できごと

絵具のチューブ

The collapsible paint tube
AD1841年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1841年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1841年の版図を描いています(22勢力)。

概要

それまで絵具は、顔料を油で練って豚の膀胱に詰め、使うたびに針で穴を開けた。乾く。漏れる。持ち運べない。1841年、アメリカ人の画家ジョン・ゴフ・ランドが、錫の折りたためる筒に詰める方法を特許にした。絵具が保存でき、持ち運べる。屋外で、その場の光を見ながら描けるようになった。同じ頃、鉄道が郊外へ延びていた。ルノワールは後にこう言った。「絵具のチューブがなければ、セザンヌも、モネも、印象派もなかった」。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

19世紀の初めまで、油絵の具は画家が自分の工房で作るものだった。作るのは弟子の仕事である。石の板の上で顔料を乳棒ですりつぶし、亜麻仁油やケシ油を少しずつ加えて練り、粘りを見ながら、その日に使う分だけを用意する。作った絵の具は長くは持たない。放っておけば油が空気に触れて固まってしまう。

18世紀の後半になると、ロンドンやパリには、顔料を油で練った絵の具を売る画材商が現れ、画家は工房で一から練らなくても絵の具を買えるようになった。問題は、それをどう保存し、どう運ぶかだった。保存の工夫として使われたのが、豚の膀胱である。練った絵の具を膀胱に詰めて紐で縛り、使うときに針で穴をあけて押し出す。だが穴は塞ぎにくく、骨や象牙の栓を刺しても漏れた。膀胱そのものも乾いて割れ、強く押せば破裂し、鞄に入れれば潰れる。一度開けたものは数日で固まった。19世紀に入ると、金属やガラスで作った注射器のような容器も試されたが、重く、高く、割れやすかった。

家庭用接着剤のチューブ入り広告
家庭用接着剤のチューブ入り広告Wikimedia Commons Babi Hijau · Public domain

そのため、画家は屋外で油絵を仕上げることがほとんどできなかった。外では鉛筆や木炭や水彩で写生をし、それを持ち帰って工房で油絵に組み立てる。19世紀前半までの風景画の多くは、工房の中で構成された風景である。イギリスのコンスタブルやターナーのように屋外で油彩の習作を描いた画家もいたが、それは小さな板に限られた色で手早く描くもので、作品そのものではなかった。

1841年、ロンドンに住んでいたアメリカ人の肖像画家ジョン・ゴフ・ランドが、柔らかい錫の板で作った折りたためる筒に絵の具を詰め、口をねじ蓋で閉じる方法を考え、9月にイギリスで特許を取った。仕組みはいまの絵の具のチューブとほとんど変わらない。柔らかい金属なので押せば出る。押した形のまま凹んで戻らないので、中に空気が入らない。蓋を閉めれば何か月も持つ。軽くて鞄に入る。ロンドンの画材商はまもなくこの方式を採り入れ、チューブに入った油絵の具が店に並ぶようになった。ランドはのちにアメリカへ戻り、その名は長く忘れられた。

歯磨き粉「ゾンヴァイス」のチューブ広告
歯磨き粉「ゾンヴァイス」のチューブ広告Wikimedia Commons Unknown author Unknown author (advertisement) · Public domain

同じころ、化学は新しい顔料を次々に送り出していた。19世紀の初めにはコバルト・ブルーやクロム・イエローが作られ、1820年代の終わりには人工のウルトラマリンが生まれた。かつて宝石のラピスラズリを砕いて作り、金よりも高いとまで言われた青(ラピスラズリと群青)が、ずっと安く手に入るようになったのである。続いてカドミウムの黄や、透明な緑のビリジアン、空の色のセルリアン・ブルーが加わった。明るく、鮮やかで、変色しにくい色が、手の届く値段で買えるようになった。

もう一つの変化は鉄道である。1837年にパリとサン=ジェルマン=アン=レーを結ぶ線が開業し、1840年代から50年代にかけて、セーヌ川沿いの村々やノルマンディーの海岸へ線路が延びた。アルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポントワーズ、エトルタ。朝にパリを出て、絵の具の箱と折りたたみのイーゼルを抱えて郊外で描き、夕方に帰ってくることができるようになった。

シェフィールド社の歯磨き粉チューブの広告
シェフィールド社の歯磨き粉チューブの広告Wikimedia Commons unknown -- ad from 1890s · Public domain

チューブ入りの絵の具、明るい新しい顔料、そして鉄道。三つがそろった1860年代、モネ、ルノワール、シスレー、バジール、ピサロといった若い画家たちが、屋外で、その場の光を見ながら油絵そのものを描き始めた。先に、フォンテーヌブローの森に集まったバルビゾン派の画家たちが戸外で写生をしていたが、彼らは多くを工房で仕上げていた。若い画家たちは、その最後の段階まで外へ持ち出したのである。

光は数十分で変わる。その瞬間をとらえるには、その場で速く描かなければならない。だから絵の具をパレットで混ぜ合わせる代わりに、色を画面に並べて置いた。筆の跡が残り、輪郭はぼやける。影は黒ではなく、青や紫で描いた。晴れた日の影は青空からの光に照らされていて、実際に青みを帯びている。モネはのちに、同じ積みわらや同じ大聖堂の正面を、時刻や天気を変えて何十枚も描いた。描こうとしたのはものの形より、そのときの光だった。

1874年、彼らは自分たちで展覧会を開いた(第一回印象派展)。モネの『印象、日の出』をもじって、ある批評家が皮肉まじりに「印象派」と呼び、それがそのまま名前になった。ルノワールの息子で映画監督のジャン・ルノワールは、父の思い出を書いた本の中で、チューブ入りの絵の具がなければセザンヌもモネもシスレーもピサロも、のちに印象派と呼ばれるものも無かっただろう、と父が語ったと記している。

チューブは画家の暮らしを変え続けた。折りたたみの画架や日傘を含む屋外写生の道具一式が商品になり、19世紀の終わりには、川辺や海辺でイーゼルを立てる画家の姿はありふれた光景になった。フィンセント・ファン・ゴッホは南フランスの麦畑の中に立って、強い風の中で描いた。錫はやがて高価になり、いまのチューブはアルミニウムや樹脂を重ねたものに変わったが、形は1841年の特許の図とほとんど同じである。1890年代には、アメリカの歯科医が絵の具のチューブにならって歯磨きを詰めて売り出したとされ、この筒は画材の店を出て、家々の洗面台にも置かれるようになった。

同じ時代のできごと

ギリシア独立戦争1821年チェロキー文字の完成AD1821年伊能忠敬の日本図AD1821年二宮尊徳の村の立て直しAD1820年代ブラジルの独立AD1822年9月7日動物を守る法AD1822年ロゼッタ・ストーンの解読AD1822年9月ウイスキーと酒税AD1823年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1841年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →