宗祇と連歌
概要
五・七・五と七・七を、何人かで交互に、百句まで続ける。前の句に付けながら、前の前の句からは離れる(「打越を嫌う」)。式目という細かい規則がある。宗祇は身分の低い出から、連歌の第一人者になり、大名の間を旅して指導した。1488年の『水無瀬三吟百韻』(宗祇・肖柏・宗長)は連歌の最高作とされる。応仁の乱で公家が地方へ散った時代、連歌が、都と地方をつないだ。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
宗祇AD1421年–AD1502年9月1日 · 巻いた本文
連歌は、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を、別々の人が詠んでつないでいく詩である。一人が五・七・五を出すと、次の人がそれに七・七を付け、さらに次の人が五・七・五を付ける。これを100句まで続けるのが正式の形で、百韻と呼ぶ。数人が一つの席に集まり、書き役(執筆)が句を懐紙に書き留めながら、半日から一日をかけて巻いていく。
連歌には式目と呼ばれる細かい規則がある。南北朝時代に二条良基がまとめた『応安新式』が、その土台になった。いちばん大事なのは、前の句にだけ付け、その前の句(打越)からは離れることである。三つの句が同じ趣向でつながると、流れが一か所に淀む。それを嫌う。月と花は決まった位置に出し(百韻で月は七回、花は四回が基本)、恋や旅、神祇、釈教などの題材は、続けてよい句数と、次に出すまでの間隔が決まっている。始めは穏やかに、中ほどで変化をつけ、終わりは軽く収める。

だから連歌には、一人の作者もいなければ、全体を通した筋もない。前の人の句を自分なりに読み替え、そこから別の景色へ移っていく。筋ができそうになると、むしろ壊す。読む者は、句と句のつなぎ目に生まれる意外さを味わう。和歌が一人の心を詠む詩だとすれば、連歌は座の詩だった。
その連歌を頂点に押し上げたのが宗祇である。出自ははっきりしない。若くして京の相国寺にいたとされ、30歳を過ぎてから連歌を宗砌や心敬に学んだ。公家でも武家でもない者が、言葉の技量だけで当代一の宗匠になった。
彼が盛りを迎えたのは、応仁の乱とその後の時代である。京は焼け、公家や文化人の多くは地方の大名を頼って都を離れた。宗祇も旅を重ね、越後の上杉、周防の大内、越前の朝倉などの城下で連歌を巻き、『源氏物語』や『伊勢物語』、『古今和歌集』を講じた。地方の武士にとって、都の文化を直接に学ぶ機会だった。1471年には東常縁から古今伝授(『古今和歌集』の解釈の秘伝)を受け、それを弟子へ伝えていく筋道を作っている。連歌師は、戦乱で分断された都と地方を、言葉と人の行き来でつないだ。

1488年正月22日、摂津の水無瀬で、宗祇は弟子の肖柏、宗長と三人で百韻を巻いた。水無瀬は、承久の乱に敗れて隠岐へ流された後鳥羽院の離宮があった地で、この年は院の二百五十年忌にあたる。百韻は院を祀る御影堂に奉納された。これが『水無瀬三吟百韻』である。
発句は宗祇の「雪ながら山もと霞む夕べかな」。後鳥羽院の名高い和歌「見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」を踏まえ、雪の残る山すそに春の霞がかかる夕べを詠んだ。院が秋に劣らぬとたたえた春の夕べを、いまここで迎えている、という挨拶でもある。脇句は肖柏の「行く水遠く梅にほふ里」。第三は宗長の「川風に一むら柳春見えて」。雪から水へ、水から梅の里へ、さらに川風に揺れる柳へと、景色が少しずつずれながら移っていく。ここから先も97句、四季と恋と旅と無常が、つながっては離れる。式目を守りながら少しも窮屈さを見せないこの百韻は、連歌の手本とされ、いまも最高作の一つに数えられる。

1495年、宗祇は猪苗代兼載らと『新撰菟玖波集』を撰んだ。勅撰に准じる扱いを受けた連歌集で、連歌が和歌と並ぶ文芸として認められたことを示す。1502年、旅の途中に箱根湯本で没した。最期は宗長が看取り、『宗祇終焉記』に書き残している。
その後、連歌は規則が細かくなるにつれて、形が固くなっていった。代わりに、式目をゆるめて笑いや俗語を入れた俳諧の連歌が広まる。山崎宗鑑や荒木田守武に始まり、松永貞徳、西山宗因を経て、松尾芭蕉がこれを芸術に高めた。宗祇に「世にふるもさらに時雨の宿りかな」という句があり、芭蕉はこれをもじって「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」と詠んでいる。旅に生き、旅に死んだ宗祇は、芭蕉にとって先を行く人だった。
連歌の第一句である発句は、やがて単独で詠まれるようになり、明治に正岡子規が広めた呼び名で、俳句と呼ばれるようになる。五・七・五の小さな詩の奥には、座で句をつなぎ合った人々の長い歴史がある。