人物

ダンテ・アリギエーリ

Dante Alighieri
AD1265年 – AD1321年9月14日(享年56・推定)
フィレンツェ重要度 4

概要

追放先で『神曲』を書いた。ラテン語ではなく話し言葉で書いたことが、イタリア語という言語を作る。

関わったできごと(1)

『神曲』1308年 · 作者

本文

1265年、フィレンツェに生まれた。家は没落しかけた小貴族で、教皇を支持するグエルフィ(教皇派)に属していた。母は幼い頃に亡くなり、父も彼が10代のうちに世を去った。12歳のとき、親どうしの取り決めで、名門ドナーティ家の娘ジェンマとの婚約が結ばれている。

ダンテの死後の肖像(サンドロ・ボッティチェリ画、テンペラ、1495年)
ダンテの死後の肖像(サンドロ・ボッティチェリ画、テンペラ、1495年)Wikimedia Commons Sandro Botticelli · Public domain

生涯を決めた出会いは、9歳のときだったと本人が書いている。春の祝いの席で、同じ年頃の少女ベアトリーチェ(ベアトリーチェ・ポルティナーリとされる)を見た。9年後の18歳のとき、街で彼女に会釈をされ、その一度のあいさつに天にも昇る思いをした。二人の間にそれ以上の交わりがあった形跡はない。彼女は銀行家の家に嫁ぎ、1290年、24歳で亡くなった。ダンテはその喪失を、詩と散文を交えた『新生』にまとめた。理想の女性を通じて神へ向かう、という主題は、のちの大作へつながっていく。

若い頃には兵士として戦場に立ち、1289年のカンパルディーノの戦いに騎兵として加わった。政治に入るため、医師・薬種商の組合に名を連ねた。当時のフィレンツェでは、組合に属することが公職に就く条件だった。1300年の夏、市の最高職である6人の統領(プリオーレ)の一人に選ばれ、2か月間務めた。

ダンテ・アリギエーリ
ダンテ・アリギエーリWikimedia Commons Andrea del Castagno · Public domain

その頃、教皇派は「白派」と「黒派」に割れて争っていた。ダンテは、教皇が市の政治に口を出すことに反対する白派の側にいた。1301年、教皇ボニファティウス8世のもとへ使節として送られている間に、教皇の後ろ盾を得たフランス王族の軍がフィレンツェに入り、黒派が権力を握った。翌1302年、ダンテは公金横領などの罪で罰金と追放を言い渡され、出頭しなかったため、捕まれば火あぶりにするという判決に改められた。37歳だった。

以後、二度と故郷に戻らなかった。北イタリアの領主たちのもとを転々とし、ヴェローナのスカラ家などに身を寄せた。のちに『神曲』の中で、他人のパンがいかに塩辛く、他人の家の階段の上り下りがいかに辛いかを知るだろう、と追放の身を予言させている。1315年、フィレンツェは罰金を払い、罪人として公に赦しを請えば帰ってよいと伝えてきたが、ダンテは誇りを捨てる帰郷はしないとして拒んだ。死刑の判決は息子たちにまで広げられた。

ヴェローナのシニョーリ広場にある、ダンテ像
ヴェローナのシニョーリ広場にある、ダンテ像Wikimedia Commons pcs34560 · Public domain

追放の間に、ダンテは多くを書いた。ラテン語の論文『俗語論』では、人々が母から学ぶ話し言葉にも、ラテン語に劣らない文学の言葉になる力があると論じた。『饗宴』は、学問をラテン語の読めない人々に届けるため、あえて話し言葉で書いたと述べている。『帝政論』では、皇帝の権力は教皇を通さず直接神から来ると主張し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアの争いを収めてくれることを期待した。だが皇帝は1313年に急死し、その望みも絶たれた。

1308年頃から亡くなる直前までかけて書かれたのが、地獄・煉獄・天国の三部、100の歌からなる長編詩である(『神曲』)。1300年の復活祭の頃、人生の道の半ばで暗い森に迷い込んだ詩人が、古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて地獄と煉獄をめぐり、最後は天国でベアトリーチェに迎えられる。3行ずつ韻をつないでいく形式で、全体はおよそ1万4千行に及ぶ。

『神曲』に関わる図版:Dante Domenico di Michelino
『神曲』Wikimedia Commons Domenico di Michelino / After Alesso Baldovinetti · Public domain

この旅の中に、ダンテは実在の人々を置いた。夫の弟と恋に落ち、夫に殺されたフランチェスカ、息子たちとともに塔に閉じ込められて飢え死にしたウゴリーノ伯。政敵たちも、同時代の教皇たちも地獄に落とした。物語の時点の1300年にはボニファティウス8世はまだ生きていたが、地獄で別の教皇に、彼のための場所が用意されていると言わせている。追放した者たちへの報復でもあり、自分の生きた時代全体への審判でもあった。

作品は、ラテン語ではなく、フィレンツェを含むトスカーナ地方の話し言葉で書かれた。当時、まじめな文学や学問はラテン語で書くのが当たり前だった。この作品が写本で広く読まれ、暗唱されたことで、トスカーナの言葉がイタリア各地の書き言葉の手本になった。ダンテが「イタリア語の父」と呼ばれる理由である。

ベアトリーチェ
ベアトリーチェWikimedia Commons Dante Gabriel Rossetti · Public domain

晩年はラヴェンナの領主のもとで過ごした。1321年、ヴェネツィアへの使節の帰りにマラリアにかかり、9月13日から14日にかけての夜に亡くなった。56歳だった。天国篇の最後の歌を書き上げたのは、死の少し前だったとされる。

死後まもなく、作品の評価は高まった。のちの世代のボッカッチョはダンテの伝記を書き、フィレンツェで公開講義を行った。「神聖な」という形容を付けたのもボッカッチョで、題に「神曲」(神聖な喜劇)が定着するのは16世紀のことである。ペトラルカは、ダンテとは距離を置きながらも、俗語で詩を書く道を引き継いだ。フィレンツェは何度もラヴェンナに遺骨の返還を求めたが、修道士たちが骨を隠して渡さなかった。ダンテはいまもラヴェンナに眠っている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1265年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →