概要
ガブリエル・シャネルは、孤児院で育ち、帽子の店から身を起こした。第一次世界大戦のころから、彼女は、男の下着に使われていた柔らかいジャージーの布で、コルセットの要らない、体を締めつけない服を作った。女性が自分で着られ、動き、働ける服だった。1926年、アメリカの雑誌『ヴォーグ』は、シャネルの飾りの少ない黒い短いドレスの絵を載せ、誰もが着られるこの服を、大量生産の車になぞらえて「シャネルのフォード」と呼んだ。黒は喪服の色だったが、シャネルはそれを、日常にも夜会にも着られる上品な色に変えた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
ガブリエル・シャネルは、1883年、フランスの貧しい行商人の家に生まれた。12歳で母を亡くし、父に捨てられて、修道院の孤児院で育った。そこで裁縫を覚えた。若いころは酒場で歌い、「ココ」というあだ名はそのころについたといわれる。裕福な恋人たちの援助で、1910年、パリで帽子の店を開いた。羽根や花で飾り立てた大きな帽子が流行していた時代に、彼女は飾りの少ない簡素な帽子を作って評判を取った。
1913年、シャネルは海辺の保養地ドーヴィルに服の店を開いた。第一次世界大戦が始まると、多くの女性が看護や仕事に出て、動きやすい服を求めた。シャネルは、それまで男の下着に使われていた安くて伸び縮みするジャージーの布で、体を締めつけないゆったりした服を作った。コルセットの要らない服、女性が自分ひとりで着られ、歩き、働ける服だった。彼女は自ら髪を短く切り、日焼けした肌で、男物のような上着とズボンを着こなした。
1921年、シャネルは香水「シャネルの5番」を売り出した。花の香りを人工の香料で組み立てた新しい香水は、世界で最も売れた香水の一つになった。
1926年10月、アメリカの雑誌『ヴォーグ』は、シャネルが作った、長袖の、飾りのない黒い短いドレスの絵を載せた。雑誌は、誰もが手に入れられ、誰が着ても上品に見えるこのドレスを、黒一色で量産されたフォードの自動車になぞらえて「シャネルのフォード」と呼んだ。黒は、それまで喪服や召使いの服の色だった。シャネルは、黒を、昼にも夜にも、どんな女性にも似合う洗練された色に変えた。「リトル・ブラック・ドレス」は、その後の女性の服の定番になった。
第二次世界大戦が始まるとシャネルは店を閉め、占領下のパリで、ドイツの将校と恋愛関係にあった。戦後、対独協力を疑われてスイスに移り住んだ。1954年、71歳でパリに戻ったシャネルは、ディオールのニュールック(ディオールのニュールック)を、女性を再び締めつける服だと批判し、ツイードのスーツを発表した。シャネルのスーツは、とくにアメリカで、働く女性の服として広く受け入れられた。