日本の古代

概要
中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。
この物語について
日本で最初に名前の分かる人たちは、外国の記録にしか出てこない。国の形は、外を見ながら作られていった。では、列島の人々はいつ、どのようにして「国」になったのか。そして、手本を写すことと写すのをやめることは、それぞれ何をもたらしたのか。
列島の人々が初めて文字の記録に現れるのは、中国の史書の中である。紀元前後の『漢書』は、海の向こうの倭人が百あまりの国に分かれ、ときどき使いを送ってくると書く。57年には奴国の王が後漢に使いを送って印を受けたとされ、江戸時代に福岡の志賀島で「漢委奴国王」と刻まれた金印が見つかった。2世紀の後半には、倭の国々が長く争ったと中国の史書は伝える。文字で読める、列島で最初の争いである。
その争いを収めたのが、女王卑弥呼だった。『魏志』倭人伝によれば、国々は彼女を共に王に立て、彼女は鬼道で人々を従わせたという。239年、卑弥呼は朝鮮半島の帯方郡を通じて魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受けた(卑弥呼の遣使)。中国の後ろ盾を得ることが、列島の中での権威にもなったと考えられる。彼女の都、邪馬台国が近畿にあったのか九州にあったのかは、江戸時代から論争が続き、いまも決着していない。奈良盆地の箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる説もあるが、確かめられてはいない。

3世紀の後半から、近畿を中心に巨大な前方後円墳が造られるようになる。同じ形の墓が各地に広がったことは、近畿の王を中心とするゆるやかな連合ができたことを示すとみられている。4世紀の終わりには、倭の兵が朝鮮半島に渡って高句麗と戦ったことが、高句麗の好太王の碑に刻まれた。百済の王から倭の王に贈られたとされる七支刀も、奈良の石上神宮に伝わっている。半島の国々との関係は、このころから列島の政治と切り離せなかった。
5世紀の中国南朝の史書には、讃・珍・済・興・武という五人の倭の王が次々と使いを送り、朝鮮半島南部を含む軍事上の称号を求めたことが記されている(倭の五王)。478年の武の上表文は、祖先が東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国と誇っている。武は雄略天皇にあたるとする説が有力で、埼玉の稲荷山古墳から出た鉄剣にはその名とみられる「ワカタケル大王」が刻まれていた。ただし、ほかの王が日本側の史料のどの天皇にあたるのかは、いまも決まっていない。

6世紀には、王権の中身が変わり始めた。北陸から迎えられた継体天皇は、即位してから20年近く大和に入れなかったと『日本書紀』は記す。527年には九州の豪族磐井が新羅と結んで反乱を起こし、王権はこれを鎮めて九州への支配を強めた。そして百済から、仏教が伝わった(仏教の日本伝来)。その年は538年とも552年ともされ、史料によって違う。仏を受け入れるかどうかで、渡来の技術者を抱える蘇我氏と、古い祭祀を担う物部氏が対立し、587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした。
592年、蘇我氏の血を引く推古天皇が即位し、甥の聖徳太子(厩戸王)が政治に加わったとされる。603年の冠位十二階は、生まれた氏ではなく個人に位を与える仕組みで、翌年の憲法十七条は役人の心得を説いた。どちらにも大陸の制度と思想の影響がはっきりしている。607年の遣隋使で、倭の王は隋の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き送り、煬帝を不快にさせたと『隋書』は伝える。対等であろうとしながら、学ぶべきものは学ぶ。使節には留学生や僧が加わり、彼らは何十年も中国で学んで帰ってきた。なお、聖徳太子の業績のどこまでが本人のものかについては、後世の潤色を指摘する研究も多い。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、宮中で蘇我入鹿を斬り、蘇我本家を滅ぼした。翌年に出されたとされる改新の詔は、土地と人を豪族から国家のものにする方針を掲げた(大化の改新)。ただし詔の文面には、のちの律令の言葉で書き直された跡があり、この時点でどこまで改革が進んだのかは議論がある。
外の危機が、改革を急がせた。唐と新羅は660年に百済を滅ぼし、倭は百済の復興を助けるため大軍を送った。663年、朝鮮半島の白村江で、倭の水軍は唐の水軍に大敗する(白村江の戦い)。唐が攻めてくるのを恐れた中大兄皇子は、九州に水城を築き、西日本に山城を連ね、都を内陸の近江大津宮に移した。670年には全国の戸籍、庚午年籍が作られる。敗戦のあと、倭は防衛を固めながら、唐の制度を写す側に回った。
天智天皇となった中大兄皇子の死後、672年に跡継ぎをめぐって古代最大の内乱、壬申の乱が起きた。勝った大海人皇子は天武天皇となり、豪族を抑えて天皇の権威を高めた。「天皇」という称号や「日本」という国の名が定まっていくのも、天武天皇から持統天皇の時代とみられている。持統天皇は中国の都にならった最初の本格的な都、藤原京を造った。そして701年、刑法と行政法を備えた大宝律令が完成する。戸籍に基づいて人々に田を分け与え、税と兵役を課す、唐の律令の形を写した国家が、ここで形になった。

710年、都は奈良の平城京遷都に移った。長安を手本にした碁盤の目の都である。712年には『古事記』が、720年には『日本書紀』がまとめられ、神々の時代から続く天皇の歴史が書かれた。『日本書紀』は漢文で書かれ、異なる伝えを「一書に曰く」と並べている。歴史を書くことも、国の形を整える仕事の一部だった。
だが、写した制度はすぐに現実とずれ始めた。730年代には天然痘とみられる疫病が流行し、政権を握っていた藤原四兄弟が737年に相次いで死んだ。聖武天皇は仏の力で国を守ろうと、各国に国分寺を建てさせ、752年には東大寺の大仏の開眼供養を行った。その一方で743年の墾田永年私財法は、新しく開いた田の私有を永久に認め、国がすべての土地を持つという律令の建前を自ら崩した。翌年に五度の失敗と失明を経て唐の僧鑑真が着いたのは、こうした時代だった。

794年、桓武天皇は都を京都の平安京に移した。平安京も長安にならった都だったが、このあたりから、写すことと独自に育てることの釣り合いが変わっていく。804年の遣唐使には最澄と空海が加わり、それぞれ天台宗と真言宗を開いた。だが唐の国内が乱れると、使節の派遣は間遠になり、838年に出発した使節が実際に渡った最後となった。894年、菅原道真の進言で次の派遣が取りやめになる(遣唐使の中止)。
制度を写す段階が終わると、列島の内側で別のものが育った。漢字をくずした仮名が生まれ、10世紀の初めの『古今和歌集』には仮名の序文が付けられた。11世紀の初めには、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を書く。政治では、藤原氏が天皇の母方の親族として摂政・関白の座を占め、藤原道長は娘を次々に天皇の后にして、自らの栄華を満ちた月にたとえる歌を詠んだと伝えられる。やがて1086年には、位を譲った上皇が政治を動かす院政が始まり、武士の力が伸びていく。

日本の古代は、中国の史書に名を記されることから始まり、中国の制度を写して国家を作り、写すのをやめたところで独自の文化を開いた。律令の多くは数百年で形だけのものになったが、碁盤の目の都の跡、条里の地割り、元号、そして漢字と仮名を交ぜて書く文章のように、そのときに受け取り、作り変えたものは、いまの暮らしの中に残っている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(123)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 三内丸山の集落できごとBC3900年ごろ縄文の大きな集落いまの青森市の丘の上に、縄文時代の人々がおよそ1700年にわたって暮らし続けた大きな集落があった。1992年、野球場を造る工事の前の調査で、その跡が姿を現した。地面を掘り下げて屋根をかけた竪穴住居の跡は数百にのぼり、長さ30メートルを超える大きな建物の跡や、直径1メートルの栗の柱を6本立てた巨大な建物の跡も見つかった。人々は栗の林を育て、魚や木の実を食べ、遠くの土地と翡翠や黒曜石をやりとりしていた。狩猟採集の暮らしでも、人は一か所に長く定まって住めたことを、この集落は示している。三内丸山
- 囲碁できごとBC400年頃正倉院の碁盤『論語』と『孟子』に既に名が出る。駒に種類がなく、石はすべて同じ。取ることより囲うことが目的で、勝敗は地の広さで決まる。琴棋書画のひとつとして、士大夫の教養に組み込まれた。7世紀に日本へ入り、正倉院に碁盤が残る。江戸幕府は本因坊など四家に禄を与え、御城碁を年中行事にした。碁の局面の数は、宇宙の原子の数より多い。2016年、アルファ碁が李世乭に勝った。洛陽
- 百済国BC18年(伝承) – AD660年仏教と文字と技術は、ここから渡ってきた半島の南西。倭と結び、仏教と文字と技術を日本へ渡した。660年に唐と新羅に滅ぼされる。
- 倭国大乱できごとAD178年頃文字で読める最初の争い『後漢書』に「桓帝と霊帝のあいだ、倭国は大いに乱れ、互いに攻めた」とある。何年も王がなく、女子を共立して王とした。それが卑弥呼だと『魏志』は続ける。列島の歴史が文字で読める最初の争い。吉野ヶ里
- 公孫氏の帯方郡できごとAD204年卑弥呼の使者が来た郡遼東の公孫氏が楽浪の南に帯方郡を置いた。魏が238年に公孫氏を滅ぼして帯方を取り、翌年、卑弥呼の使者が帯方に来た。倭人伝の「帯方より倭に至るには」。倭と中国の間の郡。313年、高句麗が楽浪と帯方を滅ぼした。帯方郡(位置は特定されていない)
- 卑弥呼の遣使できごとAD239年魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を得た。日本の側に同時代の記録が無く、国の位置も墓も決着していない。邪馬台国(位置は特定されていない)
- 卑弥呼人物? – AD248年頃倭の女王。中国の史書にだけ記録が残り、その国がどこにあったのかは決着していない。
- 箸墓古墳できごとAD250年頃昼は人が夜は神が奈良盆地の南東、纒向。全長280メートル、最初の巨大前方後円墳。『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫の墓と言い、「昼は人が作り、夜は神が作った」。2009年の年代測定で3世紀中頃。卑弥呼の死んだ頃。卑弥呼の墓と言う人と、違うと言う人。宮内庁が管理し、掘れない。箸墓古墳

- 近肖古王人物? – AD375年倭に七支刀を贈った百済の第13代。馬韓の残りを取り、高句麗の王を平壌で殺し、東晋に朝貢して鎮東将軍の号を受けた。倭の王に七支刀を贈った。刀は石上神宮にあり、「泰和四年」の銘がある。博士高興が『書記』を編んだが、残っていない。
- 倭の五王できごと413年中国の史書にだけ名が残る讃・珍・済・興・武。中国の史書にだけ名が残り、日本側の史料の誰にあたるのかは決まっていない。平城京
- 継体天皇人物AD450年 – AD531年王朝交替説の中心男大迹王。越前の三国。応神五世の孫。58歳で迎えられた。樟葉、筒城、弟国、20年後に磐余玉穂。磐井の乱を鎮めた。手白香皇女との子が欽明。今城塚古墳が真の陵とされ、宮内庁は別の古墳を陵にしている。王朝交替説の中心。
- 家にかまどが入るできごとAD5世紀家の中心の火が、壁際へ移った縄文から弥生の竪穴住居では、家の真ん中の炉で火を焚き、土器を直に火にかけて煮た。五世紀ごろ、朝鮮半島から、壁際に粘土で作り付けるかまどが伝わる。煙は壁の外へ抜け、火は囲まれて熱が逃げにくい。蒸し器を載せて米を蒸すこともできた。家の中心にあった火が壁際へ移り、家の間取りが変わる。かまどはその後、家そのものの言い換えにもなり、分家して新しく所帯を持つことを、かまどを分けると言った。平城京
- 百済の漢城陥落できごとAD475年高句麗が漢江流域を奪い、百済は都を南へ移した。この敗北のあと、百済は倭との関係を深める。半島と日本列島の往来が濃くなる時期になる。漢城(ソウル)
- 継体天皇の即位できごとAD507年20年、大和に入れなかった武烈天皇に子がなく、大伴金村が越前から応神天皇の五世の孫を迎えた。58歳。樟葉宮で即位し、20年、大和に入れなかった。前の王統との断絶を疑う人がいる。『日本書紀』は辛亥の年に天皇と太子と皇子が同時に死んだ、という百済の記録を引いている。樟葉宮
- 磐井の乱できごとAD527年列島の政権が九州を押さえた筑紫の首長磐井が、新羅と結んで、ヤマトの半島派遣軍を止めた。一年半戦って敗れる。列島の政権が九州を直接押さえた最初で、磐井の墓とされる岩戸山古墳には石人石馬が並ぶ。八女(岩戸山古墳)
- 仏教の日本伝来できごとAD538年(552年説もある)百済から仏像と経典が伝わった。受け入れるかどうかで豪族が割れ、国の形をめぐる争いになる。飛鳥
- 推古天皇人物AD554年 – AD628年記録に残る日本最初の女性の天皇。聖徳太子と蘇我馬子とともに、国の形を整えた時代の中心にいる。
- 蘇我稲目人物? – AD570年日本で最初の寺蘇我氏の大臣。渡来人を使い、屯倉を管理し、二人の娘を欽明天皇に入れた。仏像を自分の家に置いて祭った。向原の家。日本で最初の寺。疫病で像を捨てられ、寺を焼かれた。息子馬子が物部を滅ぼし、孫の蝦夷と入鹿が乙巳の変で滅んだ。
- 欽明天皇人物? – AD571年仏教が来た天皇継体天皇の子。蘇我稲目の二人の娘を妃にし、そこから用明、推古、崇峻が生まれた。仏教が来た天皇。百済の聖明王と組み、新羅に任那を取られた。「任那を復興せよ」と遺言した。天皇の実在が確かなのは、この人あたりから。
- 聖徳太子人物AD574年 – AD622年冠位十二階と十七条憲法を定め、隋へ使者を送った。仏教を国づくりの柱に据える。
- 隋国AD581年 – AD618年南北朝の分裂を約300年ぶりに終わらせた。大運河を掘って南北を物流でつなぎ、37年で倒れる。
- 蘇我氏と物部氏の戦いできごとAD587年仏教を受け入れるかどうかで二つの豪族が争い、蘇我氏が勝った。厩戸皇子が加わっていたと『日本書紀』は書く。以後、蘇我氏の下で仏教と大陸の制度が入ってくる。平城京

- 推古天皇の即位できごとAD592年記録に残る日本最初の女性の天皇。以後、江戸時代までに8人10代の女性天皇が立つ。豊浦宮(位置は特定されていない)
- 冠位十二階できごとAD603年(推古11年)氏でなく個人に徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12。紫、青、赤、黄、白、黒の冠。氏でなく個人に、世襲でなく功績で。隋と百済と高句麗の制度を見て作った。小野妹子は隋へ渡ったとき「大礼」で、のちには最上位の「大徳」だった。官僚の始まり。飛鳥

- 憲法十七条できごとAD604年(推古12年)4月和を以て貴しと「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」。「篤く三宝を敬へ」。「詔を承りては必ず謹め」。役人の心得。儒教と仏教と法家。憲法という名だが、憲法ではない。『日本書紀』が全文を載せ、後世の作という説が江戸時代から消えない。飛鳥
- 遣隋使できごとAD607年対等を主張しつつ、制度は学んでいる「日出づる処の天子」の国書を送った。対等を主張し、隋の煬帝を怒らせたと伝わる。長安
- 唐国AD618年 – AD907年制度も都の形も、ここから写した長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。安史の乱で西域を失い、以後は縮んでいく。
- 天智天皇(中大兄皇子)人物AD626年 – AD672年1月7日入鹿を斬った皇子蘇我入鹿を宮中で斬り、大化の改新を始め、20年皇太子のまま政治を執った。白村江で負け、都を近江に移し、最初の戸籍を作り、水時計を置いた。死の床で弟に位を譲ろうとし、弟は出家して吉野へ逃げた。翌年、壬申の乱。
- 大化の改新できごとAD645年蘇我氏を倒し、唐にならった中央集権を目指した。土地と人民を国のものとする方針を打ち出す。飛鳥
- 持統天皇人物AD645年 – AD703年春過ぎて夏来にけらし天智の娘で天武の妻。壬申の乱を夫と共に吉野から戦い、夫の死後、息子を失って自ら即位した。飛鳥浄御原令を施行し、藤原京を建て、孫に譲って最初の太上天皇になった。「春過ぎて夏来にけらし」の歌はこの人のもの。
- 百済の滅亡できごとAD660年白村江の前唐の13万が海から、新羅の5万が陸から来た。階伯の5000が黄山で四度勝って五度目に全滅し、都の泗沘が落ちた。王は唐へ連れ去られ、遺臣が日本に救援を求めた。それが白村江になる。泗沘(扶余)
- 白村江の戦いできごとAD663年大敗のあと、写す側に回る倭が百済を助けて唐・新羅に大敗した。以後、日本は防衛を固めつつ唐の制度を学ぶ側に回る。白村江(位置は特定されていない)
- 近江大津宮への遷都できごとAD667年海から遠い所へ白村江に負けて4年、中大兄皇子は都を飛鳥から琵琶湖のほとりに移し、翌年即位した。唐と新羅が来るなら、海から遠い所へ。5年で壬申の乱が起き、都は飛鳥に戻る。大津(近江大津宮)
- 行基人物AD668年 – AD749年民は菩薩と呼んだ河内の渡来系の家に生まれ、僧の外出を禁じる法を破って民に説き、橋と池と布施屋を作った。朝廷は「小僧行基」と咎め、それから大仏の勧進に使った。日本で最初の大僧正。民は菩薩と呼んだ。
- 庚午年籍できごとAD670年女ばかりの偽の戸白村江で敗れた天智天皇が、全国の民を戸ごとに登録させた。姓と名と年齢と続柄。これに基づいて口分田を配り、租庸調と兵役を課す。日本で最初の全国的な戸籍とされ、氏姓の根本台帳として永久保存が命じられた(のちに失われた)。数えられることは、土地を与えられることであり、同時に税と徴兵の名簿に載ることでもあった。逃亡した者を追う仕組みでもあり、8世紀の戸籍には、実態と合わない女性ばかりの戸が並ぶ(兵役逃れのための偽籍)。飛鳥
- 漏剋できごとAD671年(天智10年)4月25日時を知らせることは、人を同じ時刻に動かすことである天智天皇は近江大津宮で、水時計を新しい台に据え、鐘と鼓を打って時を知らせ始めたと『日本書紀』は記す。桶から桶へ一定の速さで水を落とし、溜まった水に浮かべた目盛りで時刻を読む。役人は、その合図で宮に出仕し、合図で退く。時を知らせることは、人を同じ時刻に動かすことである。時刻は天子が与えるものだという考えは、唐の国から学んだ。のちにこの日にちなんで、6月10日が「時の記念日」と定められた。大津(近江大津宮)
- 壬申の乱できごとAD672年古代最大の内乱。勝った側が律令と歴史書を作る天皇の弟と子が争い、弟が勝った。勝った側が権力を集め、律令と歴史書の編纂を進める。「天皇」の語が使われはじめるのもこの前後になる。平城京

- 藤原京できごとAD694年最初の計画された都唐の都を写して碁盤の目に道を通し、宮を中央に置いた。日本で最初の、計画された都。持統天皇が移り、16年使われ、平城京に移って捨てられた。田の下に、その道の跡が埋まっている。藤原京

- 渤海の建国できごとAD698年日本へ34回使節を送った国高句麗が滅びて30年、その遺民と靺鞨が満洲東部に国を建てた。唐の制度と文字を写し、日本へ34回使節を送る。「海東の盛国」と呼ばれた。上京竜泉府
- 渤海国AD698年 – AD926年(契丹による滅亡)日本と34回使節を交わした高句麗の遺民と靺鞨が満洲に建てた。唐の制度を写し、「海東の盛国」と呼ばれた。日本と34回使節を交わしている。契丹に一年で滅ぼされた。
- 氷室できごとAD700年頃暑い季節に冷たいものを出せることが、権力の見せ方だった冬に山で採った氷を、藁と土で覆った穴に入れ、夏まで保つ。『日本書紀』は仁徳朝の話として伝え、律令では宮内省に主水司が置かれ、氷池と氷室が管理された。旧暦六月一日の氷の節句に、朝廷が氷を配る。清少納言が削り氷に甘葛をかけたものを書いている。氷は献上品であり、贈られる相手の格を示した。同じ仕組みは、ペルシアのヤフチャール、中国の凌陰、ローマの雪の貯蔵にもある。暑い季節に冷たいものを出せることが、権力の見せ方だった。奈良
- 条里できごとAD8世紀制度は二百年で消えたが、地面に刻んだ線は千三百年残った律令の国家が、田を格子に区切った。一辺が六町(約六百五十メートル)の里を並べ、その中をさらに一町ごとの坪に分ける。何条何里何坪と言えば、どの田かが特定できる。班田収授のためには、誰にどの田を与え、死ねば返させるかを台帳で管理しなければならず、そのためには土地に住所が要った。日本で最初に、地面そのものに番地を振った制度である。班田の仕組みは早くに崩れたが、格子は残った。奈良盆地や讃岐の平野の道と畦は、いまも千三百年前の線をなぞっている。平城京
- 聖武天皇人物AD701年 – AD756年朕は三宝の奴疫病と反乱と飢饉の中で都を三度動かし、国ごとに国分寺を建てさせ、大仏を発願した。「朕は三宝の奴」と言った。出家した最初の天皇。遺品が正倉院に残った。
- 光明皇后人物AD701年 – AD760年正倉院の始まり藤原不比等の娘で、皇族以外から最初の皇后になった。施薬院と悲田院を置き、千人の垢を自分で洗ったという伝説がある。夫の遺品を東大寺に納め、それが正倉院になる。
- 大宝律令できごとAD701年(大宝元年)日本と名乗った年刑部親王と藤原不比等が唐の律令を手本に、律6巻、令11巻。二官八省、班田収授、租庸調、戸籍。年号「大宝」。日本が「日本」と名乗り、天皇が「天皇」と書かれ、法で国が動くようになった最初の年。律令そのものは残らず、養老令の注釈から復元されている。藤原京
- 雅楽寮できごとAD701年唐の宮廷音楽が制度になった大宝令で治部省の下に置かれた。唐楽、高麗楽、百済楽、新羅楽、そして倭の歌舞を、国家が教習させる役所である。楽師と楽生の定員が令に書かれている。大陸から来た音楽が、朝廷の儀式の音として制度に組み込まれた。唐の宮廷音楽そのものは中国では失われ、日本の雅楽と正倉院の楽器に、その形の一部が残った。平城京
- 平城京遷都できごとAD710年長安を手本にした碁盤の目の都。律令国家の形が整う。平城京
- 『古事記』の完成できごとAD712年(和銅5年)4か月で書いた天武天皇が稗田阿礼に誦習させた帝紀と旧辞を、太安万侶が4か月で書いた。3巻。神代から推古まで。「上巻は神、中巻は英雄、下巻は王」。漢字で日本語を書こうとして、「音と訓を混ぜた」。読めなかった。本居宣長が35年かけて読んだ。平城京
- 孝謙天皇(称徳天皇)人物AD718年 – AD770年最後の女性天皇、850年聖武と光明の娘で、女性で唯一の皇太子から天皇になった。譲位して、また戻った。僧の道鏡を法王にし、皇位を継がせようとして止められた。死後、女性天皇は850年途絶える。
- 『日本書紀』の完成できごとAD720年(養老4年)一書に曰く舎人親王が編んだ30巻と系図1巻。漢文。神代から持統まで。「一書に曰く」と異伝を並べた。年月日をつけた。「日本」の名で書かれた最初の史書。六国史の最初。『古事記』は読まれず、こちらが正史として1000年読まれた。平城京
- 長屋王の変できごとAD729年(神亀6年)四兄弟が同じ年に天武の孫、左大臣長屋王が「密かに左道を学んで国家を傾ける」と密告され、兵に囲まれて妻子と共に自殺した。藤原の四兄弟が光明子を皇后にするために。8年後、四兄弟は天然痘で同じ年に死に、「長屋王の祟り」と言われた。1988年、邸宅跡から木簡が出た。平城京
- 天平の疫病できごと735年大仏はこの直後大宰府から入った天然痘が都に達し、藤原四兄弟が全員死んだ。人口の3割前後が失われたとする推計がある。大仏の造立はこの直後になる。平城京
- 桓武天皇人物AD737年 – AD806年平安京へ百済王家の血を引く母から生まれ、奈良の寺の力を切るために長岡へ、それから平安京へ都を移した。蝦夷を三度攻め、坂上田村麻呂に阿弖流為を降らせた。最澄を支え、「軍事と造作」をやめて死んだ。
- 国分寺建立の詔できごとAD741年天然痘の大流行で朝廷の有力者が次々に死に、反乱も起き、飢饉が続いた。聖武天皇は、仏の力で国を守ろうと考えた。741年、国ごとに僧寺と尼寺を建て、経典を置いて国の平安を祈らせる詔を出す。都から遠く離れた土地にも、七重の塔が立ち並ぶことになった。各地の寺は、仏教を広めると同時に、都の権威を地方に見せつける建物でもあった。いまも各地の地名に国分寺の名が残っている。平城京
- 墾田永年私財法できごとAD743年国の土地という建前が崩れ始めた律令の国家は、土地はすべて国のもので、人に割り当てて耕させ、死ねば返させる建前だった。人口が増えると割り当てる田が足りない。723年、新しく開いた田は三代まで私有を認めたが、期限が来れば返すので、開墾は進まなかった。743年、聖武天皇の朝廷は、開いた田は永久に私有してよいと改める。財力のある貴族や寺社が人を集めて土地を開き、やがて荘園が広がっていく。国の土地という建前が、ここから崩れ始めた。平城京
- 大仏開眼できごとAD752年国家が仏教に賭けた事業国分寺の総本山として、都の東大寺に巨大な盧舎那仏を造ることになった。聖武天皇は、一枝の草、一握りの土を持ち寄ってでも力を貸したい人は加わってよい、と呼びかける。朝廷に弾圧されていた僧の行基が、民衆を率いて協力した。銅四百トン以上を使い、延べで二百六十万人が関わったとされる。752年、インドから来た僧が筆で仏の目を描き入れる開眼の儀式を行い、一万人の僧が集まった。国の財政は大きく傾いた。平城京
- 鑑真の来日できごとAD753年五度失敗し、失明してから着いた五度の渡海に失敗し、失明してから六度目で着いた。僧が正式に僧になる手続きが、これで日本に整う。唐招提寺を開いた。平城京
- 正倉院の楽器できごとAD756年五絃琵琶は世界にひとつ聖武天皇の四十九日に、光明皇后が遺愛の品を東大寺に納めた。その中に楽器が18種75件あった。螺鈿紫檀五絃琵琶(世界に現存する唯一の五絃琵琶。インド起源で、ペルシアと唐を経て来た)、漆胡瓶、箜篌(ハープ)、尺八、方響。国家が管理する倉に、1250年、風だけが通る校倉で保たれた。同じ時代のものが、原産地のどこにも残っていない。奈良
- 『万葉集』の成立できごとAD759年頃防人から乞食まで20巻、4500首。天皇から防人、遊女、乞食まで。大伴家持が最後の歌を759年に詠み、その後に編んだと考えられている。漢字の音で日本語を書いた「万葉仮名」。「令和」はこの本の梅の歌の序文から。読み方の研究は951年に梨壺の五人が訓をつけたことに始まり、鎌倉時代の仙覚の新点で固まる。平城京
- 藤原仲麻呂の乱できごとAD764年(天平宝字8年)恵美押勝光明皇后の甥で、淳仁天皇を立てて「恵美押勝」を名乗った男が、皇后の死で力を失い、孝謙上皇と道鏡に追い詰められて近江で挙兵し、琵琶湖の岸で捕えられて斬られた。淳仁は淡路に流されて翌年死んだ。上皇が重祚して、道鏡が法王になった。平城京

- 宇佐八幡神託事件できごとAD769年臣を君にしてはならない「道鏡を皇位に就ければ天下は太平」という神託が宇佐から届いた。和気清麻呂が確かめに行き、「臣を君にしてはならない」という逆の神託を持ち帰った。大隅に流された。翌年、天皇が死んで道鏡も落ちた。宇佐
- 道鏡人物? – AD772年法王河内の弓削氏の僧。孝謙上皇の病を癒して寵を得、太政大臣禅師、法王になった。宇佐八幡の神託で皇位を求め、和気清麻呂に阻まれた。天皇の死後、下野に流された。
- 嵯峨天皇人物AD786年10月3日 – AD842年8月24日50人の子を源氏に桓武の子。兄平城から譲られ、薬子の変で兄を退けた。蔵人所と検非違使。『凌雲集』『文華秀麗集』。空海、橘逸勢と三筆。50人の子を源氏にした。嵯峨源氏。退位して嵯峨院に住み、その跡が大覚寺。「薄葬にせよ」と遺言した。
- 平安京遷都できごとAD794年この都が1000年以上続く。やがて遣唐使も止まり、独自の文化が育つ。京都
- 円仁人物AD794年 – AD864年最澄の弟子。最後の遣唐使で渡って9年半留まり、日記『入唐求法巡礼行記』を残した。帰って天台の座主になる。
- 最澄と空海の入唐できごとAD804年同じ船団で渡り、別のものを持ち帰った同じ船団で渡り、別のものを持ち帰った。最澄は天台、空海は密教。以後の日本の仏教は、ほとんどこの二人の系統から分かれる。長安
- 藤原良房人物AD804年 – AD872年皇族でない最初の太政大臣、最初の摂政。娘を天皇に嫁がせ、9歳の孫を即位させた。応天門の変で政敵を退け、摂関政治の型を作る。
- 薬子の変できごとAD810年(弘仁元年)9月都を奈良に戻せ退位した平城上皇が平城京に戻り、寵愛する藤原薬子と兄仲成が「都を奈良に戻せ」。嵯峨天皇は坂上田村麻呂に固めさせ、上皇は東国へ向かう途中で引き返して出家した。仲成は射殺され、薬子は毒を飲んだ。藤原式家は倒れ、北家の冬嗣が蔵人頭になった。京都
- 空海の高野山開創できごとAD816年(弘仁7年)庶民の学校と満濃池804年、無名の私度僧として遣唐使船に乗り、長安の青龍寺で恵果に会った。恵果は「私は長くこの日を待った」と言い、3か月で密教の全部を伝えて、その年に死んだ。806年帰国。816年、嵯峨天皇から高野山を賜った。曼荼羅、真言、灌頂、即身成仏。彼は書の名手で、辞典を作り、日本最初の庶民の学校を開き、満濃池を修築した。835年、入定。いまも生きているとして、毎日、食事が運ばれている。高野山
- 藤原基経人物AD836年 – AD891年2月25日人臣が天皇を選んだ最初良房の養子。応天門で伴善男を追い、陽成天皇を「乱行」で退けて光孝天皇を立てた。「関白」の最初。阿衡で宇多天皇を屈させた。娘の穏子を醍醐天皇の后に(朱雀・村上の母)。息子時平が道真を追った。人臣が天皇を選んだ最初の人。
- 円仁の入唐求法できごとAD838年最後の遣唐使最後の遣唐使で渡り、9年半唐に留まった。日記に山と寺と役所と物価を書き、会昌の廃仏を目撃した。当時の唐を知る一級の記録になる。長安
- 承和の変できごとAD842年(承和9年)7月他氏排斥の最初嵯峨上皇が死んだ2日後、伴健岑と橘逸勢が皇太子恒貞親王を擁して謀反、と密告された。皇太子は廃され、道康親王(文徳)が太子に。母は藤原良房の妹。橘逸勢は流される途中で死んだ。良房が作った事件と考えられ、藤原北家の他氏排斥の最初。京都
- 藤原良房の摂政できごとAD858年摂関政治の型がここで決まる皇族でない者が初めて摂政になった。娘を天皇に嫁がせ、孫を幼くして即位させる。摂関政治の型が、ここで決まる。京都
- 応天門の変できごとAD866年(貞観8年)閏3月人臣で初めて摂政に大内裏の門が燃えた。大納言伴善男が「左大臣源信が放火した」と告発し、藤原良房が信を守った。8月、逆に善男が犯人だと訴えられ、伊豆へ流された。伴(大伴)氏は消え、良房は摂政の詔を受けて、人臣の摂政が正式なものになった。『伴大納言絵詞』が門の火を描いている。京都

- 貞観地震できごとAD869年7月9日(貞観11年5月26日)海が吼えて陸奥で大地震。「海が吼えて、大津波が城下を襲い、千人が溺れた」と『三代実録』。多賀城の下まで海が来た。1990年代から津波の砂の層が調べられ、2011年の前に「1000年に一度の津波」が警告されていた。同じ場所に、同じ高さで来た。多賀城
- 阿衡の紛議できごとAD888年(仁和4年)半年出仕を止めた宇多天皇が藤原基経を関白にする詔に「阿衡の任」と書いた。基経は「阿衡は位だけで職務がない」と半年出仕を止めた。天皇は詔を書き直し、起草した橘広相を罰した。関白の力が天皇を上回ることを見せた。宇多は基経の死後、菅原道真を用いた。京都
- 遣唐使の中止できごとAD894年制度を写す段階から、自分の形を作る段階へ菅原道真が建議した。唐が衰え、航海の危険に見合わない、と。以後、日本は大陸の制度を写す段階から、自分の形を作る段階に入る。京都
- 『竹取物語』できごとAD900年頃月へ帰る「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。竹から出た娘が五人の貴公子に無理な宝を求め、帝を退け、月へ帰る。物語の中で作り話の面白さを作った最初。『源氏物語』が「物語の出で来はじめの親」と呼んだ。作者は分からない。京都

- 『古今和歌集』できごとAD905年(延喜5年)仮名の序醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。京都

- 紀貫之『土佐日記』とかな文字できごとAD935年(承平5年)ごろ平安時代のはじめ、公の文書や男の学問は漢文で書かれ、漢字を崩した「かな」は、和歌や手紙に使う私の文字で、とくに女性の文字とされた。934年、土佐の国司の任期を終えて都へ帰る紀貫之は、その55日の船旅を日記に書いた。冒頭で彼は、男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、と記し、女性のふりをしてかなで書いた。漢文では書けない、旅の不安や、土佐で亡くした娘への悲しみが、日々の言葉でつづられた。かなで書く散文の道を開いたこの日記ののち、『蜻蛉日記』や『源氏物語』など、女性たちのかなの文学が花開いた。京都
- 藤原道長人物AD966年 – AD1028年娘を次々と天皇に嫁がせ、摂関政治の頂点に立った。「この世をば」の歌で知られる。
- 清少納言人物AD966年頃 – AD1025年頃『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
- 安和の変できごとAD969年(安和2年)3月他氏を追った最後左大臣源高明が、娘婿の為平親王を皇太子にする謀反を企てている、と源満仲が密告した。高明は大宰府へ。藤原氏が他氏を追った最後。以後、摂政と関白が常に置かれ、藤原北家が朝廷を持った。「摂関政治」の完成。京都
- 紫式部人物AD973年頃 – AD1014年頃『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
- 花山天皇の出家(寛和の変)できごとAD986年(寛和2年)6月父に別れを19歳の天皇が寵愛した女御を亡くして悲しみ、藤原兼家の子道兼が「一緒に出家しましょう」と夜、元慶寺へ連れ出した。天皇が剃髪すると道兼は「父に別れを」と逃げた。孫の一条天皇が7歳で即位し、兼家が摂政。道長の家は、ここから。京都
- 藤原頼通人物AD992年 – AD1074年3月2日宇治殿道長の長男。26歳で摂政、50年関白。娘に皇子が生まれず、藤原を外戚としない後三条が即位した。宇治に退いて平等院。「宇治殿」。父の栄華を守って、終わらせた。83歳。
- 寝殿造できごとAD10〜11世紀貴族の屋敷平安時代の京の貴族たちは、寝殿造と呼ばれる屋敷に住んだ。敷地の中央に南を向いた寝殿を置き、その東西や北に対屋を配して渡り廊下で結び、南には池と築山のある庭を設けた。建物の中には、ほとんど固定した壁が無く、広い板敷きの空間を、御簾や几帳、屏風で仕切って使った。畳は、人が座ったり寝たりするところにだけ敷く敷物だった。開け放たれた屋敷は、庭の四季を楽しむには向いていたが、冬は寒かった。のちの書院造では、部屋を襖で仕切り、畳を敷き詰め、床の間を設けるようになり、日本の和室のもとになった。京都
- 『枕草子』できごとAD1002年頃好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。京都

- 『源氏物語』できごとAD1008年頃長編の物語として世界で最も古い部類に入る。作者の本名は分かっていない。京都

- 摂関政治の頂点できごとAD1016年藤原氏が天皇の外戚として権を握った。この頃『源氏物語』が書かれる。京都
- 後三条天皇人物AD1034年9月3日 – AD1073年6月15日170年ぶり後朱雀の子。母は三条の娘禎子内親王。藤原を母としない天皇は宇多以来170年ぶり。皇太子を25年。頼通が退いて即位した。荘園整理、枡、大江匡房。4年で白河に譲り、院政を始めるつもりで、翌年死んだ。数え40歳。
- 前九年の役できごとAD1051年(永承6年)12年陸奥の安倍氏が納税を止め、源頼義が12年戦った。黄海で負け、出羽の清原氏を味方につけ、厨川で安倍貞任を殺した。頼義の子義家が「衣の館はほころびにけり」と歌を詠みかけ、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。源氏が東国の武士を得た。衣川

- 末法の始まりできごとAD1052年(永承7年)経塚釈迦の死から2000年、正法1000年、像法1000年が終わり、末法1万年が始まると計算された。教えだけ残って行も証もない。この年、頼通が平等院を。源信の『往生要集』が読まれ、経を土に埋める経塚が各地に。法然、親鸞、日蓮、道元は末法の中で生まれた。京都
- 平等院鳳凰堂できごとAD1053年(天喜元年)10円玉末法の始まりの翌年、藤原頼通が宇治の別荘を寺にして、池の中島に阿弥陀堂を建てた。定朝の阿弥陀如来。寄木造。52体の雲中供養菩薩。天井の鏡。扉の来迎図。極楽をこの世に。10円玉に、鳳凰堂。1万円札に、鳳凰。平等院

- 延久の荘園整理令できごとAD1069年(延久元年)170年ぶり藤原の外戚でない後三条天皇が、170年ぶりに即位して、記録荘園券契所を置き、証文のない荘園を取り上げた。摂関家の荘園も。大江匡房が助けた。枡を統一した。「延久の宣旨枡」。4年で譲位して院政を考え、翌年死んだ。白河がそれを継いだ。京都
- 院政の開始できごとAD1086年天皇を退いた上皇が実権を握る。摂関家の力が落ち、やがて武士が政治の表に出てくる下地になる。京都
- 一遍の遊行できごと1274年寺を持たず、16年歩き続けて念仏の札を配った。踊り念仏には身分も性別も関係なく人が集まる。その旅の絵巻が、中世の市や港や道の姿を今に伝えている。京都
- 『平家物語』と琵琶法師できごとAD1371年盲人の職能集団鎌倉のはじめ、盲目の僧が琵琶を弾きながら平家の滅びを語り歩いた。文字で読む本ではなく、耳で聞く物語。祇園精舎の鐘の声。当道座という盲人の職能集団が、語りの流派と伝授を管理した。1371年、覚一が語りを整理して口述筆記させた(覚一本)。能・浄瑠璃・歌舞伎が、この物語から題材を取り続けた。日本語の散文の調べを作った。京都
- 五山の制できごとAD1386年幕府の外交と金融足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。京都
- 琉球王国の統一できごとAD1429年三山を統一尚巴志が北山・中山・南山の三山を統一して、首里を都にした。明に朝貢し、日本と朝鮮とシャムとマラッカとジャワを結ぶ中継貿易で栄えた。1458年の「万国津梁の鐘」の銘。「舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十方刹に充満せり」。武器を持たない国、というのは後の話で、実際には城と軍があった。首里
- 銀閣と東山文化できごとAD1482年政治に失敗した将軍応仁の乱で京が焼けた後、足利義政が東山に山荘を建てた。銀は貼られていない。観音殿と東求堂。同仁斎は、四畳半に付書院と違い棚を備えた、書院造の最初期の形で、いまの和室の原型になった。義政の周りに、同朋衆(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)が集まり、唐物の鑑定、座敷飾り、立花、香、そして茶の作法を整えた。政治に失敗した将軍が、日本の生活の形を残した。銀閣寺(慈照寺)
- 宗祇と連歌できごとAD1488年都と地方をつないだ五・七・五と七・七を、何人かで交互に、百句まで続ける。前の句に付けながら、前の前の句からは離れる(「打越を嫌う」)。式目という細かい規則がある。宗祇は身分の低い出から、連歌の第一人者になり、大名の間を旅して指導した。1488年の『水無瀬三吟百韻』(宗祇・肖柏・宗長)は連歌の最高作とされる。応仁の乱で公家が地方へ散った時代、連歌が、都と地方をつないだ。京都
- 将棋の持ち駒できごとAD1500年頃取った駒を打ち直すチェスも象棋も、取った駒は盤から消える。日本の将棋だけが、取った駒を自分のものとして打ち直せる。この規則がいつ生まれたかは分かっていない。16世紀の文献に現れる。駒に文字だけを書いて色で敵味方を分けないので、持ち駒が成立した、という説明がある。結果として、駒の総数が減らず、終盤ほど盤が複雑になる。引き分けが極端に少ない。取った駒を使うという発想が、他のどの系統にも現れなかったのは、いまも不思議とされる。京都
- 香道できごとAD15世紀末一度焚けば失われるものを、銘と由来の記録で残した香木を焚いて、その香りを当てる。日本ではこれを「嗅ぐ」ではなく「聞く」と言う。仏前に供える香から始まり、平安の貴族が衣に薫きしめ、室町の東山文化で作法として整った。志野宗信と三条西実隆が二つの流れの祖とされる。数種の香を順に聞き、組み合わせを言い当てる「組香」は、源氏物語の巻名を答えに使う。香木は一度焚けば失われ、同じ木の残りは年々減る。名香には銘が付き、由来が記録され、切り分けられて伝わる。消えるものを、記録によって残した。京都
- 唐辛子の伝播できごとAD1550年頃南蛮胡椒中南米原産。コロンブスが胡椒だと思って持ち帰り、胡椒(pimienta)から取った名を与えた。ヨーロッパでは当初、観賞用と薬だった。広めたのはポルトガル船である。1500年代、インドのゴアへ、東南アジアへ、そして中国と朝鮮へ。日本には16世紀に伝わった(南蛮胡椒、高麗胡椒)。安く、育てやすく、暑い土地でよく実る。100年ほどで、四川、湖南、タイ、韓国、ハンガリーの食が塗り替えられた。伝統に見えるものの多くは新しい。長崎
- 吉田光由人物AD1598年 – AD1673年京都嵯峨の豪商角倉家の一族に生まれた。角倉は河川の開削と朱印船貿易で知られる。一族の角倉素庵に学び、明の『算法統宗』を読んで数学に入った。1627年、二十九歳で『塵劫記』を著す。絵を多く入れ、実用と遊びを並べ、版元を変えながら生涯に何度も改訂した。海賊版が横行したため、巻末に答えの無い問題を置いて自著を見分けさせた。それが遺題継承の慣行になった。晩年は失明したと伝えられる。
- 醤油できごとAD1600年頃江戸の食が、濃口を前提にできた大豆と小麦に麹菌を生やし、塩水に仕込み、半年から数年寝かせる。菌の酵素がタンパク質をアミノ酸に、澱粉を糖に分解する。中国の醤が原型で、鎌倉期に紀州湯浅で径山寺味噌を作る際、樽の底に溜まる液が使われるようになったと伝えられる。江戸期に湯浅、野田、銚子で量産され、関東の濃口が江戸の味を決めた。オランダ東インド会社が樽で輸出し、ヨーロッパの宮廷の食卓にも上っている。湯浅
- 算盤と読み書き算盤できごとAD17世紀武士のためではなく、商人と百姓のための数学だった中国の算盤が室町の終わりに伝わり、日本で珠の数を減らした形に変わった。上に一つ、下に四つ。1627年、吉田光由の『塵劫記』が出る。米の売買、面積、両替、旅の日数を、絵入りで解いてみせた。海賊版が溢れるほど売れ、寺子屋の教科書になった。武士のためではなく、商人と百姓のための数学である。答えを載せない問題を巻末に置く習慣が生まれ、解いた者がまた本を出す。和算という、実務から離れた数学の伝統が、その連鎖から育った。江戸
- 五街道と宿場できごとAD1601年(慶長6年)街道を維持する費用を、沿道の農民が払っていた関ヶ原の翌年、徳川家康は東海道の宿駅に、人足と馬を常備させる制度を敷いた。公用の書状と荷は、宿ごとに人と馬を替えて運ばれる。やがて中山道、日光、奥州、甲州を加えた五街道が整えられ、一里塚が築かれ、並木が植えられた。参勤交代で大名の行列が毎年往復し、宿場町が育つ。同時に、この道は管理の道具でもあった。関所で人と武器を検め、橋を架けない川では渡しを止められる。速く動かすための道と、動きを止めるための関所が、同じ制度の中にあった。東京
- 箱根の関所できごとAD1619年入り鉄砲に出女幕府が東海道の峠に置いた。目的は入り鉄砲と出女を止めることにある。武器が江戸へ入るのを防ぎ、大名が人質として江戸に置いた妻子が逃げるのを防ぐ。女性は特に厳しく、人相書と照合され、髪をほどかれ、改め婆に体を検められた。男の手形は寺か領主が、女の手形は幕府の留守居が発行する。海と山に挟まれた地形で、迂回する間道も見張られた。関所破りは磔である。人の移動を許可制にすることが、支配の道具として機能した二百五十年である。箱根
- 三井高利人物AD1622年 – AD1694年伊勢松坂の商家の八人兄弟の末子。十四歳で江戸の兄の店へ出て、才を認められ、そして疎まれて呼び戻された。以後二十年以上、松坂で金貸しをしながら機を待った。兄の死後、五十二歳で江戸に越後屋を開く。現金払い、正価、切り売り、そして店頭販売。両替商も兼ね、幕府の公金の為替を扱って信用を得た。息子たちに家を分けず、一族の共有財産として経営する形を定めた。その仕組みが、後の三井の基礎になった。
- 塵劫記できごとAD1627年吉田光由が、明の『算法統宗』を下敷きに、日本の暮らしに合わせて書いた算術の入門書である。算盤の使い方、掛け算の九九、両替、検地、利息、そして継子立てや鼠算のような遊びの問題まで、絵入りで並べた。版を重ね、模倣と海賊版が無数に出て、江戸期を通じて最も読まれた数学の本になった。巻末に答えを付けない問題を残す遺題の形式を作り、それが次の著者への挑戦として受け継がれ、和算の発展を駆動した。京都
- 玉川上水できごとAD1653年水道の水を、井戸から汲む江戸は海を埋めて広がった街で、井戸を掘っても塩水が出る。多摩川の羽村で取水し、四十三キロを掘って四谷まで導いた。標高差は約92メートル、一キロあたり平均二メートルの勾配である。測量は夜、提灯の火を並べて行ったと伝えられる。玉川兄弟が請け負い、二度失敗して工費を自弁したという伝承が残る。市中では木と石の樋を地下に埋めて配り、井戸の形をした汲み上げ口から使った。上水を汚す行為は厳しく罰せられた。江戸
- 藩札できごとAD1661年国家の統一通貨が無い時代の、地域の通貨福井藩が発行したものが、確実な記録として最も古い部類とされる。幕府の貨幣は金銀銅の三種で、地方では現物が不足した。藩は領内限りで通用する紙の札を刷り、年貢と引き換えに回収する。財政が苦しければ刷り増す。正貨との交換を渋れば値が下がり、領民が損をする。二百四十以上の藩が発行した。幕府は禁止と黙認を繰り返した。明治になって新政府が引き受け、額面を大幅に切り下げて整理した。国家の統一通貨が無い時代の、地域の通貨である。江戸
- 飛脚できごとAD1663年二人一組で走り継ぐ江戸と大坂を、二人一組で走り継ぐ。継飛脚は幕府の公用で、東海道を三日から四日で走った。町飛脚は民間で、定期便を出し、書状も金銀も荷も運んだ。大坂の商人が仕立てた三度飛脚は、月に三度、定日に発した。為替と手形も、この網に乗った。江戸の相場を大坂へ、大坂の米相場を江戸へ。堂島の米相場は、旗振り通信という別の手段でも、飛脚よりはるかに速く送られた。江戸
- 関孝和と和算できごとAD1683年神社に奉納された問題甲府藩、のち幕府の勘定方に仕えた武士が、中国伝来の数学を組み替えた。算木を並べる代わりに、紙の上で未知数を記号で表す「傍書法」を作り、多元の高次方程式を扱った。行列式に相当する考え方を、ヨーロッパのライプニッツとほぼ同時期に得ている。円周率を小数第11位まで、円の求積を無限級数で。門人が全国に広がり、神社に問題と解答の絵馬を奉納する「算額」の風習が生まれた。数学が庶民の趣味になった、珍しい例である。江戸
- 現金掛け値なしできごとAD1683年それまでの呉服商は、屋敷へ反物を担いで行き、客の身分を見て値を決め、代金は盆暮の掛け払いである。焦げ付きを見込んで値を高くするしかない。三井高利は駿河町の店で、店頭売り、現金払い、そして値札による一物一価に切り替えた。誰が来ても同じ値である。さらに、一反を必要な分だけ切って売り、その場で仕立てた。回転が上がり、値を下げられる。同業から激しく妨害されたが、繁盛した。三越の前身であり、いまの小売の形の、早い一例である。江戸
- 江戸の下肥できごとAD1700年頃百万都市の排泄物は、捨てるものではなく買うものだった。近郊の百姓が船と桶で汲みに来て、代金を払う。長屋では、その代金が大家の収入になり、店賃の一部を肩代わりした。武家屋敷のものは食事が良いとされ、高く取引された。値をめぐる争いが訴訟になり、組合ができ、相場ができた。江戸に大規模な下水が要らなかったのは、これが理由である。同じ時期のロンドンとパリは、汚物を川に流し、そして疫病を得た。江戸
- 赤穂事件できごと1701年主君の刃傷で家を取り潰された47人が、1年9か月後に吉良邸を襲い、そろって切腹した。忠義と法のどちらを取るかで幕府は割れ、以後300年、日本人が繰り返し語り直す物語になる。江戸
- 江戸の再生の仕組みできごとAD1800年頃下肥を農家が買い取る人口100万の都市が、ごみをほとんど出さなかった。専門の買い手がいたからである。紙屑買いが古紙を集めて漉き返す。灰買いが竈の灰を買い、肥料と洗剤と染色に回す。古着屋、鋳掛屋、瀬戸物の焼き接ぎ、樽と桶の箍の直し。そして下肥。人の糞尿を、近郊の農家が買い取り、野菜にして市中へ戻した。値段が付き、盗まれる事件が起き、権利が売買された。捨てるものに値段が付けば、誰かが拾う。それだけの仕組みである。江戸
- 寺子屋できごとAD1800年頃年齢のばらばらな一部屋江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。江戸

- おかげ参りできごとAD1830年486万人60年ほどの周期で、何百万人もが、突然、伊勢神宮へ歩き出した。1705年に362万人、1771年に200万人、1830年に486万人(当時の人口の6分の1)。奉公人が主人に無断で、子供が親に黙って出る(「抜け参り」)。沿道の人が食事と草鞋と宿を無償で提供した(施行)。柄杓一本を持って歩けば、たどり着けた。祭りと、旅行と、日常からの逸脱が、一度に起きた。1867年の「ええじゃないか」へ。伊勢神宮

- うま味の発見できごとAD1908年だしの正体東京帝国大学の池田菊苗が、昆布だしの味は甘・酸・塩・苦のどれでもない第五の味だと考え、38キロの昆布を煮詰めてグルタミン酸ナトリウムの結晶を取り出した。「うま味」と名づけた。翌年、鈴木製薬所が「味の素」として売り出した。西洋の生理学は長くこれを認めず、2000年に舌のグルタミン酸受容体が見つかって、ようやく第五の基本味として受け入れられた。だしも、チーズも、トマトも、同じ分子を含んでいる。東京
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
ムンディ先生の講義で学ぶ歴史25件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。誰が書き残したか20件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。表現の歴史18件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。インドと仏教16件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。朝鮮半島11件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。国風文化 — かなと宮廷の女たち11件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。武士の700年10件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。都市の歴史9件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。主権はだれのものか9件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。交易路とお金9件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。女性の権利8件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。コテンラジオで聞く歴史7件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。考えることの歴史5件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。確かめるという方法5件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。技術と産業4件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。『日本の歴史をよみなおす』で読む日本4件を共有 / 日本は農業の国で、百姓は農民だった。その前提を、史料の側から崩した本。住まいの歴史4件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。中国の王朝3件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。文明のはじまり3件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。教育の歴史3件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。お金の歴史3件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史3件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教2件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。元禄から化政へ — 江戸の町人文化2件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。