人物

王羲之

Wang Xizhi
AD303年 – AD361年(享年58・推定)
東晋重要度 4

概要

書聖。曲水の宴で酔って書いた序文が、書の手本の頂点になった。真筆は一つも残っていない。唐の太宗が集めて墓に持っていったと伝わる。

関わったできごと(1)

蘭亭序AD353年 · 書いた

本文

琅邪(いまの山東省)の王氏に生まれた。西晋が北方の諸民族に追われて江南へ逃れ、東晋の成立が成ると、この一族はその柱になった。一族の王導は東晋を立てた宰相で、「王と馬(司馬氏の皇帝)が天下を共にする」と言われた。王羲之はその甥の世代にあたる。生年は303年とされることが多いが、307年、321年とする説もあり、没年も揺れる。

王羲之
王羲之Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

幼くして父を失い、口が重く、目立たない子だったと伝わる。書は、当時の名手として知られた衛夫人に学んだとされる。成人すると、口べたの評判とは裏腹に、才気のある青年として名を知られるようになった。

人柄を伝える話として、婿選びの逸話がある。重臣の郗鑑が王家へ使いを出し、息子たちの中から娘婿を選ばせた。ほかの若者たちが身なりを正してかしこまる中、ひとりだけ東の寝台で腹を出して寝そべり、平然と物を食べている者がいた。郗鑑は「その者こそよい」と言い、娘を嫁がせた。それが王羲之だった。『世説新語』に載る話で、気取らない婿を「東床」と呼ぶ言葉はここから来ている。

『晩笑堂竹荘畫傳』所収の王羲之
『晩笑堂竹荘畫傳』所収の王羲之Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

役人としては地方の長官や将軍職を務め、右軍将軍、会稽内史に至った。後世「王右軍」と呼ばれるのはこのためである。会稽(いまの浙江省紹興)は山水の美しい土地で、多くの名士が住んでいた。王羲之はここで、民の負担を軽くするよう朝廷に意見したり、飢饉で倉を開いたりしたことが記録に残る。

353年の三月三日、王羲之は会稽の蘭亭に名士40人あまりを招き、水辺で身を清める行事を開いた。曲がりくねった流れに杯を浮かべ、杯が自分の前に来るまでに詩を作る。作れなければ罰の酒を飲む。その日に集まった詩に、王羲之が序文を書いた。それが蘭亭序である。酒に酔って一気に書いたとされ、後日、何度書き直してもそれ以上のものは書けなかったと伝わる。300字あまりの中に「之」の字が20回ほど出てきて、一つとして同じ形がないことでも知られる。

蘭亭序に関わる図版:Lanting rubbing1
蘭亭序Wikimedia Commons Public domain

文章の中身も、ただの宴の記録ではない。楽しい集まりもやがて過去になり、人の命には限りがある。後の人がこの文を読むとき、いまの自分たちが昔の人を思うのと同じ気持ちになるだろう、と結んでいる。書としても文としても、行書の頂点とされることになった。

政治の世界では、同じ会稽の上役となった王述と折り合いが悪かった。355年、王羲之は父母の墓の前で二度と仕えないと誓い、官を辞したと伝わる。その後は会稽で、道教の養生術や薬草を学び、山水を巡って暮らした。鵞鳥を好み、山陰の道士に経典を書いてやって鵞鳥の群れをもらった話が『晋書』の伝にある。書いた経典を『道徳経』とする話と『黄庭経』とする話がある。

『蘭亭序』神龍半印本(部分)
『蘭亭序』神龍半印本(部分)Wikimedia Commons copyst after Wang Xizhi (ACE 303-361) · Public domain

没年は『晋書』にもとづいて361年とされることが多い。子のうち、七男の王献之も書の名手となり、父子は「二王」と並び称された。

王羲之の書が絶対の手本になったのは、唐の唐の太宗によるところが大きい。太宗は王羲之の書を熱愛し、天下から真筆を集めさせた。蘭亭序の原本は、王羲之の子孫の僧が秘蔵していたのを、太宗の家臣が身分を偽って近づき、だまし取ったという話が伝わる。太宗はその模本を臣下に作らせて配り、原本は自分の陵(昭陵)に副葬させたとされる。

王羲之の書『快雪時晴帖』
王羲之の書『快雪時晴帖』Wikimedia Commons After Wang Xizhi · Public domain

その結果、真筆は一つも残っていない。いま見られるのは、唐代に原本の上に紙を置いて輪郭をなぞり、中を墨で埋めて作った精密な写し(双鉤塡墨)や、石に刻んで刷った拓本である。日本には、唐代の写しとされる「喪乱帖」が皇室に伝わっている。奈良時代には、光明皇后が東大寺に納めた宝物の中に王羲之の書が含まれていたことが記録にあるが、のちに失われた。

蘭亭序については、論争もある。1960年代、中国の郭沫若が、蘭亭序の文章と書風は東晋のものではなく、後世の作だと論じた。これに反論が相次ぎ、論争は決着していない。真筆が無いために、どこまでが王羲之その人の書なのかは、写しを通して推し量るしかない。

王羲之の書『楽毅論』
王羲之の書『楽毅論』Wikimedia Commons editor Wu Tien early 17th century · Public domain

それでも、行書と草書の型は、ほぼこの人から始まると言ってよい。唐の欧陽詢や顔真卿、日本の空海や三蹟まで、東アジアで筆を持った人は、王羲之の写しを手本にして字を学んできた。

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