から復元刑部親王と藤原不比等が唐の律令を手本に、律6巻、令11巻。二官八省、班田収授、租庸調、戸籍。年号「大宝」。日本が「日本」と名乗り、天皇が「天皇」と書かれ、法で国が動くようになった最初の年。律令そのものは残らず、養老令の注釈から復元されている。藤原京
- 『古事記』の完成できごとAD712年(和銅5年)本居宣長が35年天武天皇が稗田阿礼に誦習させた帝紀と旧辞を、太安万侶が4か月で書いた。3巻。神代から推古まで。「上巻は神、中巻は英雄、下巻は王」。漢字で日本語を書こうとして、「音と訓を混ぜた」。読めなかった。本居宣長が35年かけて読んだ。平城京
- リンディスファーンの福音書できごとAD715年頃アフガニスタンのラピスラズリが7世紀の島に届いていたケルトの渦巻きとゲルマンの組紐とローマの文字が一つの写本になった。一人の修道士が数年かけて書き、その名が奥書に残っている。リンディスファーン

- 『日本書紀』の完成できごとAD720年(養老4年)六国史の最初舎人親王が編んだ30巻と系図1巻。漢文。神代から持統まで。「一書に曰く」と異伝を並べた。年月日をつけた。「日本」の名で書かれた最初の史書。六国史の最初。『古事記』は読まれず、こちらが正史として1000年読まれた。平城京
- ヤシュチランのまぐさ石できごとAD724年頃大英博物館にあるウスマシンタ川の湾曲に建つマヤの都市。神殿の入口のまぐさ石に、王「盾ジャガー」と妃「シュック夫人」が彫られている。妃は棘のついた縄を舌に通し、血を紙に落として、香を焚いた煙の中から蛇が立ち上がり、その口から祖先の戦士が現れる。放血儀礼。王権は、痛みと血で、祖先とつながった。大英博物館にある。ヤシュチラン
- ベーダ『イングランド教会史』できごとAD731年ADが広まったノーサンブリアの修道士が、ローマの来襲からその年まで、5巻。「アングル人の教会史」。イングランドが一つの民だと最初に書いた本。年をキリスト生誕から数えた。「AD」が広まったのは彼から。生涯のほとんどを修道院で過ごした。死ぬ日までヨハネ福音書を訳していた。ジャロウ

- コパンの階段碑文できごとAD755年屈辱を書き直した石63段、2200の文字。マヤで最も長い碑文。コパンの16人の王の歴史。第15代の王が建てた。17年前、第13代の王が隣国キリグアに捕えられて首を斬られ、その屈辱を書き直した石。1世紀後、コパンは捨てられた。コパン
- 『万葉集』の成立できごとAD759年頃令和20巻、4500首。天皇から防人、遊女、乞食まで。大伴家持が最後の歌を759年に詠み、その後に編んだと考えられている。漢字の音で日本語を書いた「万葉仮名」。「令和」はこの本の梅の歌の序文から。読み方の研究は951年に梨壺の五人が訓をつけたことに始まり、鎌倉時代の仙覚の新点で固まる。平城京
- アーヘンの宮廷学校できごとAD782年いまのローマ字の小文字カール大帝がヨークからアルクィンを招き、宮廷に学校を置いた。古典の写本が集められ、読みやすい小文字の書体が作られた。いまのローマ字の小文字は、この書体から来ている。アーヘン
- 円仁人物AD794年 – AD864年最澄の弟子。最後の遣唐使で渡って9年半留まり、日記『入唐求法巡礼行記』を残した。帰って天台の座主になる。
- グレゴリオ聖歌の成立できごとAD800年頃記譜法が生まれた名はグレゴリウス1世(在位590〜604)に由来するが、彼が作ったのではない。カロリング朝が、フランク王国の礼拝をローマ式に統一しようとして、ローマの聖歌とガリアの聖歌が混ざり、9世紀に一つの体系になった。「聖霊が鳩の姿で教皇の耳に囁いた」という絵が、権威づけのために描かれた。単旋律、無伴奏、ラテン語、拍節がない。この膨大な旋律を覚えるために、記譜法が生まれた。パリ
- 円仁の入唐求法できごとAD838年9年半、毎日書いていた最後の遣唐使で渡り、9年半唐に留まった。日記に山と寺と役所と物価を書き、会昌の廃仏を目撃した。当時の唐を知る一級の記録になる。長安
- ストラスブールの誓いできごとAD842年2月14日フランス語の最古の文ルートヴィヒの兄弟が、長兄ロタールに対して同盟した。ルートヴィヒはロマンス語(古フランス語)で、シャルルは古高ドイツ語で、互いの兵に分かるように誓った。書き残されたフランス語の最古の文。翌年、ヴェルダンで帝国を三つに分けた。ストラスブール

- 紀貫之人物AD872年頃 – AD945年頃仮名序『古今和歌集』の編者で仮名序の作者。「力をも入れずして天地を動かし」。歌合の判者。土佐守の帰り道を女の振りで書いた『土佐日記』は仮名の日記の最初。「男もすなる日記といふものを」。歌は下手だと正岡子規に言われ、それから100年、擁護され続けている。
- 馮道人物AD882年 – AD954年五つの王朝に仕えた五つの王朝、十一人の皇帝に宰相として仕えた。「長楽老」と自称した。欧陽脩と司馬光は恥知らずと書いたが、その間に儒教の経典を木版で刊行させ、民を守った。印刷の歴史では大きな名になる。
- 遣唐使の中止できごとAD894年菅原道真が建議した。唐が衰え、航海の危険に見合わない、と。以後、日本は大陸の制度を写す段階から、自分の形を作る段階に入る。京都
- アル=マスウーディー人物AD896年頃 – AD956年バグダードに生まれ、インド・東アフリカ・カスピ海まで旅して『黄金の牧場』を書いた。歴史と地理を一冊に束ねた最初の人とされる。
- 『古今和歌集』できごとAD905年(延喜5年)21回続いた醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。京都

- 『黄金の牧場』できごとAD947年歴史と地理をひとつづきに書いた。東アフリカの海岸で象牙が中国へ運ばれることまで載っていて、当時の海の広さがそのまま分かる。バグダード
- 馮道の儒教経典刊行できごとAD953年木版の九経932年に始めて21年、九経を木版で刷って完成させた。国が経典を印刷した最初になる。五代の乱の中で、宰相が始めた事業が、王朝を四つ越えて終わった。開封
- 清少納言人物AD966年頃 – AD1025年頃本名が伝わらない『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
- 藤原道長人物AD966年 – AD1028年自筆の日記が残る数少ない例娘を次々と天皇に嫁がせ、摂関政治の頂点に立った。「この世をば」の歌で知られる。
- 紫式部人物AD973年頃 – AD1014年頃こちらも本名が伝わらない『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
- 『蜻蛉日記』できごとAD974年(天延2年)頃最古の女の日記藤原兼家の妻の一人が、結婚から21年を書いた。夫が来ない夜、他の女の家に行く車を数え、息子道綱を育て、「はかなき身の上」。女が自分の人生を自分で書いた最古の日記。『源氏物語』の30年前。作者の名は分からず「道綱母」。京都

- 宋の科挙と士大夫できごとAD1000年頃受験のための出版唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。開封
- 『ベーオウルフ』の写本できごとAD1000年頃火事で縁が焦げた古英語で3182行。デンマークの王の館を襲う怪物グレンデル、その母、そして50年後の竜。イェーアト族の英雄ベーオウルフが、素手で、剣で、そして竜と相打ちで死ぬ。異教の話を、キリスト教徒の詩人が書いた。写本は一つだけ(ノウェル写本)。1731年、コットン家の図書館の火事で縁が焦げた。1936年、トールキンが「怪物と批評家」で、これは歴史の史料でなく詩だ、と言った。ロンドン
- 『枕草子』できごとAD1002年頃書かれた宮廷の明るさは、意図して選ばれている好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。京都

- 摂関政治の頂点できごとAD1016年「この世をば」を記録したのは、ライバルの日記藤原氏が天皇の外戚として権を握った。この頃『源氏物語』が書かれる。京都
- グイードの記譜法できごとAD1025年頃楽譜アレッツォのベネディクト会士が、聖歌を覚えるのに10年かかる修道士のために、線の上に音符を置いた。4本の線(赤いF、黄色いC)。音の高さが、線と間で分かる。「ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」(聖ヨハネ賛歌の各行の最初の音節から)。「グイードの手」(指の関節で音を覚える)。教皇ヨハネス19世が呼んで、自分で聖歌を歌えた。音楽が、耳から目へ。楽譜。アレッツォ
- 西夏文字の制定できごとAD1036年国が滅びて文字が残った漢字に似て、漢字より画数の多い6000字を、皇帝の命で一度に作った。仏典と字書が訳され、20世紀に解読された。国が滅びて文字だけが残った例になる。興慶(銀川)
- 畢昇の活字できごとAD1045年頃漢字は数万種膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。開封
- 『更級日記』できごとAD1059年頃源氏物語を全巻菅原孝標の娘。13歳で上総から京へ。「物語を読みたい」と薬師仏に祈った。『源氏物語』を全巻もらって、昼も夜も読んだ。宮仕え、結婚、夫の死。50歳を過ぎて、少女の頃からの40年を書いた。物語に憧れた人生の、静かな終わり。京都

- アンナ・コムネナ人物AD1083年12月1日 – AD1153年頃十字軍を迎えた側から書いた皇女にして歴史家。父の治世を書いた『アレクシアス』は、十字軍を東側から見た同時代の記録になる。
- ドゥームズデイ・ブックできごとAD1086年1万3000の地名征服王が、イングランドの全部の土地と家畜と人を数えさせた。「牛一頭、豚一匹も漏らさず」。1万3000の地名。ラテン語で2冊。「最後の審判の日」のように、異議を言えないから、その名がついた。いまも国立公文書館にある。ウィンチェスター

- ウサーマ・イブン・ムンキズ人物AD1095年7月4日 – AD1188年敵と友人の両方として、相手を書き残した十字軍と戦い、十字軍と友人にもなったシリアの武人。90歳を過ぎて書いた回想録が、フランク人を内側から見た数少ない記録になっている。
- ヤークート・アル=ハマウィー人物AD1179年頃 – AD1229年モンゴルから逃げながら地名の事典を編んだギリシア人の奴隷として買われ、解放されて書物の商いをした。モンゴルの襲来から逃れながら、地名を引ける『諸国地誌』を編み上げる。
- ノートルダム楽派できごとAD1200年頃時間を書けるようになった建設中のノートルダム大聖堂で、レオニヌスとペロティヌスが、聖歌の上に別の声部を重ねた。オルガヌム。下の声部が一つの音を長く伸ばし、その上で新しい旋律が動く。声部は2つ、やがて3つ4つ。同時に鳴る音の関係を書き分ける必要から、音の長さを表す記譜法(モーダル記譜)が生まれた。西洋音楽が、時間を刻んで書けるものになった。石の建築と、音の建築が、同じ場所で同時に立ち上がった。パリ
- フィボナッチ『算盤の書』できごとAD1202年ゼロが来たピサの商人の子レオナルドは、父の任地である北アフリカのブジーで、アラビアの数字と計算法を学んだ。帰国して書いたこの本は、9つの数字と「ゼフィルム」(ゼロ)による筆算を、ヨーロッパの商人に教えるためのものだった。利息、両替、比例配分、そして有名なうさぎの問題(各項が前の二項の和になる数列)。ローマ数字とそろばんに代わって、紙の上で計算する方法が広まった。フィレンツェは1299年、帳簿での新数字の使用を一度は禁じている。ピサ
- ラズィーヤ人物AD1205年頃 – AD1240年10月15日デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺された。
- スノッリ『エッダ』できごとAD1220年頃200年後に書き留めたアイスランドの族長が、キリスト教から200年後に、北欧の神々の話を若い詩人のために書いた。オーディン、トール、ロキ、世界樹、ラグナロク。これがなければ、神話のほとんどが消えていた。書いた人は、ノルウェー王の命令で自宅の地下室で斬られた。レイクホルト

- スノッリ『ヘイムスクリングラ』できごとAD1230年頃世界の輪アイスランドの族長が、ノルウェーの王たちの歴史を、神話の時代から1177年まで書いた。「世界の輪」。詩人の詩を証拠にした。「詩は嘘をつけない。韻が壊れるから」。ハーラル美髪王も、オーラフ聖王も、ハラルド苛烈王も、彼の書いた姿で残っている。レイクホルト

- ラズィーヤの即位できごとAD1236年デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺される。デリー
- 公証人できごとAD13世紀商いが遠くまで伸びると、口約束では足りない。何を、いくらで、いつまでに、という取り決めを、あとから確かめられる形で残す必要が出る。北イタリアの都市では、公証人がその役を担った。当事者の前で文書を作り、決まった書式で記し、自分の帳簿に控えを残す。その控えは何十年も保管され、争いが起きれば証拠になる。ボローニャの大学は、この技術を教える課程を持っていた。契約を紙に固定し、第三者が保証する。信用が、人の顔から書類へ移っていく。ボローニャ
- イフェの頭像できごとAD12〜15世紀写実的な人の頭像が、銅合金とテラコッタで作られた。1910年に紹介されたとき、ヨーロッパの学者は古代ギリシアの影響だと考えた。そうではないと分かるまで数十年かかっている。イフェ
- ポルトラーノ海図できごとAD1300年頃32方位の線羊皮紙に、海岸線と港の名を書き、そこへ32方位の線を放射状に張り巡らせた海図。内陸は空白のことが多い。船乗りが実際に測った針路と距離の集積で、地中海の形は驚くほど正確である。最古の現存は1290年頃の「ピサ図」。ジェノヴァ、マヨルカ、ヴェネツィアが作った。理論から描いた地図ではなく、航海の経験を紙にしたもの。緯度も経度もない。羅針盤とセットで働いた。ジェノヴァ
- モンタイユーの異端審問できごと1318年弾圧の記録が、弾圧された側の暮らしを伝えるピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。モンタイユー
- イブン・バットゥータの旅できごとAD1325年帰ってから口述で書き取らせた巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。タンジール

- イブン・ハルドゥーン人物AD1332年 – AD1406年王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。歴史を法則で捉えようとした最初期の人。
- 『歴史序説』できごとAD1377年なぜ王朝は興り滅ぶのかを、法則として書こうとした王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。社会を法則で捉える試みとして、群を抜いて早い。トンブクトゥ

- 『直指』の印刷できごとAD1377年パリにある清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(フランスの駐朝公使コラン・ド・プランシーが集めて持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。清州
- 五山の制できごとAD1386年五山版足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。京都
- 訓民正音の頒布できごとAD1446年10月9日口と舌の形をかたどる世宗が28字の文字を作って公布した。序文。「国の語音、中国と異なり、文字と互いに通ぜず。ゆえに愚民、言わんと欲する所あれども、ついにその情を伸べ得ざる者多し。予、これを憐れみて、新たに二十八字を制る。人々をして易く習い、日々の用に便ならしめんと欲するのみ」。子音は発音するときの口と舌の形をかたどり、母音は天と地と人。両班は「漢字を捨てるのか」と反対した。漢城(ソウル)
- キープできごとAD15世紀インカには文字がなかったと言われるが、記録は膨大にあった。主縄から何十本もの副縄を垂らし、そこに結び目を作る。結びの位置が桁を、形が数を表し、十進法で記す。ゼロは、その桁に結び目を作らないことで示した。色と撚りの向きも情報を持つ。倉の中身、人口、労役の割り当てが、これで管理された。読み書きする専門職がいて、駅伝の走者が運んだ。スペイン人は当初これを証拠として法廷で認め、後に偶像崇拝として焼いた。数の部分は解けたが、物語を記したとされる縄は、いまも読めない。クスコ
- 複式簿記の刊行できごとAD1494年会社が計算の単位にルカ・パチョーリの『算術・幾何・比および比例全書』の中の27ページ。ヴェネツィアの商人が200年使ってきた記帳法を、初めて印刷した。借方と貸方、日記帳・仕訳帳・元帳、そして「貸借が合わなければ、どこかが間違っている」。ゲーテは「人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つ」と言った。会社が、持ち主から独立した「一つの計算の単位」になった。ヴェネツィア
- マキャヴェッリ『君主論』できごとAD1513年死後に刊行され禁書にフィレンツェ共和国の書記官が、メディチ家の復帰で職を失い、拷問を受け、郊外の農場に追われた。夜、汚れた仕事着を脱いで正装に着替え、書斎で古人と語る、と友人に書いた。4か月で書いた。君主は、愛されるより恐れられるほうがよい。必要なら約束を破る。運命は女で、大胆な者に従う。復職のためにメディチに献じたが、読まれなかった。死後5年で刊行され、禁書になり、以後500年、読まれ続けている。フィレンツェ
- メノッキオ(ドメニコ・スカンデッラ)人物AD1532年 – AD1599年北イタリアの村の粉挽き。世界は腐ったチーズから生まれ、天使は蛆虫のように湧いたと語り、二度の異端審問のすえ火刑になった。
- 押し葉標本できごとAD1550年頃ボローニャの医学者ルカ・ギーニが、植物を紙の間で乾かし、貼り付けて綴じる方法を広めた。生きた植物は季節と場所に縛られるが、乾いた標本は運べて、何百年も残る。誰かが記した名と、実物とを、後から突き合わせられる。これが分類学の物質的な土台になった。世界の標本庫に、いま推定で三億九千万点以上が収蔵されている。近年は、その葉から古いDNAが読まれ、当時の大気の組成や病原体の痕跡まで調べられるようになった。ボローニャ
- 太閤検地できごとAD1582年(天正10年)〜耕作者の名前を登録秀吉が全国の田畑を、統一した竿(6尺3寸)と枡(京枡)で測り、等級をつけ、石高で表し、耕作者の名前を登録した。荘園の重なった権利は消え、土地は一人の耕作者と一人の領主のものになった。大名の石高が軍役の基準になり、農民は土地に縛られた。中世が終わって、近世が始まった帳簿。京都
- メノッキオの異端審問できごと1584年記録に残らないはずの人が、大量の言葉を残した村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。本を読み、自分で考え直した男の宇宙論が、審問の記録に残った。二度目の審問のあと火刑になる。フリウリ(モンテレアーレ)
- 二度に分かれた眠りできごとAD1600年頃日記と裁判記録から集めた近代以前のヨーロッパで、人は夜、二度に分けて眠っていた。歴史家ロジャー・イーカーチが、日記、裁判の記録、医学書、そして文学から、数百の言及を集めた。日没後まもなく眠り、真夜中に一時間ほど目覚める。その時間に、祈り、語り、繕いものをし、隣家を訪ね、そして子を作った。医学書は、この覚醒を眠りの自然な一部として扱っている。18世紀以降、街の照明と夜の娯楽と労働時間の固定が、この習慣を消した。いま、夜中に目が覚めることは、不眠として扱われる。ロンドン
- 『星界の報告』できごとAD1610年3月13日24ページの小冊子オランダで作られた覗き眼鏡の噂を聞いて、ガリレオは自分で作り、倍率を20倍以上に上げた。そして、空へ向けた。月に山と谷があった。天の川は無数の星の集まりだった。木星に、四つの星が付き従っていた。それらは、木星の周りを回っていた。地球以外のものを中心に回る天体が、確かに存在する。24ページの小冊子を、彼は数か月で書いて出した。550部は、すぐ売り切れた。道具が、宇宙の見え方を変えた最初の例である。パドヴァ
- 徳川光圀人物AD1628年7月11日 – AD1701年1月14日関東から出ていない家康の孫、水戸藩2代。18歳で『史記』の伯夷伝を読んで志を立てた、と言う。『大日本史』。朱舜水。兄の子を跡継ぎにして、自分の子を兄の家に。ラーメンを日本で最初に食べた、と言われる。「水戸黄門」の漫遊は講談で、関東から出たことがない。「梅里」。
- 『大日本史』の編纂開始できごとAD1657年(明暦3年)250年徳川光圀が江戸駒込の別邸に史局を置いて、神武天皇から後小松天皇まで、紀伝体で。明の遺臣朱舜水を招いた。250年。1906年に完成、397巻。大友皇子を天皇に、神功皇后を后妃に、南朝を正統に。この三つの判断から水戸学が出て、幕末の尊王が出た。作った家が、倒される側になった。水戸
- 新井白石人物AD1657年3月24日 – AD1725年6月29日読史余論浪人の子。3歳で字を書いた。木下順庵に学び、甲府の徳川綱豊(のちの家宣)に仕えた。家宣が将軍になって、正徳の治。密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問して『西洋紀聞』『采覧異言』。『読史余論』で武家の政権交代を9段階に分けた。『折たく柴の記』は日本で最初の自伝の一つ。吉宗に追われ、本を書いて死んだ。
- 書いた人の権利できごとAD1710年印刷が始まってから二百年、本の権利を持っていたのは書いた人ではなく、出版の組合だった。組合が登録した者だけが刷れる仕組みで、王にとっては検閲の道具でもある。その独占が切れたとき、議会が新しい法を作った。1710年のこの法は、権利の持ち主を著者だと書いた最初の法とされる。期限も決めた。十四年、生きていればもう十四年。それを過ぎれば誰でも刷ってよい。永久ではないことが肝心だった。書いた人に報いることと、知識を世の中に返すことを、期限で折り合わせる。いまの著作権の骨組みは、ここでできた。ロンドン
- 康熙字典できごとAD1716年康熙帝が編纂を命じ、三十人の学者が六年で仕上げた。収録は47,035字。部首を214に整理し、画数の順に並べる。この配列が、以後の漢字の辞書の標準になった。日本の漢和辞典も、これに従っている。各字に、反切による発音と、古い辞書からの引用を、時代順に並べた。誤りも多く、後に王引之が2,588か所の訂正を命じられている。皇帝が編纂を主宰することで、文字そのものが国家の管理下に置かれた。異体字の整理は、同時に、標準の制定である。北京
- 堂島の米市場できごとAD1730年ローソク足大坂には諸藩の蔵屋敷が100以上あり、年貢米が集まった。米切手(米の引換券)が売買され、やがて、現物の受け渡しをせず、期日の値段の差額だけを決済する取引が生まれた。1730年、幕府が公認した。帳合米商い。世界で最初の、組織された先物市場とされる。値段は飛脚と旗振り信号で全国へ伝えられ、江戸まで数時間で届いた。相場の記録から、ローソク足の図が生まれた。堂島(大坂)

- ホガース『放蕩一代記』できごとAD1735年版画の著作権法8枚の絵と版画。遺産を継いだ若者が、放蕩し、娼婦と、賭博と、監獄と、精神病院ベドラムで裸で終わる。「近代的な道徳の主題」。版画は安く、海賊版が出て、ホガースは議会に版画の著作権法を作らせた(1735年、「ホガース法」)。ロンドンの街の顔。ジン横丁。絵で語る物語。漫画の祖父。ロンドン
- エドワード・ギボン人物AD1737年5月8日 – AD1794年1月16日ローマの廃墟で托鉢僧の晩祷を聞いて、衰亡史を書こうと決めたと自伝にある。20年かけて全6巻。史料に脚注を付けて書く歴史の型を作った。
- カシニのフランス測量図できごとAD1744年四代80年の事業一つの国の全土を、三角測量で測って地図にする。世界で最初の試みである。カシニ家が四代、およそ80年をかけた。基線を精密に測り、そこから三角形を連ねて、全国に骨組みを張る。結果は、意外なものだった。フランスは、それまで思われていたより小さかった。ルイ14世が「私は、敵に奪われたより多くの領土を、あなた方の測量に奪われた」と言ったと伝えられる。革命政府がこの図を接収し、軍が使い、そして各国が真似た。国家が自国の形を正確に知る、最初の道具になった。パリ
- 誰でも入れる博物館できごとAD1753年王の陳列室ではなく、国のものとして誰でも入れる医師ハンス・スローンは、生涯に七万点を超える標本と書物と骨董を集めた。死に際して、国が二万ポンドを遺族に払うなら国に譲る、と遺言する。議会はくじの収益でその金を作り、1753年、博物館を設立した。王や貴族の私的な陳列室ではなく、国の所有で、誰でも無料で入れると定めた点が新しい。当初は入館に申し込みが必要で、順番待ちが数週間あったが、やがて自由に入れるようになる。集められた品の多くは、奴隷交易と植民地から来ている。返還を求める声は、いまも続いている。ロンドン
- ジョンソンの英語辞典できごとAD1755年9年で4万2773語書店の組合が、フランスやイタリアのような国家的な辞典を英語にも、と企画した。アカデミー・フランセーズが60年近くかけた仕事を、サミュエル・ジョンソンは屋根裏で6人の写字生と9年で仕上げた。4万2773語。革新は、語義に文学からの引用を添えたことである。11万4000の用例。定義には彼の癖が出た。「オート麦——イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物」「辞書編纂者——無害な苦役者」。150年、英語の標準であり続けた。ロンドン

- ろう学校と手話できごとAD1760年頃身振りが言語だと気づいたパリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
- 『紅楼夢』できごとAD1760年頃これだけを研究する学問曹雪芹。祖父が江寧織造として康熙帝の南巡を4度迎えた家が、雍正帝に財産を没収されて没落した。北京の西郊で、粥をすすりながら、10年、5回書き直した。賈家の大邸宅の栄えと衰え、宝玉と黛玉と宝釵、400人以上の人物。80回で筆が止まり、高鶚が120回に整えて1791年に刊行された。中国の小説の頂点とされ、これだけを研究する学問(紅学)がある。北京

- 清の文字の獄できごとAD1772年集めることと消すこと乾隆帝が『四庫全書』の編纂を命じ、全国の書物を集めさせた。同時に、その中から満洲を貶める語(「夷」「虜」「胡」)や、明を懐かしむ文を探させた。10年余りで、3000種以上の書物が焼かれ、削られた。詩の一句や、避諱(皇帝の名の字を避けること)の失敗で、一族が処刑された。集めることと、消すことが、同じ事業の表と裏だった。北京
- 『ローマ帝国衰亡史』の刊行できごとAD1776年誰が書いたかで、ローマは違って見える第1巻が出た年は、アメリカ独立宣言と『国富論』の年でもある。1788年に全6巻。ローマが「なぜ滅びたか」を問う型を、以後の全員がこの本から引き継ぐ。ロンドン
- シャンポリオン人物AD1790年12月23日 – AD1832年3月4日11歳でエジプトの文字を読むと決め、31歳で読んだ。聖刻文字が絵ではなく音も表すと見抜き、3000年ぶんの記録が読めるようになる。
- 最初の国勢調査できごとAD1790年8月2日議席と税のために数える合衆国憲法は、下院の議席と直接税を人口で割り振ると定め、そのために十年ごとに数えることを義務づけた。国家が、自分の民を定期的に数える最初の仕組みである。連邦保安官が戸別に回った。記録したのは世帯主の名と、六つの区分だけ。十六歳以上の自由白人男性、十六歳未満の自由白人男性、自由白人女性、その他の自由人、そして奴隷。総数 3,929,214人、うち奴隷 697,681人。奴隷は議席の計算では五分の三として数えられた。ニューヨーク
- 本居宣長『古事記伝』できごとAD1798年(寛政10年)1000年読めなかった音を松阪の医者が、35年かけて『古事記』を全部注釈した。44巻。1000年、誰も読めなくなっていた古事記の音を、万葉集と祝詞から復元した。「漢意(からごころ)を去れ」。儒教と仏教の理屈で読まず、あったままを。「もののあはれ」。国学の頂点で、そこから平田篤胤の復古神道が出て、幕末の尊王が出た。松阪
- 寺子屋できごとAD1800年頃商売往来と百姓往来江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。江戸

- ルイ・ブライユ人物AD1809年1月4日 – AD1852年1月6日15歳で作ったパリ近郊クーヴレの馬具職人の子。3歳のとき、父の仕事場で錐を扱って左目を突き、感染が右目にも及んで、5歳で完全に失明した。10歳で王立盲青年学校へ。当時の教材は、紙に文字の形を浮き出させた重い本で、読めても書けなかった。15歳で6点の体系を作り、20歳で最初の解説書を出した。学校の教師になり、オルガンを弾き、パリの教会のオルガニストを務めた。結核で43歳で死んだ。1952年、遺骨がパンテオンに移された。両手だけは、故郷の墓に残された。
- アイザック・ピットマン人物AD1813年1月4日 – AD1897年1月22日織物工場の事務員の子で、十三歳で学校をやめた。独学で教員になり、村の学校を任された。新教会派に改宗したことで職を追われている。1837年、音を基準とする速記法を発表し、安価な小冊子で売った。郵便で添削する通信教育を組織し、弟子と兄弟が各国へ広めた。英語の綴りを発音どおりに改める運動にも生涯を費やし、こちらは実らなかった。菜食主義者で禁酒家、そして八十四歳まで働いた。
- 伊能忠敬の日本図できごとAD1821年大日本沿海輿地全図酒造家を隠居した50歳が、19歳年下の天文学者に弟子入りし、55歳から17年、歩いて日本を測った。4万キロ。死んで3年後、弟子が『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度は正確で、経度は少しずれた。シーボルトが写しを持ち出し、ヨーロッパの日本地図になった。江戸
- ユリシーズ・グラント人物AD1822年4月27日 – AD1885年7月23日死ぬ1週間前に回想録オハイオの皮なめしの子。ウェストポイント、米墨戦争、酒で軍を辞め、薪を売った。南北戦争で北軍の将軍に。フォート・ドネルソン(「無条件降伏」)、シャイロー、ヴィックスバーグ、リンカーンが総司令官に。「戦う男だ」。リーを追い詰めた。18代大統領。黒人の権利を守ろうとして、KKKを弾圧し、汚職に囲まれた。破産して、喉の癌で、死ぬ1週間前に回想録を書き終えた。マーク・トウェインが出版し、遺族が救われた。
- ロゼッタ・ストーンの解読できごとAD1822年9月読めない文字が読めるようになると、歴史が増える同じ勅令が三つの文字で刻まれた石から、シャンポリオンが聖刻文字を解いた。エジプト3000年の記録が、初めて読めるようになる。パリ
- 点字の考案できごとAD1824年盲人が自分で書けるようになったルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ

- ウェブスターのアメリカ英語辞典できごとAD1828年colour を color に独立した国には独立した言語が要る、とノア・ウェブスターは考えた。26年かけて7万語を集め、うち1万2000語はそれまでどの辞書にもなかった。スカンク、ヒッコリー、大統領選挙人。そして綴りを変えた。colour を color に、centre を center に、defence を defense に。理屈は「発音どおりに、簡潔に」だが、動機の半分は独立宣言である。学校用の綴字教科書は1億部売れ、彼の綴りがアメリカの標準になった。ニューヘイヴン
- ガイドブックできごとAD1830年代評価を付ける行為が、旅の形を変えたそれまでの旅の本は、教養ある人が自分の感想を綴ったものだった。カール・ベデカーは、旅行者が実際に要る情報を並べた。宿の等級と値段、馬車の時刻、歩く距離、心づけの相場。そして、見るべきものに星印を付けた。星が多いほど良い、という単純な指標である。読者は、自分で判断する手間を省けるようになった。同時に、旅先で何を見るかが本に決められることにもなる。星の付いた場所に人が集まり、付かない場所は素通りされる。評価を付けるという行為が、旅の形を変えた。コブレンツ
- ピットマン式速記できごとAD1837年綴りではなく、音を書くアイザック・ピットマンは、綴りではなく音を書き取る記号を作った。子音を線の向きで、有声と無声を線の太さで書き分け、母音は点と短い線で線の脇に添える。母音は省いてよい。習熟すれば毎分200語を超える。議会と法廷と新聞が採用し、通信教育で世界に広がった。同じころ、ドイツではガベルスベルガーが、後に日本では田鎖綱紀が、それぞれの言語のための方式を作った。話された言葉を、その場で文字にできるようになった。ロンドン
- グリム兄弟のドイツ語辞典できごとAD1838年123年かかったメルヒェンを集めた兄弟の、本来の仕事は言語学である。兄ヤーコプは、ゲルマン語の子音が規則的に推移したことを示した(グリムの法則)。1838年、二人は生涯をかけてドイツ語の歴史的な辞典に取りかかった。ドイツがまだ統一されていない時代に、共通の言語をもって国民を定義する仕事でもあった。ヤーコプはF項の Frucht(果実)まで書いて死んだ。完成したのは1961年、着手から123年後、全32巻である。カッセル
- 写真の発明できごとAD1839年8月19日記憶と証拠が変わったニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。パリ
- ペニー・ブラックと郵便改革できごとAD1840年5月6日距離ではなく仕分けと配達が費用それまでの郵便は、受け取る側が距離に応じて払った。高額で、受取拒否が多く、集金の手間が費用の大半を占めていた。ローランド・ヒルは、費用を分析して、距離はほとんど関係ないことを示した。かかるのは仕分けと配達である。だから、全国どこでも重さだけで決め、前払いにし、支払いの証拠として紙片を貼る。半オンスまで一ペニー。世界初の切手。10年で郵便物は5倍以上になり、識字と教育と、庶民の手紙の習慣が広がった。ロンドン
- 猪山家の家計簿できごと1842年普通の家の帳面が、いちばん確かな史料になる加賀藩の会計係の家が、37年分の収支を書き残した。武士が借金でどれほど追い詰められていたか、何にいくら使ったかが、一文単位で分かる唯一の史料になる。金沢
- 絵を送るできごとAD1843年スコットランドの時計職人アレクサンダー・ベインは、電信が文字を送れるなら、絵も送れるはずだと考えた。二本の振り子を同じ速さで振らせ、送る側で金属の文字を針でなぞり、受ける側では同じ動きで薬品を染み込ませた紙に電流を流す。触れたところが変色して、形が現れる。1843年の特許は、電話より三十年以上早い。実用になるのは遅く、新聞社が写真を送るために使い始めるのは二十世紀に入ってからになる。日本では、漢字を送れる利点から事務機として広く普及した。エディンバラ
- 木材パルプの紙できごとAD1844年ザクセンの織工フリードリヒ・ゴットロープ・ケラーが、濡らした丸太を砥石に押しつけて繊維を削り出し、それを漉いて紙にした。襤褸から解放された。特許を更新する資金が無く、権利は製紙業者フォルターの手に渡り、ケラーは貧しいまま死んだ。紙が安くなり、新聞が大衆のものになる。同時に、木材パルプの紙は酸を含み、数十年で褐色になって崩れる。十九世紀後半以降の書物と新聞が、いま図書館で壊れつつある。ハイニヒェン
- オックスフォード英語辞典できごとAD1857年紙片500万枚語の意味を定めるのではなく、その語が歴史の中でどう使われてきたかを、用例で示す。1857年に文献学協会が構想し、完成まで71年かかった。方法は市民の参加である。世界中の読者に本を割り当て、語の用例をスリップに書いて送らせた。集まった紙片500万枚。編集主幹マレーは庭に鉄板の小屋を建て、1000個の仕切りにそれを収めた。最大の寄稿者の一人マイナーは、殺人を犯してブロードムア精神病院に収容されていた軍医だった。1928年完成、全10巻、41万4825語。オックスフォード

- 『ボヴァリー夫人』裁判できごとAD1857年1月31日私が有罪なら文学全部が田舎医者の妻が、退屈と、読みすぎた恋愛小説の理想から、姦通と借金に落ち、砒素で死ぬ。連載後、公序良俗と宗教への冒涜で起訴された。検事は、姦通が罰せられていないこと、そして作者がどこにも道徳の判断を書いていないことを、罪だと論じた。無罪。作者は「私が有罪なら、文学全部が有罪になる」と書いた。作者の顔が見えない語り、正確な文体。近代小説の出発点とされる。パリ
- アルフレド・ドレフュス人物AD1859年10月9日 – AD1935年7月12日悪魔島アルザスのユダヤ人の紡績業者の子。ドイツに取られたアルザスを出てフランスの士官に。1894年、参謀本部にいた唯一のユダヤ人。逮捕、軍籍剥奪の式(剣を折られ、群衆が「ユダヤ人に死を」)、悪魔島で4年半、独房。1899年再審で有罪、特赦。1906年、無罪。少佐に復帰した。第一次大戦に出た。事件について、自分では多くを語らなかった。
- 二葉亭四迷人物AD1864年4月4日 – AD1909年5月10日ベンガル湾で死んだ本名、長谷川辰之助。江戸生まれ。ロシアの南下に備えて軍人を志し、士官学校に三度落ちて、東京外国語学校ロシア語科へ。ツルゲーネフとゴンチャロフを原語で読んだ。1887年『浮雲』。話し言葉で小説を書く実験である。訳した『あひヾき』の自然描写が、日本の文章を変えたと言われる。文学に自信が持てず、10年以上筆を折って官庁と新聞社に勤めた。朝日新聞の特派員としてペテルブルクへ行き、結核を得て、帰国の船中、ベンガル湾で死んだ。
- 印鑑登録できごとAD1873年(明治6年)明治政府は、証書に実印を押すことを定め、その印影をあらかじめ役所に届け出る仕組みを作った。届け出た印と照合すれば、本人が押したと確かめられる。署名を使う西洋の方式も検討されたが、当時は字を書けない人も多く、印のほうが定着していた。以後、日本では印鑑が本人確認の中心になる。銀行の届出印、契約の実印、そして書類ごとの認印。押すこと自体が、確認したという意思の表示になった。持ち出しやすく、偽造もできる道具に、それだけの意味を負わせてきたことになる。東京
- 苗字を名乗らせるできごとAD1875年(明治8年)2月13日江戸時代、公に苗字を名乗れるのは武士などに限られていた。庶民が持っていなかったわけではなく、家の名は村の中で使われていたが、公の書類には書かなかった。明治政府は1870年に庶民の苗字を許し、1875年には名乗ることを義務づける。許すだけでは広まらなかったからである。理由は徴兵にあった。同姓同名が並ぶ帳面では、誰を呼び出すのか決められない。人々の側には、苗字を届けると新しい税がかかるのではないかという警戒もあった。名前は、国に見つけられるための番号でもある。東京
- 蓄音機の発明できごとAD1877年メリーさんの羊錫箔を巻いた円筒に、針で溝を刻む。電話の実験の副産物だった。エジソンが最初に吹き込んだのは「メリーさんの羊」。それまで、音は、鳴った瞬間に消えるものだった。この機械が、死んだ人の声を残し、遠い土地の音楽を運び、演奏を商品にした。彼は用途の第一に「遺言と口述筆記」を挙げ、音楽は第四に置いた。1887年、ベルリナーが円盤に変え、複製ができるようになった。メンローパーク
- 「失った友」の欄できごとAD1877年から売られて離れた家族を、新聞の小さな欄で探した奴隷制のもとでは、親子や夫婦が売られて別々の土地へ送られた。解放されたあと、人々はばらばらになった家族を探し始める。ニューオーリンズで出ていたメソジストの週刊紙『サウスウェスタン・クリスチャン・アドヴォケイト』は、「失った友」という欄を設け、尋ね人の広告を無料で載せた。母の名、売られた年、最後にいた農園の主の名。字の読めない人も多いので、牧師は日曜の説教壇からこの欄を読み上げるよう勧められた。二千五百件を超える広告が残っている。再会できたと知らせる便りは、ごくわずかである。ニューオーリンズ
- ベルティヨンの人体測定法できごとAD1883年顔写真の形式はここから常習犯を見分けたい。名前は偽れる。顔も変わる。パリ警視庁の書記アルフォンス・ベルティヨンは、成人の骨格は変わらないという前提で、身長、頭の長さと幅、中指の長さ、左足の長さ、前腕、耳の形など11項目を測り、カードに記録した。正面と横顔の写真を規格化して添えた(現在の顔写真の形式はここから来る)。導入の翌年、241人の再犯者を特定した。世界中の警察が採用し、そして1903年、測定値がほぼ同じ別人が現れて、崩れた。パリ
- 穴をあけて綴じるできごとAD1886年穴の間隔を揃えて、紙を扱う手順が決まったボンの文具業者フリードリヒ・ゾンネケンは、1886年、紙に穴をあける道具と、その穴に通して綴じる金具付きのファイルを売り出した。紙を重ねて縛ったり、糊で貼ったりしなくても、後から一枚ずつ差し込み、抜き出し、並べ替えられる。穴の位置と間隔を揃えておけば、どこの会社の紙も同じファイルに入る。事務の書類が増えていく時代に、紙を扱う手順が決まった。穴の間隔は、いまも規格として残っている。ボン
- 言文一致できごとAD1887年落語通りに書いてみろ明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。東京
- ホレリスのパンチカードできごとAD1890年7年が6週間に1880年のアメリカの国勢調査は、集計に7年かかった。次の調査が始まるまでに終わらない。技師ハーマン・ホレリスは、鉄道の車掌が切符に乗客の特徴をパンチで刻むのを見て思いついた。人ひとりを1枚のカードにし、穴の位置で属性を表す。カードを機械に通すと、穴を通った針が水銀に触れて回路がつながり、計数器が回る。1890年の調査は、人口の速報が6週間で出た。彼の会社が合併を重ねてIBMになる。国家が人を数えるために、計算機の産業が生まれた。ワシントンD.C.
- 消える歌を捕まえるできごとAD1890年楽譜に書けない音を、そのまま残した蓄音機は、はじめ事務の道具として売り出された。使い道を見つけたのは、人類学者と音楽家だった。1890年、アメリカの研究者がメイン州のパサマクォディの人々の歌と語りを蝋管に吹き込んだ。記録に残る最初の民族音楽の野外録音とされる。ハンガリーではバルトークとコダーイが村を歩いて農民の歌を集め、その音階が自分たちの作曲を変えた。文字に起こせば消えてしまう節回しや訛りが、そのまま残る。話者が数人になった言語の音も、この蝋管に残っている場合がある。消えていくものを、消える前に捕まえる道具になった。ワシントンD.C.
- E・H・カー人物AD1892年6月28日 – AD1982年11月3日外交官からソビエト史の研究者に転じた。歴史とは事実と歴史家のあいだの対話だ、という講義録が、いまも歴史学の入口に置かれている。
- ドレフュス事件できごとAD1894年12月22日筆跡だけでユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。パリ

- 指紋による身元確認できごとAD1897年生涯変わらない印指紋が個人ごとに違い、生涯変わらないことは、19世紀に複数の人が指摘した。日本で医師として働いたヘンリー・フォールズが1880年に『ネイチャー』に発表し、犯罪捜査への利用を提案した。実用にするには、数万枚の指紋から一致するものを探し出す分類法が要る。ベンガル警察のアジズル・ハックとヘム・チャンドラ・ボースが、渦と弓と蹄の形で1024の区分に分ける方式を作った。上司の名を取って「ヘンリー式」と呼ばれる。1901年、ロンドン警視庁が採用した。コルカタ
- フェルナン・ブローデル人物AD1902年8月24日 – AD1985年11月27日ドイツの捕虜収容所で、記憶だけを頼りに主著を書き上げた。事件ではなく、山と海と気候がつくる「ほとんど動かない時間」から歴史を見る。
- アラン・チューリング人物AD1912年6月23日 – AD1954年6月7日仕事の内容を語れないまま死んだ「計算できるとはどういうことか」を機械の形で定義した。大戦中は暗号解読に従事する。戦後に同性愛を理由に有罪となり、41歳で死んだ。
- 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
- 三度、名を変えた都市できごとAD1914年地名は、その国が何を掲げているかを短く示すピョートル大帝が沼地に築いた都は、ドイツ語ふうの響きを持つ名で呼ばれていた。1914年、ドイツと戦争が始まると、政府は名をロシア語ふうのペトログラードに改めた。1924年、レーニンが死ぬと、その名を取ってレニングラードになる。第二次世界大戦の九百日の包囲を耐えたのは、この名の街である。1991年、住民投票を経て元の名に戻された。同じ場所が、同じ人々の一生のうちに三度も呼び名を変えた。地名は、そのときの国が何を掲げているかを、いちばん短く示す。サンクトペテルブルク
- 顔を貼るできごとAD1915年国が個人を見分けるために、顔の写し方まで決めた第一次世界大戦まで、旅券は人相を文章で書いたものだった。額は広い、鼻は普通、顔は長い。当てはまる人は大勢いる。実際に、ドイツの工作員がよく似た他人の旅券で入国した事件が起きた。1915年、イギリスは写真の貼付を義務づける。以後、各国が続き、顔の写真が本人確認の標準になった。表情を作らず、正面を向き、目を隠さない。顔を機械が照合する時代になると、規格はさらに細かくなる。旅券の写真は、国が個人を見分けるために決めた、顔の写し方の決まりでもある。ロンドン
- 削らない鉛筆できごとAD1915年鉛筆は削らなければ書けない。小刀を使い、削りかすが出て、短くなれば持てなくなる。金属の軸に芯を送り込む筆記具は十九世紀から各国で試みられ、日本では早川徳次が1915年に繰り出し式の製品を作った。ねじの機構で芯を少しずつ押し出す。金属の軸は冬に冷たいと言われて国内では売れず、欧米で先に評判になって逆輸入された。彼の会社は、のちに家電の会社として名を残す。削るという手間を一つ消しただけの道具だが、それだけで持ち歩き方と使い方が変わった。東京
- マイケル・ヴェントリス人物AD1922年7月12日 – AD1956年9月6日本業は建築家言語の才が異常だった。6歳でポーランド語の文法書を読み、スイスの学校でフランス語とドイツ語を身につけ、独学でスウェーデン語を覚えた。14歳のとき、アーサー・エヴァンズの講演で線文字Bの粘土板を見て、「まだ誰も読めないのですか」と尋ねた。本業は建築家である。空軍の航法士として従軍し、戦後、設計の仕事の合間に解読を進めた。1952年、ラジオでギリシア語説を発表した。1956年9月、深夜、高速道路でトラックに追突して死んだ。34歳。
- 紙の大きさできごとAD1922年折っても比が変わらないことだけを基準に選んだ紙の大きさが揃っていないと、綴じられず、封筒も合わず、複写もできない。ドイツの規格委員会は1922年、縦と横の比を一対ルート二にする紙の系列を定めた。この比なら、半分に折っても比が変わらない。一平方メートルの紙をA0とし、折るごとにA1、A2と番号が増える。拡大と縮小が単純な倍率で済むので、複写機と相性がよかった。ヨーロッパから世界へ広がり、いま国際規格になっている。採らなかった主な国はアメリカで、そこではレターサイズが使われ続けている。ベルリン
- ラジオの時報できごとAD1924年2月5日1924年2月5日、英国放送協会は、グリニッジ天文台の時計が送る六つの短い音を放送し始めた。最後の一音の始まりが正時である。電信や報時球で時刻を知れたのは、港や駅の近くにいる人だけだった。ラジオはそれを家の中へ運び、国じゅうの時計が同じ一秒に合わせられるようになる。日本でも放送が始まるとすぐ時報が流れた。時刻は、見に行くものから、向こうから届くものに変わった。グリニッジ
- 網野善彦人物AD1928年1月22日 – AD2004年2月27日記録に残らなかった人びとを、記録から拾い直した日本は農業の国だ、という前提を史料から崩した歴史家。海と山で生きた人、市場、女性、被差別民を、日本史の中心に置き直した。
- アンネ・フランク人物AD1929年6月12日 – AD1945年2月または3月床に散らばった日記を、助けていた人が拾い集めた隠れ家で2年日記を書き、15歳で収容所で死んだ。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。
- ホロドモールできごと1932年数字そのものが長く伏せられたウクライナで数百万人が餓死した。急いだ集団化と穀物の徴発が重なった人為の飢饉で、いまジェノサイドと認める国が多い。ハルキウ

- 無作為抽出できごとAD1934年全部を数えるのは、費用も時間もかかる。一部を調べて全体を推し量る試みは古くからあったが、選び方に根拠が無く、当てにならないと見られていた。ポーランドの数学者イェジ・ネイマンが、王立統計学会に提出した論文で、確率にもとづく抽出だけが、誤差の幅を計算できると示した。層に分けて割り当てる方法も、同時に定式化している。標本の大きさより、選び方が効く。母集団の全員に、選ばれる確率がある、ということが、核心である。ロンドン
- マグニチュードできごとAD1935年地震の大きさは、各地の揺れの強さでしか語れなかった。同じ地震でも、近くでは強く、遠くでは弱い。パサデナの研究所にいたチャールズ・リヒターは、同僚のグーテンベルクと、地震計の記録の振れ幅から、地震そのものの大きさを一つの数で表す方法を作った。1935年のことである。目盛りは一つ上がると、揺れの幅が十倍になる。場所ごとの揺れの強さと、地震が放つエネルギーの大きさを、分けて語れるようになった。パサデナ
- 南京事件できごと1937年犠牲者数にいまも大きな幅がある日本軍が占領した南京で、多数の捕虜と市民が殺された。犠牲者の数は資料によって大きく違い、いまも論争が続く。南京

- エニグマの解読できごとAD1940年関わった数千人が30年話せなかったポーランドの研究を引き継ぎ、機械で機械の暗号を解いた。従事した数千人は戦後30年、この仕事について話すことを許されなかった。ブレッチリー・パーク
- エドゥアルド・ガレアーノ人物AD1940年9月3日 – AD2015年4月13日ジャーナリストとして書いた一冊が、南米の軍事政権に発禁にされ、亡命を強いられた。500年の収奪を、被害を受けた側の言葉で書き直した。
- 全部は数えないできごとAD1940年国勢調査は全員に聞くものである。だが、聞きたいことが増えるほど、全員に聞く費用と手間は膨らむ。1940年のアメリカの調査は、詳しい質問を二十人に一人だけに尋ねる方式を採り入れた。標本の理論がそれを支える。適切に選べば、一部から全体を高い精度で推し量れる。同じ考え方で、失業率や物価の統計も、毎月少数を調べて作られるようになった。全部を数えるより、正しく選んだ一部のほうが、速くて安く、時には正確でもある。数え方そのものが、社会を見る解像度を決めている。ワシントンD.C.
- 外れた見出しできごとAD1948年1948年のアメリカ大統領選で、主要な調査機関はそろって共和党のデューイの勝利を予測した。差が大きいと見て、調査は投票日の何週間も前に打ち切られている。当選確実と信じた新聞は、開票を待たずに一面の見出しを組んだ。「デューイ、トルーマンを破る」。実際に勝ったのはトルーマンで、彼はその新聞を掲げて笑う写真を残した。標本の割り当てを調査員の裁量に任せていたことも偏りを生んだ。以後、確率に基づく抽出が主流になり、直前まで調査を続けることが基本になる。シカゴ
- レヴィ=ストロース『親族の基本構造』できごとAD1949年音韻論の方法で親族をブラジルの奥地で先住民と暮らした人類学者が、婚姻の規則を、言語学の音韻論と同じ方法で分析した。婚姻は、女性を集団の間で交換する体系であり、その交換の規則が社会を作る。「未開」と「文明」に、思考の質の差はない。『野生の思考』『神話論理』。構造主義。サルトルの実存主義と論争になった。100歳を超えて生きた。パリ
- 『地中海』の刊行できごとAD1949年何を歴史と呼ぶかを変えた本ドイツの捕虜収容所で書き上げた原稿が、戦後に本になった。王と戦争ではなく、山・海・気候という「ほとんど動かない時間」から歴史を書く方法が示される。パリ
- 『羅生門』の金獅子賞できごとAD1951年黒澤明の『羅生門』は、一つの殺人を、そこにいた人びとがそれぞれ食い違う話で語る映画だった。日本の配給会社は評価しておらず、海外の映画祭に出すことも考えていなかった。イタリアの映画人の勧めで出品されると、1951年、ヴェネツィア国際映画祭で最高の金獅子賞を得る。敗戦から六年、日本の映画が世界に知られるきっかけになった。同じ出来事が見る人によって違って語られることを、英語でもラショーモン効果と呼ぶ。ヴェネツィア
- 線文字Bの解読できごとAD1952年自分の予想に反する結論クレタ島クノッソスで見つかった粘土板の文字。50年、誰も読めなかった。建築家マイケル・ヴェントリスは14歳でエヴァンズの講演を聞いて取り憑かれ、余暇に取り組んだ。記号の出現位置を統計的に整理し、格子状の表に並べ、音節の対応を推測した。そして自分の予想に反する結論に達した。この言語はギリシア語である。ミケーネ文明がギリシア語を話していたことが、これで確定した。粘土板の中身は、羊の頭数と油の配給の記録だった。彼は4年後、34歳で交通事故で死んだ。ロンドン
- マヤ文字の解読できごとAD1952年ランダ司教の表アメリカの権威エリック・トンプソンは、マヤ文字は表意的な絵であって言語を書き写したものではない、と主張し、その説が数十年、分野を支配した。レニングラードの若い研究者ユーリー・クノロゾフは、16世紀の司教ランダが残した「マヤのアルファベット」の写しを読み直し、それが音節を表す表だと見抜いた。1952年に発表した。冷戦下で、西側は「ソ連の宣伝」として無視した。1970年代以降、若い世代が彼の方法で読み進め、マヤの王の名と即位の年と戦争の記録が、次々に読めるようになった。サンクトペテルブルク
- キーリング曲線できごとAD1958年空気中の二酸化炭素の量を、正確に、長く測り続けた人はいなかった。若い化学者チャールズ・キーリングは、工場や森の影響を受けにくいハワイのマウナロア山の上で、1958年から測定を始める。数年で、二つのことが見えてきた。植物が育つ夏に減り冬に増える、地球が息をしているような季節の波。そして、その波を乗せたまま、年ごとに確実に上がっていく線である。この一本の線は、いまも毎日延び続けている。マウナロア
- 『歴史とは何か』の講義できごとAD1961年1月〜3月事実は自分では語らない歴史とは、歴史家と事実のあいだの終わりのない対話である。ケンブリッジでの6回の連続講義が本になり、以後の歴史の読み方を変えた。ケンブリッジ
- ケネディ暗殺できごとAD1963年11月22日まだ全部ではない12時30分、オープンカーで。教科書倉庫の6階から3発。オズワルドは2日後に警察の地下でルビーに撃たれた。ウォーレン委員会は「単独犯」。国民の6割はいまも信じない。ザプルーダーの8ミリフィルム、26秒。1992年の法で文書は公開されることになり、まだ全部ではない。ダラス

- 出口調査できごとAD1967年開票を待たずに結果を知るには、投票を終えた人に、いま何を書いたかを聞けばよい。CBSのウォーレン・ミトフスキーが、投票所を無作為に選び、一定の間隔で出てくる人に用紙を渡す方法を組んだ。速い。そして、誰がなぜそう投票したかも分かる。当選確実の報道が、まだ投票時間の残る西部の投票率を下げるという批判が起き、各局が発表の時刻を遅らせた。2000年のフロリダでは、二度、誤って当確が出されている。ニューヨーク
- テト攻勢できごとAD1968年1月30日クロンカイトを失えば旧正月の休戦の夜、南ベトナム全土の100の街を解放戦線が襲った。サイゴンの米大使館の庭。フエは1か月。軍事的には解放戦線が壊滅した。だがテレビが映した。クロンカイトが「泥沼」と言い、ジョンソンは「クロンカイトを失えば中間層を失った」と言って、再選に出なかった。フエ

- 『収奪された大地』の刊行できごとAD1971年誰の言葉で書くかラテンアメリカ500年の歴史を、金と銀とゴムと砂糖とコーヒーが持ち去られた記録として書いた。チリ、アルゼンチン、ウルグアイの軍事政権が発禁にし、著者は亡命した。ブエノスアイレス
- 最初の電子メールできごとAD1971年同じ計算機を複数の人が使う時代、利用者同士が文字を残し合う機能はすでにあった。レイ・トムリンソンは、それを別の計算機へ送れるようにした。必要だったのは、相手が「どの機械の、誰か」を書く書き方である。彼は、人名にも計算機の名にも使われていない記号を探し、キーボードの上にあった@を選んだ。最初に送った文面は覚えていないと本人は言っている。網の上を、人が人に宛てた文が流れ始めた。手紙でも電話でもない、返事を待たずに置いていける連絡の形が生まれた。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- 日本語ワープロできごとAD1978年英語はキーの数だけ文字がある。日本語は数千の漢字を使う。和文タイプライターは活字を拾う職人技で、誰もが打てるものではなかった。1978年、東芝が発表した機械は、仮名で入力した音を漢字かな交じりに変換する方式を採った。候補を出して選ばせる。値段は六百三十万円、机ほどの大きさである。それでも、この変換の考え方が定まったことで、日本語は機械で打てる言語になった。いまの携帯電話の入力も、同じ仕組みの子孫になる。文字の多い言語が、どう機械と折り合うかという問題への答えだった。東京
- 貼ってはがせる紙できごとAD1980年1968年、化学メーカーの研究者スペンサー・シルバーは、強い接着剤を作ろうとして、弱くしか付かない接着剤を作ってしまった。使い道が見つからないまま、社内で紹介し続ける。同僚のアート・フライは、教会の聖歌隊で、譜面に挟んだしおりが落ちるのに困っていた。この糊を塗れば、貼ってもはがせる。試作品は社内で評判になったが、売り出しても最初は売れず、無料で配って使わせてから広まった。1980年に全国で発売される。失敗作に、用途が後から追いついた。セントポール
- 天安門事件できごとAD1989年6月4日その国の中で公に語れない民主化を求める学生らに軍が投入された。ベルリンの壁が開く5か月前の出来事になる。北京
- 無償労働を数えるできごとAD1995年9月15日数えなければ議論にならない第4回世界女性会議の行動綱領に、各国政府への要求が入った。無償労働を測定し、国民経済計算のサテライト勘定として記録すること。生活時間調査を行うこと。以後、各国が調査を始めた。日本の推計で、無償労働の貨幣評価はGDPの2割前後にあたる。世界では、女性が男性の2倍から10倍の無償労働を担っている。数えても、支払われるわけではない。それでも、数えなければ、議論の対象にすらならない。北京
- 絵文字できごとAD1999年書き言葉が捨てた調子と表情を、小さな絵で拾い直した携帯電話で短い文を送り合うようになると、そっけなさが問題になった。「わかりました」だけでは、怒っているのか普通なのか分からない。1999年、携帯電話の情報サービスの開発にいた栗田穣崇らは、十二×十二の点で描いた百七十六個の小さな絵を文字として送れるようにした。天気、顔、乗り物、ハート。声の調子や表情の代わりである。国内の規格がばらばらのまま広まり、2010年、国際的な文字の規格に取り込まれた。日本語の「絵文字」が、そのまま世界の言葉になった。東京
- 電子の署名できごとAD2000年紙に書いた署名は、筆跡と紙の存在が本人性を支えていた。取引が通信の上に移ると、その支えが無くなる。暗号の技術で、本人しか作れない値を文書に付け、改ざんがあれば分かるようにできる。問題は、それを法が認めるかどうかだった。2000年、アメリカの法が、電子的な署名を紙の署名と同じに扱うと定める。日本も同じ年に法を作った。技術はすでにあり、足りなかったのは「これでよい」と決めることである。多くの場合、制度の遅れは技術ではなく、合意の遅れになる。ワシントンD.C.
- 誰でも書ける百科事典できごとAD2001年1月15日専門家が書き、査読してから載せる無料の百科事典の計画は、一年かけても記事がわずかしか増えなかった。2001年1月15日、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーは、誰でもその場で書き換えられる仕組みで、別の百科事典を始める。間違いはすぐ入り、すぐ直される。数年で既存の百科事典を記事の数で追い越した。広告を載せず、寄付で運営されている。書き手の多くは名前も知られない人びとである。知識の作り方の、新しい形が生まれた。サンディエゴ
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
考えることの歴史37件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。表現の歴史27件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。女性の権利23件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。技術と産業23件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。言葉と文字の歴史23件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。日本の古代20件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。交易路とお金19件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。古代オリエント17件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。中国の王朝17件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。主権はだれのものか17件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。確かめるという方法17件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史13件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。教育の歴史11件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。キリスト教のひろがり10件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。ローマ人の物語9件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。都市の歴史9件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。メディアの歴史8件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。国風文化 — かなと宮廷の女たち8件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。インドと仏教7件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。イスラム世界7件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方7件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。武士の700年6件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。文明のはじまり6件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。コテンラジオで聞く歴史6件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。二つの大戦5件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。ヴァイキング5件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。接触前のアメリカ5件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。探検と発見4件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。差別の歴史4件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。お金の歴史4件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。明治3件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。冷戦3件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。朝鮮半島3件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。冷戦のあと3件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。ペルシア戦争3件を共有 / 当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史3件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ3件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。老いと死の歴史3件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。性の歴史3件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。法と裁判の歴史3件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。交通と旅の歴史3件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。元禄から化政へ — 江戸の町人文化3件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。ポエニ戦争2件を共有 / 地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。中華の統一2件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。三国志2件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。東ローマ千年2件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『オリエンタリズム』で読む歴史2件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀2件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『日本の歴史をよみなおす』で読む日本2件を共有 / 日本は農業の国で、百姓は農民だった。その前提を、史料の側から崩した本。『地中海』で読む歴史2件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙2件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ2件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。障害の歴史2件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。子どもの歴史2件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。幕末1件を共有 / 黒船が来てから15年で、700年近く続いた武家政権が終わった。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『ローマ人の物語』で読むローマ1件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍1件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『武士の家計簿』で読む幕末1件を共有 / 加賀藩の会計係の家が、37年つけた家計簿が見つかった。武士は、思われているよりずっと借金に苦しんでいた。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ1件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。