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Event / できごと

宗祇と連歌

Sōgi and renga
AD1488年
重要度 4

概要

五・七・五と七・七を、何人かで交互に、百句まで続ける。前の句に付けながら、前の前の句からは離れる(「打越を嫌う」)。式目という細かい規則がある。宗祇は身分の低い出から、連歌の第一人者になり、大名の間を旅して指導した。1488年の『水無瀬三吟百韻』(宗祇・肖柏・宗長)は連歌の最高作とされる。応仁の乱で公家が地方へ散った時代、連歌が、都と地方をつないだ。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

連歌。上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を、別々の人が詠んで、つなぐ。それを100句まで続ける(百韻)。

規則(式目)。(1)前の句にだけ付ける。前の前の句(打越)とは、離れなければならない。同じ趣向が続いてはいけない。(2)月と花は、決められた位置に出す(月は各面に1回、花は百韻に4回など)。(3)同じ言葉、同じ題材(恋、旅、述懐、神祇、釈教)は、一定の間隔を空ける。(4)序破急。始めは穏やかに、中で変化し、終わりは軽く。

一人の作者が作品を作るのではない。数人が、決められた席で、順に付ける。前の人の句を読み替え、そこから離れる。全体を通した筋はない。むしろ、筋ができることを避ける。

宗祇。1421年生まれ。出自は不明(近江か紀伊。父は連歌師だった、あるいは身分の低い出)。若い頃、京都の相国寺にいた。30歳を過ぎてから、連歌を宗砌と心敬に学んだ。

彼が生きた時代は、応仁の乱(1467〜77年)と、その後。京の公家と文化人が、地方の大名を頼って散った。宗祇も旅を続けた。越後の上杉、周防の大内、駿河の今川、越前の朝倉、関東の古河公方。行った先で、連歌を巻き、『源氏物語』と『伊勢物語』と『古今集』を講じた。

1471年、東常縁から「古今伝授」を受けた(『古今和歌集』の解釈の秘伝を、限られた者だけに口伝で伝える。宗祇が受けたことで、それが公家から歌人へ、そして地方へ広がる筋道ができた)。

1488年正月22日、摂津の水無瀬宮(後鳥羽院を祀る)。宗祇、肖柏、宗長の三人で、百韻を巻いて奉納した。『水無瀬三吟百韻』。

発句(宗祇)「雪ながら山もとかすむ夕かな」(後鳥羽院の「見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」を踏まえる)。 脇(肖柏)「行く水とほく梅にほふ里」。 第三(宗長)「川風に一むら柳春見えて」。

以後97句。四季、恋、旅、無常が、つながっては離れていく。連歌の最高作とされる。

1495年、『新撰菟玖波集』(勅撰に准じる連歌集)を撰進した。連歌が、和歌と並ぶ地位を得た。

1502年、越後から東国へ向かう旅の途中、箱根湯本で死んだ。81歳。弟子の宗長が看取り、『宗祇終焉記』を書いた。定家の「ながむる月に立ちぞうかるる」の句を口ずさんだ、と記す。

その後。連歌は、規則が細かくなりすぎて硬直し、代わりに、規則を崩して笑いを入れた「俳諧の連歌」が広がった(山崎宗鑑、荒木田守武)。それが、松永貞徳、西山宗因を経て、松尾芭蕉の蕉風俳諧になる。芭蕉の『奥の細道』は、宗祇の旅の跡をたどる意識で書かれている。「宗祇の時雨」。

そして、連歌の発句だけが独立して、俳句になった。

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