虚栄の焼却
概要
メディチを追ったフィレンツェで、ドミニコ会の説教師が街を「神の共和国」にした。謝肉祭の日、シニョリーア広場で鏡、化粧、本、絵、楽器を積んで焼いた。ボッティチェリは自分の絵を投げ入れたと伝える。翌年、同じ広場で彼が焼かれた。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(1)
サヴォナローラAD1452年9月21日–AD1498年5月23日 · 説教師本文
15世紀のフィレンツェは、銀行家のメディチ家が事実上治める町だった。ロレンツォ・デ・メディチの時代、町には詩人や哲学者や画家が集まり、ギリシアやローマの古典がもてはやされた。その華やかさに背を向け、贅沢と堕落を激しく責める説教で人々を引きつけたのが、北イタリアのフェラーラ生まれのドミニコ会の修道士サヴォナローラである。サン・マルコ修道院の院長となった彼は、教会と町が悔い改めなければ、アルプスの向こうから神の剣が下ると説き続けた。
1494年、その予言が当たったように見えた。フランス王シャルル8世が大軍でイタリアに攻め込み、ロレンツォの跡を継いだピエロ・デ・メディチは、戦わずに要塞を明け渡して王に降った。怒った市民はメディチ家を町から追い出した。シャルルとの交渉に立ったサヴォナローラは、たちまち町の精神の指導者になる。新しく作られた大評議会は、数千人の市民が加わる共和国の議会で、彼はキリストこそがフィレンツェの王であると唱え、町を神の国にしようと呼びかけた。

サヴォナローラは少年たちを組織した。白い服を着た少年の隊が家々を回り、賭けごとのカードやサイコロ、化粧品、ぜいたくな服、みだらとされた本や絵を「虚栄」として差し出させた。断食が勧められ、謝肉祭のばか騒ぎは祈りと行列に置き換えられた。賭博や男色を密告させることも行われた。修道院に入る若者が増え、町は熱に浮かされたような信仰の空気に包まれた。
1497年2月7日、謝肉祭の最後の火曜日、シニョリーア広場の真ん中に、何段にも積み上げた巨大な山が作られた。鏡、化粧品、香水、かつら、仮面、トランプ、サイコロ、チェスの盤、楽器、そしてボッカッチョやペトラルカの詩集、裸の女を描いた絵が積まれた。ヴェネツィアの商人がこれをまとめて買い取りたいと申し出たところ、その商人の肖像が描かれて山の上に置かれた、という話も伝わる。少年たちが歌い、鐘が鳴らされる中、山に火がつけられた。翌1498年の謝肉祭にも、同じ焼却が繰り返された。

画家のボッティチェリはサヴォナローラに心酔し、自分の絵を火に投げ入れたと語られてきた。ただ、これは16世紀の画家の伝記作家ヴァザーリなどの話から広まったもので、確かな同時代の記録は無い。ボッティチェリはその後も描き続け、1500年ごろの『神秘の降誕』には、サヴォナローラの説教の影響が濃く表れている。メディチ家の別荘に掛けられていた『ヴィーナスの誕生』は、火の手を逃れて残った。
町の熱狂は長く続かなかった。サヴォナローラは教皇アレクサンデル6世の腐敗も容赦なく責め、教皇は説教を禁じ、1497年5月には彼を破門した。サヴォナローラは破門を無効だと言って説教を続けた。フランスとの同盟にこだわる彼の政治は町を孤立させ、商売は落ち込み、熱狂に疲れた市民の間に反発が広がっていく。1498年4月、フランチェスコ会の修道士が、真に神の側にいる者なら燃える火の中を歩いて抜けられるはずだと「火の試練」を挑んだ。当日、双方が条件で揉めているうちに雨が降り、試練は行われないまま終わった。奇跡を期待して集まった群衆は怒り、翌日、サン・マルコ修道院を襲った。

捕らえられたサヴォナローラは拷問にかけられ、自分は預言者ではなかったという供述を取られた。1498年5月23日、二人の修道士とともに、虚栄を焼いたのと同じシニョリーア広場で絞首され、遺体は焼かれて、灰はアルノ川に流された。広場の石畳には、いまもその場所を示す銘板がはめこまれ、毎年5月23日には花が撒かれる。
ニッコロ・マキャヴェッリは、のちに『マキャヴェッリ『君主論』』で、武器を持たない預言者は滅びると書き、その例にサヴォナローラを挙げた。人々が信じなくなったとき、信じさせ続ける力を持たなかった、というのである。一方、教会の腐敗を責めて火刑に倒れた修道士は、20年後に宗教改革を始めるマルティン・ルターからも先駆者として称えられた。サン・マルコ修道院には、彼の弟子となった画家フラ・バルトロメオの描いた、鋭い横顔の肖像が残っている。ルネサンスの真ん中で美しいものを焼いた男は、自分もまた、その町の人々の手で焼かれた。