人物

和泉式部

Izumi Shikibu
AD976年頃 – ?
平安時代重要度 5

概要

大江雅致の娘。和泉守の妻。冷泉天皇の子為尊親王と恋をし、親王が死ぬと弟敦道親王と。『和泉式部日記』。親王も死に、道長の娘彰子に仕えた。紫式部が「けしからぬ方こそあれ」「歌はいとをかし」と書いた。「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」。娘小式部内侍も歌人。

本文

生まれは976年ごろとされるが、確かではない。父は越前守などを務めた大江雅致、母は平保衡の娘である。父も母も、冷泉天皇の皇后だった昌子内親王に仕えており、彼女も少女のころからそこに出入りして「御許丸」と呼ばれたと伝えられる。本名は分からない。平安時代の女性の多くと同じく、後に残ったのは夫や父の官職にちなむ呼び名だけである。

和泉式部の肖像
和泉式部の肖像Wikimedia Commons Hannah · Public domain

20歳を過ぎたころ、和泉守の橘道貞と結婚した。「和泉式部」の名は、この夫の任国と、父の官職(式部丞)から来ている。二人のあいだには娘が生まれた。のちに歌人として知られる小式部内侍である。しかし結婚は長く続かなかった。

彼女の名を都に響かせたのは、恋だった。冷泉天皇の第三皇子、為尊親王と恋仲になり、身分違いの関係は噂になった。父は娘を勘当したといい、夫道貞との仲も絶えた。ところが1002年、親王は流行病で26歳の若さで亡くなる。翌年、喪に服していた彼女のもとに、親王の弟の敦道親王から橘の花が届けられた。ここから始まった恋を、贈り合った歌とともにつづったのが『和泉式部日記』である。親王はやがて彼女を自分の屋敷に迎え入れ、それに怒った親王の妃は実家へ帰ってしまった。

和泉式部続集切
和泉式部続集切Wikimedia Commons ReijiYamashina · CC BY 3.0

けれどもその親王も、1007年に27歳で亡くなった。二人の皇子を相次いで失った彼女は、亡き人を悼む歌を百首を超えて詠んでいる。「帥宮挽歌群」と呼ばれる歌の連なりで、彼女の歌の中でも深い悲しみをたたえたものとされる。

1009年ごろ、藤原道長に招かれ、その娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕えた。彰子の周りには紫式部や赤染衛門ら、名高い女房たちが集められていた。ちょうど紫式部が『源氏物語』(『源氏物語』)を書き継いでいたころで、道長は娘の後宮を、才ある女性たちの集う文化の中心にしようとしていた。かつて一条天皇のもう一人の后、定子に仕えた清少納言の華やかな後宮に対抗する意味もあったとされる。紫式部は日記の中で、和泉式部は趣き深く手紙をやり取りする人だが、感心できない面もある、それでも何気ない言葉にも色香があり、歌は本当にすばらしい、と書いている。品行には眉をひそめながら、才能は認めずにはいられない、という評である。道長が彼女の扇に「浮かれ女の扇」と書きつけてからかったところ、彼女は、恋の関所を越えようと越えまいと、関守でもない人がとがめないでください、という意味の歌で切り返したと伝えられる。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

その後、道長の家司を務めた藤原保昌と再婚し、夫の任国の丹後へ下った。母が都を離れているあいだ、娘の小式部内侍は、歌合で母に代作してもらうのだろうとからかわれ、大江山を越えて行く生野の道は遠いので、天の橋立の文もまだ見ていません、という歌で見事に言い返したという逸話がある。その小式部内侍は1025年、子を産んだあとに亡くなった。娘が残した孫を見て、彼女は、娘はわたしと子のどちらを哀れと思って逝ったのだろう、きっと子のほうがまさっていたに違いない、わたしも子を思う気持ちのほうがまさっていたのだから、と詠んだ。

晩年のことはほとんど分からず、亡くなった年も場所も伝わらない。病の床で詠んだとされる「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」は、のちに『小倉百人一首』の56番に選ばれた。わたしはまもなくこの世からいなくなるでしょう、あの世への思い出に、もう一度だけあなたに逢いたい、という歌である。

『古今和歌集』(『古今和歌集』)以来の宮廷の歌は、掛詞や縁語を巧みに操り、季節の景物に心を託す技巧の歌だった。和泉式部もその技巧を自在に使いこなしたが、彼女の歌では、技巧の奥から生身の感情がじかに迫ってくる。恋の相手への思いも、亡き人への嘆きも、自分の罪深さへのおそれも、飾らずに歌った。

『古今和歌集』に関わる図版:Kokin Wakashu Genei
『古今和歌集』Wikimedia Commons Public domain

彼女の歌は家集の『和泉式部集』と続集に1500首ほど残り、勅撰集では『後拾遺和歌集』に最も多くの歌が採られた。黒髪の乱れも気にせず横になると、まずこの髪をかき上げてくれた人が恋しい、と詠んだ歌、恋に悩んで貴船の社に詣でたとき、沢を飛ぶ蛍を自分の体からさまよい出た魂かと見た歌は、恋の歌の極みとされる。一方で、播磨の書写山の僧、性空に贈った「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」は、迷いの闇から闇へと入っていく自分を、どうか遠くから照らしてくださいと仏に願う歌で、恋と死と救いを一つの身で生きた人の姿を伝える。

『和泉式部日記』を本当に彼女が書いたのかについては、古くから議論がある。主人公を「女」と三人称で呼ぶことから、後の人が歌をもとに物語に仕立てたとする説もあり、古い写本の中には『和泉式部物語』と題するものもある。今日では本人の作とする見方が有力だが、決着はしていない。

「百人一首之内 和泉式部」 歌川国芳筆 1842年頃 大英博物館蔵
「百人一首之内 和泉式部」 歌川国芳筆 1842年頃 大英博物館蔵Wikimedia Commons Print artist:Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) · Public domain

同じ時代の清少納言や紫式部が、物語や随筆で名を残したのに対し、和泉式部は歌そのもので記憶された。浮かれ女と呼ばれた恋の多さは、後の世に伝説を生み、各地に彼女の墓と称するものが残っている。けれども、伝説を取り払って残るのは、自分の心を三十一文字にまっすぐ写した歌の数々である。王朝の和歌の中で、これほど自分の体と心を率直に歌った女性はいない、と評されてきた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD976年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →